私とイチと好きな人(5)
食事を済ませて舞台に戻ると、既に竹下先輩が居た。緑のTシャツの袖を捲くり、舞台を右往左往している。他の部員たちが戻る前に、大道具の配置を済ませてしまおうとしている様だった。
「竹下先輩、手伝います」
イチが先輩のもとに駆け寄る。私もその後に続いて、大きな木組みの台に手をかけた。
「おお。イチ、智里ありがとうな」
先輩はにかにかと笑いながら、てきぱきと指示をだす。竹下先輩の指示はとても分りやすくて的確だ。イチはそんな先輩を尊敬の眼差しで見つめている。そんなイチを見ていると、ちくりと胸の奥が痛んだ。
「よし! これでいいな」
暗転と目印のバミリを減らすため、大道具の数はそれほど多くない。何にでも転用できる木組みをメインに使い、少人数でもすぐに配置が出来るように考えて作られている。
色々な角度から舞台のバランスを確認していると、突然背中を強く叩かれた。
遠慮なく背を叩く大きな手の持ち主は振り返らずとも分る。
「竹下先輩。痛いです」
先輩は私の意見など気にする事無く、豪快に笑いながら私の頭を腕で抱え込む。その腕にも容赦なく力が込められているので、頭が締め付けられとても痛い。
「やめろ。放せ。ドメスティックだ」
「ドメスティックだけじゃ意味わかんねーぞ。どうだチサ六十四ページの壁は乗り越えられそうか」
私の髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜながら竹下先輩が言う。
「考えすぎて余計わからなくなりました」
「ドントシンクフィールだ」
竹下先輩はもう片方の手でイチの首根っこを掴むと、そのまま引き寄せた。先輩は私たちの肩に手を回すと、何やら知った風な顔でうなずいている。
「ドントシンクじゃないですよ。ドントタッチミーです」
必死になって腕をどけようとする私を他所に、竹下先輩は嫌にいい笑顔で私たちの肩をぽんぽんと叩く。
困った私は咄嗟にイチの顔を見て、何故だかそれをすごく後悔した。
イチは俯いたまま頬を染め、はにかむ様に笑っている。さっきまでのイチとは全然別人みたいだった。
竹下先輩は何も知らないのだから仕方が無いけど、でもそんな気軽さでイチに触れる手が許せなかった。こんな嬉しそうな顔をさせるなら、ちゃんと責任をとってほしい。イチの気持ちをこれ以上引っ掻き回さないで。イチだってそんな顔をするくらいなら、いっそ想いを伝えてしまえばいいのに。
私の中で燻っていた苛立ちが、じりじりと心を焦がしていく。
竹下先輩はそんな私たちの様子に構う事無くにかにかと笑いながら続けた。
「お前ら仲が良いのは結構だけどな。あまり見せ付けてくれるな。俺なんて大会が終わるまでデートはお預けなんだぞ」
竹下先輩はイチの頭をがしがしと掻きながら言う。先ほどまで咲き綻んでいたイチの顔は水を駆けられた様にさっと曇ってしまった。その今にも泣きそうな顔を見た瞬間、私の中で何かがぷつりと焼き切れた。
「竹下先輩」
「何だ」
「私たち仲が良いわけではありません」
きっぱりとそう告げると、竹下先輩はちょっと考えてイチの耳に囁きかける。
「何だお前ら喧嘩でもしたのか」
「違います!」
その問いにイチが答えるより早く返事をする。そんな私の様子に竹下先輩は目を丸くして驚いている。私とイチを交互に見比べると困ったように頬を掻いた。
「それから誰彼構わずベタベタ触るのもやめて下さい! 先輩の軽さが誰かを傷つけることだってあるんです! デートだ何だって惚気てるからそんな事もわからなくなっちゃうんですよ!」
頭の中で『落ち着け。冷静になれ』と警報が鳴り響く。それ以上言っては駄目だと誰かが言う。でも、一度堰の切れた感情はそう簡単には止まらなかった。
「イチには……。イチにはちゃんと好きな人がいるんです!」
「智里!!」
私の言葉を遮るように、イチが飛び掛ってきた。思い切り体重をかけられて、そのまま床に押し倒される。頭も背中も強く打ちつけられて酷く痛んだ。思わず声を上げそうになるが、手で押さえつけられた口では息することさえままならない。抗議の意味を込めてイチを睨み上げたその瞬間──私の息は本当に止まってしまった。
「何を! 何を言うんだよ!」
スポットライトを背負ったイチは、その縁取りを金色に輝かせていた。色素の薄い髪は光に溶けそうな程甘やかにきらめき、怒りに潤んだ瞳は陰になっても鋭く私を射抜いている。その眼差しを受けた私は、馬鹿みたいにイチを見上げている事しか出来なかった。胸の奥が錐で穿たれた様に痛い。心臓がどこにあるか分からなくなるほど、頭の中でばくばくと音をたてている。息の吸い方さえ思い出せない。それでも目を逸らすことが出来ずにいると、イチが小さく息を呑んだ。琥珀の瞳が困惑に揺れている。その奥にあるものを見つけようと目を凝らしたが、なぜか滲む視界に上手くいかなかった。
「はいはい。お前らもうその辺にしておけ」
呆れたような声音で竹下先輩は、私の上に馬乗りになっていたイチを抱え上げる。遮る物が無くなり、照明の鋭い光が直接目に入り込む。その眩しさと痛みにじわりと涙が滲んだ。
「大丈夫か? 智里。ごめんな」
そう言いながら竹下先輩は私にそっと手を差し出す。私は先輩の手を借りずに起き上がると、服についた埃をぱたぱたと払った。先輩の顔もイチの方も見ることが出来ず、下を向いたまま早口で言った。
「すみません。ちょっとお手洗いに行ってきます。時間までには戻ってきます」
「チサ」
イチに呼び止められたが、それを無視して私は体育館から駆け出した。足はがくがく震えているのに顔は熱くて堪らない。胸の奥の一点にぐっと締め付けられる痛みが集中する、いつの間にか噛み締めていた唇からは血の味がした。
嘘だ。こんな気持ちは知らない。そんな事あるわけ無い。
胸を埋める後悔と罪悪感を振り払い、私はトイレに駆け込んだ。人気の無い薄明かりの中を寄る辺の無い蛾が舞っている。チカチカと瞬く蛍光灯の下で、酷い顔をした私がじっとこちらを見ていた。鏡に映る自分が酷く醜いように思えて、私は目を伏せて個室の中に滑り込んだ。扉を閉めて鍵をかける。冷たい壁に思い切り背中を押し付けた途端に、ぼろぼろと涙が零れた。
「嘘ぉ……」
袖でどれだけ拭っても、後から後から涙は溢れてくる。
何でイチの一挙手一投足が気になって仕方が無かったのか、燻っているイチの態度に苛立ちばかりが募っていたのか。イチの恋路を応援しているつもりでいたけど、本心ではそうじゃなかった。自分でも気付かずにいた心の奥底が、あの一瞬で──強い瞳に射抜かれた、ただそれだけで、全て分かってしまった。
好きなんだ。イチが。
馬鹿みたいにまじめで、同性を好きになって、そんな大事なことうっかり私に相談しちゃうくらい迂闊で、先輩の行動全てに一喜一憂して、些細なことで幸せそうに笑って、先輩の役に立とうと必死で、それなのに告白することすら出来ないで、寂しそうに笑うだけのあの不器用な男が。自分の命よりも先輩の命を迷う事無く優先してしまうだろう彼が。
──自分はどうしようもなく好きなのだ。
間近で見つめた瞳も唇に触れた熱い掌も、痺れるほどに愛おしかった。どうしてこれまで気付かずに過ごすことが出来たのだろう。あの瞳に私だけを映して欲しい。はにかんだ笑顔を私だけに見せて欲しい。気づいた途端に溢れ出す欲求に、ただ涙だけが零れていく。そんな思いを薄めようと大きく息を吸ってみれば、塩辛く湿った空気だけが胸を満たした。
イチも私の知らないところで、こんな風に泣いていたんだろうか。竹下先輩を思って。
「好き」
口の中で溶けずに転がるその二音は、切れかけた蛍光灯の唸りに混じって消えていった。
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