近代的屈辱

「ごきげんよう、月光さん」


 そうして、差し込まれた。闇夜から月光。


 それを何とも認識できなかった。理解の外から飛び込んできた何か、だった。


 響くのは声とも悲鳴とも言い難く、鳴き声や泣き声ともまた違う。吐き気を催すような、濁ったそれ。嗚咽か何か。


 心臓の鼓動は恐らく、間違いなく、ほんの一瞬だけ停止した。無音が延長されていく。


 月光の意思が白い闇に突き飛ばされて、発狂の限りを尽くしていた。


 再びこの漆黒の闇に包まれた倉庫に戻ってきたとき、今度は確かな覚醒をしていた。全身から何とも言えない冷めた汗が吹き出し、閉じ方を忘れただらしない口からは垂れるほどの唾液、頬から顎まで一筋に伝う生温い涙。


 放心から脱したものの、あまりの情けなさに酷く力が抜けていく思いだった。


「ずいぶんと、余裕がないようだ」


 今度は明瞭に月光の耳に届いた。闇夜の飄々とした何のことのない言葉。


 膨張越えて破裂した風船が項垂れるように、今の月光の心はほんの十数秒前とうってかわって大人しく、冷静そのものだった。


 今、自分は倉庫にいる。そして拘束したはずの闇夜に逆に拘束されて身動きがとれない状態にある。さらに、体が思うように動かせないのは、拘束だけのせいではなく、自分で用意したスタンガンを浴びたときの痺れが残っているせいだ。


 また、全く視界が開けないのは深夜だからではない。目隠しのようなものがされているせいだ。染み込んだ涙の湿っぽさで分かった。


 そして、闇夜はまだ自分の目の前に立っている。ここまでが、はっきりと理解でき、月光は非常に安堵を覚え、えもいわれぬほどの解放感にも似た恍惚にまで至った。


 しかし、たった一言の闇夜の言葉でここまで安心させられたことを改めて認識してしまったとき、冷めてきていた月光の心にまた再び闇夜に対する黒い何かが熱を帯びてきた。


「闇夜……、闇夜さん……闇夜さん……うくく……」


 醜悪な毒を含んだ言葉の数々が喉元を渦巻いて、出てこない。途方もない疲労感が勝り、怒りや恐怖が入り交じって震える唇から先にそれらを出すことができなかった。


 代わりに出たのは、闇夜の名前だけ。変わりようも変えようもない深い執念の矛先。


「改めまして、ごきげんよう、月光さん」


 コツコツと靴音が近づき、反響する声も間近に届く。


「僕は少し感動し、また少し失望をしているよ。月光さん」


 視界に写らない闇夜の言葉が、闇夜という存在を強く認識させる。しかしその言葉の真意は月光にはまだ伝わらない。一体、目の前に佇んでいるだろう男は何を言おうとしているのか。


 とても穏やかで、やわらかい口調で、ふんわりと言葉を紡ぐ。


「僕はあまり目立つのが好きではない。波風立たない方が、平穏である方が、より安全で、安泰と思っていたからだ。ところが、最近、どうも退屈に耐えかねてきてしまってね、少し、ほんの少しだけ刺激が欲しくなってしまった」


 淡々と、それ以外に与えられない闇夜の言葉が月光に染み込んでいく。


「もし、僕が、少しでも目立ったのなら、どうなるだろうか。今まで身を潜めてきて気まぐれが動いてしまった。どうせ、どうせ一回だし、ずっと目立たなかったのだから、何のことはないだろう、と楽観視しつつも、期待は秘めていた。少しね」


 ふわりと月光の前髪が揺れる。何をしたのか何をされたのかも分からないが、とても近くに闇夜の存在を感じていた。それとともに月光の身体がまたすくむ。


「驚いたよ。月光さん。あなたは僕の思い通りに動いてくれた。天文学的な確率だと思っていたのに、まさかと思ったさ」


「ひぅ……」


 月光の頭に暖かい感触が下りてきた。それが頭をなでる手だと遅れて理解したが、払う意思もなければ払おうとする力も入らなかった。何より、払えるような体勢ですらなかったが。


「シナリオはさ、こうだった。普段から目立たない僕が、何故か優秀な少数派の中に入る。それを疎ましく思った誰かが何かしらの行動を起こす。恐喝なり暴力なり、何かしらの、ね。月光さん。あなたが僕の後を付け狙うようになったとき、楽しかったよ。本当にね」


「ぁう……」


 飼い主にちょっかいを出される飼い猫のように、月光は闇夜のそれをどうにもできなかった。ただただなすがままに、触れる手、なでる手を許すしかなかった。


 心のどこかに心地よさを覚えながら。


「殴って気絶させて、拉致する。ここまでの行動を起こしてくれるとは思わなかったな。本当に想定外。心が躍ってしまったよ。ありがとう、感謝している」


「ゃ……」


 闇夜の名前を呼ぼうとして、感極まる。言葉に詰まる。


 あごを引いて、抵抗と呼べない抵抗をしたつもりになる。


 どす黒かった何かが溶けだしていくような錯覚さえあった。底が見えないほど濁っていたはずのソレが、別な何かが混ざり、違う色に変色していくようだった。


「残念だったのは、ちょっと甘かったところ、かな」


 ゾクリとするほど、闇夜の声のトーンが変わった。変貌したと言ってもいいくらい、口調が少し、おぞましさを含んでいた。


 月光のぽかんと開いていた口が、への字に閉まる。弱弱しく食いしばるようにし、見えない闇夜を見上げた。薄まり消えかけていた先ほどまでの恐怖がもう戻りかけていた。


「調教する、と言ってくれたね?」


 息も飲ませる余裕すらない恐怖は、あたかも月光の心に鋭い針を刺すようだった。

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