私とイチと好きな人(6)
あの日から、私とイチは殆ど喋る事が無くなった。
大会へ向けての練習がいよいよ大詰めになり、息つく暇も無くなったということもあるのだが、練習中の必要最低限な会話以外交わしていない。ふとした時にイチの視線を感じる時があるが、イチを見ることすら辛くてどうしてもそれを避けてしまう。どう考えても私が悪いのに、謝らなきゃいけないのに、意固地になっている間にすっかりタイミングを逃してしまった。
「竹下先輩」
市太郎がダメ出しノートを手に竹下先輩に話しかける。通し稽古の最中に気になった所や改善点を書きとめたノートだ。以前にこっそり覗こうとして怒られた事がある。思い返せば私はイチに怒られてばかりだった。物心ついた頃から一緒に居たのだ、取り繕う必要も無く、いつでも自由気ままにイチに接していた。何度も怒らせたし喧嘩だって何回もした。それでも気がつけば仲直りしていて、何事もなかったかの様に遊んでいた。
「馬鹿みたい」
思わず溜息が漏れる。どうして私はあんな事を言ってしまったのだろう。どうして私はイチを好きだって事に気がついてしまったのだろう。もう今までの様にはいられない。私たちの間に出来た溝は絶望的で、もう二度と元の関係に戻ることは出来ないだろう。考えれば考えるほど落ち込むばかりで、私はこの前の一件もイチへの思いも無理やり心の奥底にしまいこんだ。
* * *
一心不乱に練習に取り組み、もう芝居のことしか考えない。そのお陰でここ数日の私の上達っぷりは凄かった。自分でもどこにそんな集中力があったのかと驚くほどで、通し稽古を重ねるごとに役が自分の体に馴染んでいった。舞台に立っている間は私ではない人間になれる。思考回路も感情も役に支配され、舞台の上からなら心穏やかにイチの顔を見る事が出来た。
「智里。ちょっといいか」
練習の合間。呼ばれた声に顔を上げると竹下先輩がちょっと困ったように笑っていた。
「話がある」
そう言って私の手を引いて、あの日イチとカツサンドを食べたベランダへ私を引っ張っていく。
「……何ですか?」
恐る恐る尋ねると、竹下先輩は何かを言いかけて、思い出した様に私の手を離した。
「あー。ホントに俺どうしょもないな。触るなって言われたのにコレだもんなあ。ゴメン」
先輩はばつが悪そうに視線を泳がすと、息を吐きながら言った。私が一時の激情に流され怒鳴ったことを気にしているのだ。
「いえ、私こそすみませんでした。先輩は何も悪くないんです。謝らないで下さい」
先輩が誰に対してもスキンシップ過多なのは昔からで、そういう性格だって分っていたのにあんな言い方をしてしまった。私の訳の分らない苛立ちに先輩は巻き込まれただけなのだ。
「……それで話って何ですか」
肩を落としている先輩を覗き込むように問いかける。先輩は私の目をじっと見つめたまま何か考え込んでいる。
「この前言ってた事だが……」
そう言いかけて先輩は口を噤んだ。
この前言ってたことってどれだろう。結構いろんな言葉を投げ捨てた気がする。
「誰にでも触るなって──俺の軽さが人を傷つけてるって言ったろ?」
思考を読んだタイミングで落ちる言葉に、私は素直に頷いた。
「はい。でもあれは言いすぎでした。先輩が触り魔なのは今に始まったことじゃないですし、皆そういうものだと思ってるから先輩が気にする必要はないですよ。セクハラだとかパワハラだなんてちょっとしか思ってないですから」
「もしかしてそれはフォローのつもりか」
「もしかしなくても」
顔を覆ってしまった先輩の肩に手を添える。
「それにあれは本当に私が悪かったんです。自分の気持ちが上手く整理できなくて先輩に八つ当たりしてしまっただけなんです」
先輩と真面目な言葉を交わすのが照れくさく、少しはにかんでそう言うと、先輩の肩に乗せていた手を力強く掴まれた。
「先輩?」
驚いている私に構う事無く、先輩は片手で顔を隠したままぼそりと言った。
「智里が悪いんじゃない。お前があんな事言ったのは、ちゃんと訳があったんだろう」
その聞いたことも無いほど真剣な声音に驚いて息を呑む。
「智里……」
顔を覆っていた手をどかし、これまた見たことも無いほど真剣な瞳が私のそれを覗き込む。そのおかしな雰囲気に私の背中に嫌な汗が噴出す。
「ま、ま、まさか変な勘違いしてるんじゃないですよね。あの時ああ言ったのはちょと混乱してたからで、私が先輩の事好きだとかそういうのじゃないですから。絶対! 断じて! 神に誓ってもいいです!」
取り乱して喚く私に先輩の視線に呆れの色が篭る。
「あのなぁ。誰もそんな勘違いはしてねーよ」
「へ? 違うんですか」
「違うわ。お前が誰の事を好きかなんて入部当初から知ってるし。それよりお前全力で拒否しすぎ。流石の俺もちょっと傷つくぞ」
先輩がわざとらしく落ち込んで見せたが、そんな事はどうでも良い。
「……今、何て仰いました?」
「拒否しすぎ。俺のハートは傷だらけ」
「その前です」
「前? ああ……。お前、市太郎と仲直りしろよ」
驚いて顔を上げると、先輩はまた真剣な顔に戻って私をじっと見下ろしていた。
「イチと仲直りしてやれ」
「な、何でそこでイチが出てくるんですか。それに仲直りしてやれって、悪いのは私なんだから変でしょう」
「どっちが悪いなんてどーでもいいんだよ。あいつだってそんな事気にしてない。お前、目も合わせてやらねぇじゃねーか」
眉間に皺を寄せて竹下先輩は言う。そんな事言われたって、もうどんな顔したらいいのか分らないんだからしょうがないじゃないか。
「先輩には関係ないです」
顔を背けながらそう言うと、先輩は少し声を荒げて続ける。
「あるんだよ」
訝しげに見上げれば、その目が困惑に揺れていた。
「……あるんだよ。あいつの傍に居てやってくれ」
突然どうしてそんな事を言うんだろう。先輩の言葉の意味を理解できずに無言でその先を促す。先輩は私から視線を外すと、空を旋回する鳶を見上げた。
「お前があの時どうしてあんなにキレたのか、その理由が分ったって事だ」
「……どういうことです」
ぴーひょろろと鳶が高い声で鳴く。
「この前な、市太郎と話した」
どくんと胸が大きな音をたてる。
「話したって一体何を」
私の質問に先輩は答えなかった。困ったように小さく笑うとそれきり黙りこくってしまった。
「イチは……」
きっと竹下先輩に自分の思いを告げたのだ。言わないっていってたのに、私が余計な事いったからだろうか。竹下先輩の様子をみれば、答えがどんなものだったのか分る。イチは今どんな気持ちでいるの? いつも通りに先輩の横に居るからちっとも気がつかなかった。──違う。私がイチの事、見ようとしなかったから、気がつかなかったんだ。
先輩の事が好きだと私に打ち明けてくれた日のはにかんだ笑顔、あの猛暑日の横顔、雲を眺める遠い瞳。イチの顔が脳裏をよぎる。ずっと考えないようにしていたのに、ほんの一瞬で頭も胸もイチで一杯になってしまう。
辛い思いを抱えてるに違いないイチを思うと、自分の事の様に胸が苦しい。それなのに心のどこかでは、少しほっとしている自分が居る。どうして恋をすると綺麗な気持ちだけじゃいられないんだろう。苦しくて苦しくて溜まらないのに、皆誰かを好きになるんだろう。
いつの間にか私の目からは涙が溢れ出ていた。生温い雫がはらはらと頬を伝う。
「俺がこんな事を言うべきじゃないって分ってるんだ。でも……智里。あいつの傍にいてやってくれ」
「馬鹿。馬鹿。先輩は大ばか野郎です」
先輩の胸を我武者羅に叩く。力いっぱい叩いているから痛いはずなのに、先輩はだまってそれを受け入れていた。
「あー。酷い顔だ」
鏡を見なくても目が腫れているのがわかる。水で冷やしたタオルを当てては深呼吸を繰り返した。泣き癖のついてひくつく喉では、まともな芝居など出来っこない。舞台に戻るまでに治さなくては。皆に余計な心配をかけてしまう。懸命に呼吸を落ち着かせようとするがなかなか上手くいかない。冷えたタオルを乗せたまま上を見上げると、隣の蛇口が捻られ水の流れる音がした。
「久しぶり」
掛けられた声に心臓が高鳴る。ひぐらしの声が遠くなり、ただ静かに流れる水の音ばかりが耳を打つ。震える指でタオルをどかせば、入道雲煙る空がやけに眩しかった。
「……うん。久しぶりだね」
練習で毎日顔を合わせているのに、本当に久しぶりだと感じる。あれ以来視界に入れることすら避けてきたイチの笑顔が、直ぐ傍にある。収まっていた筈の涙が再び溢れ、慌ててイチに背を向けた。タオルで思い切り顔を覆っても苦しいばかりで、込み上げる嗚咽は隠し切れない。
「智里」
イチが私の背を撫でる。私の神経は馬鹿みたいに繊細になって、その指の一本一本を追いかける。
「イチ。ごめんなさい。あんな事言って本当にごめんなさい」
喉が詰まって上手く言葉が出てこない。そのもどかしさにまた涙が零れる。
「いいんだ。俺が臆病だったからいけないんだ」
イチが心配そうに私の顔を覗きこむ。涙に濡れた顔を隠して私は首を横に振る。
暫くの間、イチは宥めるように私の背を撫で続けていたが、ふとその手を止めると、耳を澄まさなければ聞こえないほど小さな声で言った。
「俺さ、先輩に言ったよ」
ぽたりと落ちる水滴のようなその言葉に、私の胸は静かに震えた。
「案の定駄目だったけど」
「……イチ」
「先輩はちゃんと聞いてくれたよ。気持ち悪がられて終わりかなって思ってたんだけど、ちゃんと聞いてちゃんと答えてくれた」
イチの笑顔は切なげで、それでもどこか清清しく見えた。
「だからもう終わり。先輩の言動に振り回されるのも、無理して良い後輩でいるのも、言えない気持ちに悩むことも、先輩の幸せを妬むのも……」
琥珀の瞳が溶けたように大きく揺れた。
「これでお仕舞い」
そう言って微笑むイチの目からぽろぽろと涙が零れ落ちる。
とめどなく溢れる涙は、蜂蜜の様に煌いていた。
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