第2話「お里からの男たち」

 あくる朝早く、仁太は弓矢を持って出かけていった。

「猟へ、行ったのだ」

 ほっとした清吉は家の外に出た。はるか向こうに見えるお山さんの頂上に、お願えします、お願えします、と念仏でも唱えるようにくり返しながら手を合わせる。

 その時頂上のほうから、村に向かって吹き下ろしてくる冷たい風が起こった。清吉は思わず体をすくめる。

「お山さんが返事をよこしてくれたのだ! 今日はお山さんも機嫌がいい、仁の奴は、こりゃ、きっとえらいのを仕留めて帰ってくるぞ!」

 叫びたいほど嬉しくなって、心の内でそう思った。清吉は昨夜の重苦しい気分が嘘のように晴れていき、便所へでも行くか、と頂上に背を向けた。すると、おーい、と下のほうから声が聞こえた気がした。清吉の家は村はずれで、ここより下に家はない。あるのは深い森――お山さんの森だけだ。

 振り返ってみると、遠く向こうに、薄汚れた身なりの男の姿が見えた。手を振りながら歩いてくる。そのさらに後ろでは、何人もの男たちが、疲れ果てているのかぐったりと大木の幹に寄りかかり、うずくまっている。

 男たちがいるあたりはお山さんの森への入り口で、「森の口」と村の人びとには呼ばれていた。そこから先はどこまで行っても背の高い木々があるばかりの鬱蒼とした森だ。

 森の口の両側の、ちょうど門柱のようにまっすぐ伸びたブナの幹にもたれている男たちを眺め直してみると、彼らのすぐそばに、米俵をくくりつけた背板が置かれてある。

 途端、清吉は目を輝かせた。そして大声で、

「来たぞ、来たぞ! お里からやってきたぞぉ!」

 気でも違ったように、そうくり返した。

「ほんとか? お里から来たのか?」

 清吉の声を聞くや、隣の家の松っちゃんの嫁が、もうすぐ三つになる子供を抱いたまま家から飛び出してきて、

「来たぞ、来たぞ、お里からやってきたぞぉ!」

 清吉と一緒になって大声をあげた。やがて村の上のほうからも、

「来たぞ、来たぞぉ!」

 そんな声とともに村の連中がぞろぞろ下りてきた。彼らは清吉の家の前を通りすぎて、お里の男たちがいる森の口へと向かっていった。

 清吉は、しばらくの間その場で踊るように喜んでいたが、村の者たちの行列も遠ざかり、ぽつんとひとり取り残されてしまった。それに気づいて、慌てて行列を追いかける。下へと向かう行列の、一番後ろに、ひょこひょことついていった。子供を抱えた松っちゃんの嫁は清吉など待たずに、先頭近くにいる。清吉は不自由な右足をひきずって、前のめりに、転びそうになるのをこらえながら坂道を下った。

 清吉が森の口へたどり着く前に、行列の村人たちはお里の連中を立たせ、背板を担いでやって、たった今下った道を戻ってきた。道のまん中に立っていた清吉は彼らの邪魔にならないよう横に退く。行列はまた清吉の前を通りすぎた。清吉は右足をひきずりながら、今度は後ろにつんのめりそうになりながら、行列を追いかけた。

 お里の男たちは、徳三の家に通された。

 徳三の家は代々、村の世話役のように頼りにされていた。村人たちは何かあるたびに徳三の家に集まった。これといって大きな家ではなかったので、中がいっぱいになってしまい入ることのできなかった者は、建物を取り囲むようにして家の外に立ったり座ったりするのだった。徳三の家は村のちょうどまん中にあり、村の上方からも下方からも集まるのにちょうどよかった。だが皆が徳三の家に集まるのは、頼りにされているからで、家の位置など関係がなかった。

 清吉は他の者たちよりかなり遅れて徳三の家に着いた。中は徳三の家の者とお里の男たちですでにいっぱいで、戸口の木戸も閉められていた。入りそびれた者たちが、地べたに尻をつき、家のほうを見つめている。清吉も輪に加わろうと地べたに座った。ひきずって疲れた足を、ぐいぐいと揉みながら、

「お里から来たなぁ。わしがいちばんに見つけたのだぞ」

 手柄を誇るような口ぶりで、誰にともなく言った。

「そりゃぁ、おめえん家は村の下っぱらにあるんだから、いちばんに見つけて当たりめえだ」

 誰かが呆れたような口調で返した。他の者たちも「そうさぁ」「あたりめえだぁ」などと言い出したので、清吉はいじけて黙り込んだ。家の中ではお里の男たちへの振る舞いの席がもう始まるのか、笑い声が外にまで聞こえてくる。

「どうじゃ、十人はおったが、たっぷり持ってきてたか?」

 清吉は男たちの笑い声で思い出したように、そばの連中にそう聞いた。

「馬鹿、十人じゃねえ、十二人だぞ。あんだけいるんだ、たんまり持ってきてるに違えねえぞ」

 一人が笑いをかみ殺しながら答えた。嬉しくてたまらないのだ。清吉も、十二人と聞いただけで嬉しくなった。足の疲れもどこかへいってしまう。

 家の中からはしばらく笑い声が聞こえていた。だが、急に静かになってしまった。 

「どうしたのだ? 急に」

 不思議に思って、清吉は家の戸口に耳を当てていた痩せた女にそう聞いた。

「米が、思ったより少なかったみてえだ、困ったことだよぉ」

 女は清吉にでも怒るように答えた。

「あれ、そりゃ困ったことだ。どうしてだ、十二人もおるっつーのに」

「ほんとだよぉ、人の数だけ前の年より多くて、肝心の米が少ないなんて、こりゃ困ったことだよ」

 女はもう怒りを隠そうともしない。眉毛を吊り上げて言う。米が前の年より少ないと聞いて、他の者たちも、途端に苛立ち始めた。地面の土をつかみあげ、当たり散らすようにばっと放る者もいた。

 家の木戸が開き、徳婆の伜の豪太が出てきた。戸のすぐ前に立っていた痩せた女が、びっくりして後ろに下がり、つまづきそうになる。豪太はそれを見ても何も言わず、手も貸さずに、ただじっと外の者たちを順に見渡している。豪太の態度に何か察したのか、村の者たちは、一人また一人と立ち上がって、観念したように無言のまま帰り始めた。しかたなく清吉も、がっくりと肩を落とし自分の家まで下りていった。

 今晩、お里の男たちは徳三の家で酒や食い物を振る舞われ、明日、いい気分のままお里へ帰るのだ。米の量、配分などくわしいことは、そのあとで村の者たちに知らされる。そういう習わしであるために、この日は誰もが、知りたいのをぐっとこらえて明日を待たなければならなかった。

 昼すぎに、仁太が猟から帰ってきた。手には弓と矢だけで、獲物はない。ぬかるみにでも落としたのか、弓は泥で汚れていた。しょんぼりと、木戸のきしる音も立てないほど静かに入ってきたので、横になって考えごとをしていた清吉は驚いた。

「馬鹿、そんなに音もなしに入ってくるな」

 叱りつけたあと、しまった、怒るようなことじゃなかった、と思ったが、怒られた仁太のほうは、

「ああ、すまねえ」

 しおらしい様子なのである。清吉はほっとしたが、すぐに、今日もだめだったか、とがっかりした。だが顔には少しもそれを出さずに、

「茶でも飲むかぁ」

 そう言って、湯を沸かして仁太に茶をいれてやった。茶といっても、お山さんの森で採ってくる木々の葉っぱを乾かしたものに湯をかけただけの、本来の茶とはまったく違う代物だ。山奥にある貧しいこの村では、お里で飲まれているような茶など、あるわけもなかった。白湯の中にかすかに苦みを感じるだけの薄い茶。清吉は、茶といえばこの味しか知らなかった。村では誰もがそうだった。その茶を音を立ててすすってから、

「だめだ、だめだ。今日もてんでいかん。正吉の奴ぁ鹿を仕留めただのに」

 仁太はため息をついて言った。正吉は仁太より五つも年上だが、頭の回りがやたらと遅く、だらしもなくて嫁をもったことさえない、村では誰からも馬鹿にされている男だった。その正吉が鹿を仕留めたというので、清吉も目を丸くした。

「正吉が仕留めたのか? あの正吉が」

 しばらくの間、二人とも言葉を忘れたように黙っていた。

「あの弓が、いかんのかもしれん」

 ふいに仁太が、そんなことを口走った。清吉は思わず怒鳴った。

「何を? てめぇは何を言い出すか! てめぇの腕の悪いのを、弓のせいにしやがって」

 言って、すぐに後悔した。仁太を怒らせてしまったと思ったのだ。おそるおそる目玉だけ動かし、仁太の顔を見る。仁太は顔を真っ赤に膨らませていた。今に殴りかかってこないか、と清吉は不安だった。だがそれ以上に、これでまた仁太の奴が、猟には行かない、などと言い出さないかとそのほうが心配だった。家には清吉と仁太の二人しかいないが、奴にはまた嫁をもらってもらわねば困るし、そうなれば子供だって育てていかなければならないのだ。村では作物はわずかしか育たず、お山さんの森で採れる鹿や野うさぎが何よりの食い物だが、伜の仁太が猟もろくにできないままでは、この家はどうなる。

 仁太は押し黙っていた。だがしばらく経って、突然立ち上がった。そして何も言わずに、乱暴に木戸を開けて出ていってしまった。

 あとに残された清吉は、大きくため息をついた。腰を上げ、仁太の弓を手にとり、こびりついている泥を服の袖で拭いとる。

 どこをほっつき歩いているのか、仁太は長いこと帰ってこなかった。

 夜もすっかり更けた頃になって、入り口の戸が開いた。仁太だった。清吉に何も言わないまま寝床に入り、ごろんと横になって寝てしまった。清吉はその晩、仁太を放っておいてやることにした。

 土間の隅に立てかけられた弓の泥は、きれいに落とされてあった。

 

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