私とイチと好きな人(3)
大会前の演劇部はとても長い時間を学校で過ごす。
運動部が体育館を使う時間──つまり通常の部活動時間では、必要な練習が出来ないからだ。
離れた場所から芝居の全体図を把握し、役者の声がどう響くかを確認する為には、広く静かな空間が必要……なんだけど、部活動時間内では各部活の掛け声やボールの跳ねる音、ホイッスルや校内放送が賑やかに学校を彩り、なかなか望むような静寂は得られない。そういうわけで演劇部は朝も早くから夜遅くまで体育館に居座り、運動部がいない隙や完全に誰も居ない時間帯を狙ってこそこそと練習に勤しんでいる。
結果、ここ数日の拘束時間が午前四時から午後十時という鬼のような状況になっているんだけど、それがちっとも苦にならない。体力的にはちょっと辛いけど、部の結束は一段と強くなり、比例するように舞台への情熱が高まっている。先輩達の中には家に帰るのが面倒になりこっそり部室に住み着いている人も居るくらいだ。埃まみれの汚い部室にはいつの間にか布団や寝袋が転がっているし、曇った姿見の辺りには歯ブラシやタオルが所狭しと置かれている。風呂はどうしているのかって? それは聞かないお約束だ。
* * *
与えられた夕食休憩の時間を使って、私は一人台本を開いていた。
照明が煌々と照りつける舞台は蒸し暑く、流れる汗をタオルで拭いながらそっと台詞を目で追いかける。
件の六十四ページ。好きな相手の寿命を食べることでしか生きることの出来ない少女が、本当の恋を知り自らの死を選ぶという大切な場面だ。
「私さ、やっぱり駄目だったみたい」
舞台袖の冷たいコンクリの壁と向かい合いながら、私はそっと台詞を口にした。
「ちょっと面白そうだと思って君と付き合ってみたけど、正直もう飽きちゃったんだよね」
永久の別れ。それは一体どんなものだろう。もう決して会うことが出来ないという別れを、私は経験したことが無い。暫く会っていない友達は居るけど、それでも会おうと思えばいつだって会えるし。
「だから、もう、お別れしよう」
好きだけどお別れしなくちゃいけない。そんな最後の別れに私は何を込める?
「さようなら」
何度も台詞を読み上げてみても、胸に浮かぶのは同じ問いばかり。口先だけで言葉を発しても、全然全くしっくり来ない。台詞だけが空に浮かび、私の手が届かない所をさ迷っているみたいだ。自分なりに役作りに励んできたけど、このシーンの感情だけはどうしても思うように演じることが出来ない。痒いところに手が届かないようなもどかしいさに、私は思いっきり声を上げた。
「だから! もう! お別れしよう!」
発声練習の様に一音一音はっきりと声に出す。大きく口を開けて腹の底から声を出すのはとても気持ちが良い。が、感情もなにもあったもんじゃない。半ば自棄になって台詞を発していると、背後からくすくすと忍び笑いが聞こえた。
「……何よ。人がこっそり練習してるのに、覗きなんて良い趣味してるじゃない」
腰に手を当ててわざとらしく振り返ると、イチは上手袖に置かれたグランドピアノにもたれ掛かってひらひらと手を振っている。
「ずいぶん思い切った台詞回しだね」
ニヤニヤと笑いながらそう言うイチに、私はわざとらしく溜息をついて見せた。
「それで? 助演様のご感想は?」
「三十五点。全然響くものが無い」
小首を傾げてそう言うイチの苦笑いに、丸めたタオルを思いっきり投げつけた。かっと頭に血が上る。三十五点は厳し過ぎるでしょ。自己採点では六十八点くらいかななんて思ってたよ! 全然響くものが無いって? 言うだけなら簡単じゃん。私だって悩んで悩んでやっているのに、そんな事言うならどう演れば良いか教えてよ!
いつの間にか肩で息をしていた私を宥めるように、イチは私の頭を小突いた。
「ちょっと休憩しよう」
イチはくしゃくしゃになったタオルをぱたぱたと叩くと、それを私に押し付けた。リボンをつけたピンクの象が恨めしそうな顔でこちらを見ている。
「……でも、もっと練習しないと。もう時間も無いし、これ以上皆に迷惑かけたくない」
そう。芝居全体としての精度を高めていかなければいけないこの時期に、こんな事で躓いているようでは駄目なのだ。今だって部員皆にどれだけ迷惑をかけているかわからない。休憩なんてとっている暇、無い。
「気持ちは分かるけど、根を詰めすぎるのも良くないよ」
「疲れたらちゃんと休憩するよ」
流れる汗をタオルで拭う。ピンクの象は今度は少し泣きそうに見えた。
「……カツサンドと時雨焼き」
「え?」
「いつもの所のカツサンドと時雨焼きが買えたんだ」
そう言ってイチは白いビニール袋をちょいと掲げて見せる。いつもの所のカツサンドと時雨焼きといえば、おばちゃんの機嫌が良い日にしか並ばないスペシャルメニューだ。サクサクに揚がったジューシーなカツをコクのある赤味噌風味のソースで絡め、シャキシャキとしたキャベツの千切りと一緒にフワフワのパンで挟んだカツサンドは、歯ごたえも楽しく何個でも食べられそうなほど美味しい。焼きそばをお好み焼きで挟んだ時雨焼きは、程よい甘さのソースが出汁の効いた柔らかな生地に染みこみ、穀物や野菜の旨みが口一杯に広がる素晴らしい逸品だ。生地に埋め込むように焼かれた卵がまた良いアクセントになっている。
白いビニール袋の中に広がる世界に唾を飲み込む。
「おばちゃんの機嫌が良いのなんてすっごい久しぶりだろ? だからつい二つづつ買っちゃったんだよな」
「そ、そう。でも私練習しないと──」
「その上さ、竹下先輩がボヤージュでアイスカフェラテとブラマンジェを買ってくださってさ」
そう言われてみれば、グランドピアノの上にちょこんと置かれている茶色い紙袋は喫茶ボヤージュの物だ。ステンドグラスの窓やレンガ造りの建物がレトロで可愛いボヤージュは、もう何十年も前から今の場所にある。昔ながらの喫茶店だ。年齢不詳のマスターはフランスで修行したお菓子作りの腕を存分に揮い、繊細な洋菓子をいくつもショーケースに並べている。ブラマンジェはその中でも特に私とイチが好きなもので、バニラの優しい甘さと木苺の甘酸っぱさが絶妙な味わいを生み出す爽やかなデザートだ。
「でもいらないなら仕方ないな。誰か食べてくれる人探さなきゃ」
「食べます。はい、私食べます!」
思わず手を挙げると、イチはにんまりと笑った。
舞台袖の扉を開けて外に出ると、心地よい風が吹いていた。舞台の両端、上手と下手を繋ぐその小さなベランダは、絶好の休憩場所だ。コンクリの土台も鉄の欄干も夜の静けさを吸ってひんやりと心地良い。
「うー。生き返る」
風を受けながら思いっきり伸びをする。暖かい夏の風は、体の表面だけを少しばかり冷やしていく。
「気持ち良いよね」
イチは壁にもたれ掛かり袋から次々に食べ物を取り出している。
「私、夏の夜って凄く好きだな」
欄干から身を乗り出しながら、遠くに走る車のライトを眺める。外灯の数も少ないこの町は夜になってしまえば、すべてが闇に飲まれてしまう。カエルとオケラの鳴き声ばかりが響く中、ぼんやりとテニスコートや運動場が浮かぶ風景は、不思議に開放感を増幅させた。何というか、世界が私の物になった様なそんな気分になる。ただし、全ての明かりが消えた校舎は、出来るだけ視界に入れないのが正解だ。一つ下の後輩が理科室の辺りで動く影を見たとか言って……いや、考えるのはやめよう。
そそくさとイチの隣に座れば、イチは既にカツサンドを頬張っていた。食欲戻ったのかな。凄い美味しそうに食べてるし。竹下先輩と夕飯の買い物に行けたのがそんなに嬉しかったのかな。そのまま向こうで食べてきちゃえば良かったのに。そうすれば色々話も出来たんじゃないの。
何故かムカムカとする胸を宥め、ぼんやりとイチの顔を眺めていると、イチはカツサンドの入った箱をこちらに差し出してきた。別にそういう意味で見てたんじゃないんだけどなあ。もちろん、カツサンドは貰いますけど。
琥珀のソースが光るカツサンドにかぶりつく。ああ。やっぱり美味しい。おばちゃんがいつもご機嫌なら良いのに。その為なら私毎日肩たたきくらいはするよ。……やっぱり毎日だと大変だから、三日に一回くらいなら。
「俺は冬の朝の方が好きかな」
特に朝一番の昇降口の空気とか。思い出した様にそう言ったイチは、既にカツサンドを平らげ、手についたソースを舐めている。行儀が悪いけど何となく様になっているのが不思議だ。何故だか目が離せず、そのままぼうっと眺めていると、イチが突然大きな声で言った。
「あー。さっき三十五点って言ったけどさ、やっぱりもうちょっと良かったよ」
「……六十八点くらい?」
「それはない」
「あっそ」
むくれる私を余所に、イチはいそいそと時雨焼きのタッパを開けている。
「でも四十点はあげてもいいよ」
「大して変わらないじゃない。忘れてたのに傷口抉らないでよ」
カツサンドを一飲みにしてそう言うと、イチは驚いた顔でこちらを見ていた。
「え? 忘れてたの? ぼーっとしてるから気にしてるのかと思った」
「いや、ぼーっとしてたのは……」
イチを見てたからで──って、いやいやいやいや。何を言いかけているんだ。それは何か変だぞ。何か分らないけど変だ。自分で自分の思考回路に驚いてしまう。
「ぼーっとしてたのは?」
イチに聞かれて言葉に詰まる。
「あ……。うん。やっぱ気にしてたのかも」
ああ。私って最低だな。さっきまであんなに練習しなきゃって思ってたのに、美味しいもの食べてちょっとイチと話しただけですっかり忘れてしまうんだもん。
後ろめたさからイチの顔を見ることが出来ない。そんな私の態度を勘違いしたのか、イチが少し優しい声音になる。
「あのシーンはとても難しいと思うよ。でも、俺も竹下先輩もチサなら出来ると思ったからこの配役に決めたんだ。もう少し自分の中で彼女の気持ちを整理してごらん」
「うん」
私は膝を抱えて、アイスカフェオレをすこし口に含む。甘いカフェオレに隠れるほんの少しのほろ苦さに、溜息が出た。
「彼女はこれまでにも沢山恋をしてきた。少なくとも本人はそう思っていた。相手の寿命を食べることを、恋人の当然の権利の様にさえ思っていた。そんな彼女に初めて失いたくない人が出来たんだ。結果、自分が消えることになったとしてもね」
イチは何もかも分った様な顔でそう言った。確かにイチなら彼女の気持ちがわかるだろう。竹下先輩と自分の命だったら間違いなく前者を優先させるだろうから。
「……私もね色々考えているんだよ。でもね分らないの。私だったら本当に好きな人と一緒に居たい。どんな事でも相手に本当の事を言って欲しいし話したいと思う。二人で一緒に悩んで考えたい。そうしていればいつか何か解決策が見つかるかもしれないって思う」
相手の男だって絶対知りたかったはずだ。一緒に悩みたかった筈だ。だって、もしイチが竹下先輩の事、私に何も相談してくれなかったら凄く悲しい。何も知らないまま突き放されるなんて馬鹿みたいじゃないか。大切なこと相談されないで、一人で決めて突っ走られたら、必要無いって言われてるのと同じ事だ。そう思うと、彼女が本当に彼を好きだったのか。その根本さえ私には分らなくなってしまう。
うつむいて考え込んでしまった私の横で、イチが笑う。
「そうだよね。それがチサだよね」
本当に可笑しそうに言うその一言が、何故だかとても嬉しかった。
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