私とイチと好きな人(2)

 大会まで三週間を切った頃から、イチの様子がおかしくなった。

 常に心ここにあらずといった感じで、私の軽口にも乗ってこない。大会が近いから緊張しているのかも知れないが、それは私だって同じだ。

「イチ最近元気ないね」

 お昼休み。購買のパンをもそもそとかじるイチはやっぱりどう見ても、いつもの市太郎じゃない。

「そんな事無いと思うけど」

「だってイチがアンパン一つしか食べないなんて、絶対変だよ」

 いつもならそれにカレー弁当とホットサンドとあまつさえ蕎麦までつけちゃう人だ。追い込みで厳しい練習が続いているこの時期に、それだけで体が持つ筈が無い。私だってお弁当の他におやつを持ち歩いているくらいなのに。

「もうすぐ大会だからね。気が張ってるのかも」

「……本当に?」

「ううん。嘘」

 悪びれる様子も無く言い切ったイチは、紙パックのイチゴ牛乳をストローで吸いながら、窓の外を眺めていた。長い睫が影を落としどこか憂いを帯びている。その視線はぼんやりと頼りなく、雲が流れていくのをただ見つめているようだった。

 こんな時こんな顔をしてイチが考える人は一人しか居ない。

 一緒にお昼ご飯を囲んでいるはずなのに酷く遠く感じる。それが何故だかとても寂しくなった。すっかり味気のなくなったお弁当を箸でつついていると、イチが突然切り出した。

「あの雲さ」

「うん」

「先輩みたいだよね」

「うん?」

 予想外の言葉に一瞬理解が追いつかない。

 竹下先輩の事を考えているだろう事は分っていたけど、まさかそこまでリリカルな事を考えていたとは。しかもどこが先輩に似ているのかちっともわからない。あの白くてもわもわ柔らかそうな雲と、情熱の塊の様な先輩に似通う部分など見つけるほうが難しい。

「太陽とかならまだわかるんだけど、雲?」

「そう」

 イチの視線の先にある雲をじっと見つめてみる。

「ごめん。わかんない。どっちかって言うと神居のシュークリームに似てると思う」

「……チサに聞いた俺が間違ってた」

「私以外の誰にも言えないくせに」

 ぼそりと零せば机の下で足を蹴られた。靴下の無い部分に当たって地味に痛い。

「しょうがないじゃない。私は貴方と違って竹下先輩大好きって訳じゃ無いんだし。もっと分りやすく言ってよ」

 イチはちらりと私を一瞥すると、ふいと視線を雲に戻して言った。

「いや、竹下先輩だけじゃないけどさ……。あの雲は今確かにあそこにあるけど明日にはもう無くなってる。明日の空には新しい雲があって、明後日の空にはまた新しい雲がある。そうやって毎日新しい雲を見ているうちに、今日の雲の事は忘れてしまうんだろうか」

 ああなるほどそういうことか。うん。そんな事あれだけの会話で分るわけないよ。イチは時々思考回路が乙女チック過ぎてちょっと困る。私はそういう情緒とか感慨とかあまり敏感じゃないから。自分で言っていて悲しいけど。まあでもつまり。

「先輩の卒業が寂しいってこと」

「ちょっと違うけど、そんな感じ」

「まあ確かに部活以外では全然会うことないもんね」

 学年も違うし下手したら碌に話すことも出来なくなる。それにもう数ヶ月もすれば先輩たちは卒業だ。確かにそれはちょっと切ないかもしれない。

「でもさ、イチは先輩に告白するつもりは無いんでしょ」

「……うん」

「じゃあこれで良いんだよ。忘れてしまうからこそ明日に進める場合もあるんじゃないかな。きっと」

 イチが先輩へ抱く気持ちが別の形であったなら、仲の良い先輩後輩として続いていく道もあったかもしれない。でも現実はそうではない。気持ちを隠して先輩の傍にいるなら、先輩と彼女が笑い合うのをこれから先も見続けなくちゃいけないのだ。私はイチにそんな過酷な道を歩んで欲しくない。イチがあんな笑顔しか出来なくなるなら、先輩の傍から離れて欲しいとすら思う。でもイチをとびっきりの笑顔に出来るのも、また先輩だけなのだ。

「忘れられる時が来ると思う?」

 思うよ。とは言えなかった。イチがどれだけ先輩を好きか知っているから。

「ねえイチ。大会、頑張ろうね」

「……そうだね。頑張ろう」

 再び雲へと視線を戻したイチは昼休みが終わるまで、じっと動かなかった。

 本当にこのままでいいのかな。あれほど純粋なイチの思いは、伝えることすらできずにどこへ消えていくんだろう。ゆっくり溶けては形を変えていく雲の様に、捕らえどころの無い思いが広がっていく。恋の終わりがもっとわかりやすければいいのに。昼休みの終わりを告げるベルの様に、ぱっと気持ちを切り替えてくれたらいいのに。イチの笑顔が見たい。こんな消えてしまいそうな横顔じゃなくて。

「先輩の馬鹿」

 やり場の無い寂しさと怒りが胸を満たして重くなる。誰が悪い訳でもない。だからこそこんなに切ないんだ。

 雲を見つめるイチの横顔を、私はずっと見つめていた。

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