無明祭考

神谷ボコ

第1話「暴祭」

「肉を! 肉を!」

 また男が叫んだ。

 そして手にしたナタを振り上げて、地べたにいる者たちに近づき、その一番手前の年寄りに向かって、振り下ろす。躊躇なく振られたナタは、年寄りの頭に、斜めに深々とめり込んだ。男がナタを引き抜くと、年寄りは悲鳴もあげずに、その場に前のめりに倒れた。

 地獄のようなその光景を目にしながら、セツは思った。

 ——サイが、始まったのだ。




 時は、さかのぼり——。

 見えるのは、山ばかりだ。

 村は、奥州の険しい山間にひっそりと存在していた。あたりに他の村などひとつとしてない、二十軒ほどの寂しい村だった。

 家々は、傾斜のきつい山肌にへばりつくようにして建っていた。村の中央を一本の坂道が走っており、道の両側に点々と、ほったて小屋のようなわらぶきの家が並んでいる。その家々の、一番下に、清吉の家はあった。

 清吉は鹿猟をやらせれば、村では右に出る者のない腕前だった。だが何年も前、猟の最中に右足をひどく怪我して以来、狩りには出ていない。清吉がこれまで数え切れない鹿を仕留めてきた弓は、今は、伜の仁太が使っている。


 その日、昼飯を食べ終えた清吉がうとうと居眠りを始めた頃、荒い足音を立てて、仁太が猟から帰ってきた。

「だめだ、だめだ」

 木戸を引き開けながら、仁太はそんなことを言っている。

「なんだ、うまくいかなかったのか」

 清吉は編んでいたムシロから目を上げて、聞いた。

「だめだ、今日は少しも当たらんでよ、てんでだめだ」

「なあに、しょうがねえ、しょうがねえさ」

「獲物はいたんだがなあ、当たったのは五平のだけだ。そんでも、尻をかすっただけだったから、結局逃げられたわ。だめだな、てんでだめだ」

 土間の隅に弓と矢筒を置いてから、仁太は清吉に背を向けて草履を脱ぎ始めた。

 清吉は、ところどころ漆喰の剥げ落ちた壁に立てかけられた弓を睨むように見つめて、弦の張りが甘えな、と思ったが、

「なあに、今日はお山さんの機嫌がわりいのだ。しょうがねえよ、しょうがねえ」

 そうとだけ繰り返した。

 山に囲まれたこの村では、北の方角にひと際高くそびえる山を「お山さん」と呼んでいた。お山さんの、いつでも白い雪が積もっている頂上には、偉い神様が住んでいるのだと、見たこともないのに誰もが崇めていた。困ったことがあれば、村人はまずお山さんの頂上に向かって拝むのだった。

 仁太が、わらくずみたいに細い目をさらに細めて自分を見てくるので、

「そんなことより、お里のもんがまだ来ねえぞ。もう冬も近えってのに」

 清吉は言って、顔をそむけた。

「どうせ、また道に迷ったんさ。ほんとにたまにしか来んから、道らしい道なんかできやしねえしな」

 仁太は言うが、その目は、土間の弓に向けられている。挑むような眼差しだ。まだ今日のことを気にしてやがるのか、そう思った清吉はいいかげん呆れて、

「そろそろ、お里からも来てくれんと。雪もちらつき始めてしまうぞ」

 猟の話題に戻らないよう、仁太を気づかって言った。

「そうなりゃ、どうせ猟もうまくいかん。だめだなあ、ほんとに」

 だが仁太は、どうしても猟の話に戻ってしまう。不機嫌そうな顔で弓を見つめたままだ。清吉は、なんだか馬鹿馬鹿しくなってきた。

「なあに、しょうがねえさ」

 そう言い残して立ち上がり、外の便所へ行くことにした。

 ついさっき仁太が閉じた戸を、また引き開けて外へ出る。家屋のすぐ隣にある便所へ入ろうとする清吉に、誰かが後ろから声をかけた。

「おい、お里からは、まだ来んらしいなあ」

 隣に住む松っちゃんである。伜の仁太と同じ三十三だが、奴よりずっと若々しく、弓の腕前も格段によかった。松っちゃんが早くに貰った嫁は、何年かまえに病気で死んでしまった。嫁との間に子供はなかったものの、すぐに後添が来ることになり、それから男の子を授かって、その子はもうすぐ三つになる。

 清吉は、松っちゃんのような頼もしい伜を持った、隣の親父が羨ましかった。その親父は前の年の冬に死んだ。おとむらいの日、村の男たちで担ぐ棺桶が、だしぬけに起こった強風に煽られて外れ、すぐ後ろを歩いていた清吉は桶の中をちらっと見てしまった。思わず、あっ、と声をあげてしまうほど痩せ細って皮もない、ほとんど骨だけの親父の骸が、膝を抱えて桶の底に座っていた。

 松っちゃんも仁太と同じく猟から帰ってきたところらしく、手には弓を抱えていた。

「そうらしい、道に迷ってるらしいなあ」

 清吉は教えるような口ぶりで答えた。

「どうだかな、お里も楽じゃないのかもしれん。もう来んかもしれんぞ」

 松っちゃんはお里をでも睨みつけるように、はるか遠くの景色を見下ろしながら、苦々しい顔をしている。

「そんなことがあるわきゃあ。お里のもんが来んで、わしらはどうやって冬を!」

 清吉は思わず怒鳴った。

「お里だって冬を越さにゃならんのだ、こっちの面倒まで見ておれんのかもな」

 怒鳴られても構わずに、松っちゃんはそんなことばかり言う。清吉は思いきり顔をしかめ、

「わしは、便所へ」

 そう言って、そそくさと松っちゃんに背を向けた。便所の、きしむ木戸を閉めてうずくまっていると、外から、家に帰りながらぶつくさと何か言う松っちゃんの声が聞こえる。声はすぐに遠ざかり、やがて聞こえなくなった。


 その晩、清吉が飯を食い終わってムシロを編んでいると、家の隅で横になっていた仁太が、

「明日は猟には行かん」

 ひとりごつような口ぶりで言った。

「なんだ、具合でもわりいのか?」

 いきなり言われて驚いた清吉は、思わずそう聞き返した。

「そんなんじゃねえが、とにかく行かんことに決めたのだ」

 仁太は細い目で天井を眺めている。

 清吉は、今日のことをまだ気にしてやがる、どうしようもねえ奴だ、と、ほとほと馬鹿らしく思えてきた。

 晩飯前、仁太がのんきに居眠りをしている間に、清吉はこっそり弦の張りを直しておいてやったのだ。だが仁太は、さっき泥を落とそうと弓に触ったくせに、そのことに気づきもせず、明日は行かん、などと情けないことを言う。

 この家には清吉と仁太の二人しかいないから、食い物はよその家ほど必要もない。しかし仁太には、もっと猟に出て腕を上げてもらいたい。清吉はそう思っていた。腕が上がれば自信もつく。奴のねじ曲がった根性も、少しはましになるだろう。そうすれば、新しい嫁も来てくれるかもしれない。

 仁太の前の嫁は、村で一番頼りにされている「徳三の家」からもらった若い娘だった。徳三という人物はとっくの昔に死んでいたが、かつて村を救った、大変に偉い人物だと言われていた。例年にも増してひどい冷害のために食う物がなくなり、いよいよ冬を越すことが難しいと思われたある年、徳三は機転を利かせて村の人びとを救ったのだという。

 それからずっと、徳三の一族は「村を守った偉い家だ」と言われ、当人が死んでからも、「徳三の家」と呼ばれて誰からも頼りにされていた。

 徳三の家で、今一番高齢の徳婆は「この家のご先祖さまは『祝祭』をやって村を救ったのだぞ」

 時折思い出したようにそんなことを言った。その徳三の家から来た嫁は、仁太にはもったいないほど器量のよい娘だった。

 だが仁太のひねくれた根性と乱暴に耐えかねて、一年と経たず、実家へ帰ってしまったのだ。仁太は嫁をよく殴った。嫁はしょっちゅう泣いていた。

 そしてあの晩は特別にひどかった。ちょっとした口喧嘩から逆上した仁太は、嫁の小さく整った顔をこっぴどく殴りつけた。嫁はすぐ気を失ったが、それでも殴られ続けた。嫁の顔は、取り出したばかりの鹿の肝そっくりに赤黒く腫れ上がって、次の日から三日も熱を出し、危うく死にかけたほどだった。清吉の必死の看病でようやく熱が引くと、顔の腫れも収まらないうちに家を飛び出し、実家へ逃げ帰ってしまった。そして次の年すぐに、今度は丸平にもらわれた。

 丸平は清吉の家から三つ上の家に住むおとなしい性分の、口が利けないのではというほどに寡黙な男だった。自分の家の者ともほとんど話もしないような奴であったため、こりゃあ嫁になどやってくる物好きはいないだろうと、家の者からでさえ、そう思われていた。

 そこへ嫁が、それも徳三の家から若く美しい嫁が来ることが決まって、その晩は家中まるで気狂いのように踊り続けた。三つ下の清吉の家では、便所に出てきてその騒ぎ声を耳にした仁太が、悔しさから怒り狂い、清吉は一晩中愚かな伜をなだめる羽目になったのだ。


「お里のもんは来ねえかもしれんのだから、おめえにゃ、猟に行ってもらわんと」

 清吉は諭すように言って、立ち上がり、土間に置かれた弓を手に持ってきて元の場所に座った。

「こいつで、明日はきっとえらいのを仕留められるぞ。お山さんの機嫌も、明日にはよくなっているさ」

 待ちに待った初孫の頭でも撫でるように、弓をさすりながら言う。

「お里のもんはどうしたのだ? ええ加減に来てもらわんと」

 仁太がいきなり話題を変えた。お里の話をしたいらしい。

 清吉は弓をそっと脇に置くと、

「お里も冬は楽じゃねえから、もう来んのかもしれん」

 苦々しい面持ちで答え、うつむいた。

 仁太もそれに倣うようにうなだれると、

「そうなったら、おらたちはどうやって冬を……」

 言いかけて止める。清吉も黙っている。言葉は継がれないまま、重々しく夜が更けていった。

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