近代的女子

 実に抜き打ちの精度がよかったのか、普段高得点の生徒さえも赤点近くまで落とされたものだから飄々と抜き打ちの網を掻い潜った闇夜はさぞかし恨めしかったことだろう。


 おおよその生徒達が一喜一憂している中、彼は相変わらずの素振りなのだから尚更だ。


 白夜びゃくや月光もその一人だった。尚、名前は漢字で月光と書き、「ルナ」と読む。


 闇夜とは打って変わって、数人のクラスメイトに囲まれ、談合をしていた。


 飛び交う言葉、単語の一つ一つが上品な響きばかりで、ある種その一帯も周囲とはまた異なる空間のようにも思えた。まるでそう、花園という言葉が相応しいだろう。


 そして、花園の中心に鎮座する月光こそが、この花園の主を言わんばかり。何せ、彼女の容姿は化粧禁止、アクセサリー禁止という校則があって尚も美しさ、可愛らしさなどの魅力を損なわない。彼女は男子であろうと女子であろうと気を惹くほどのものがあった。


 本人非公認の同学年の男子連中による欲望にまみれた格付けアンケート、結婚したい女子、彼女にしたい女子ランキングでも一位には至らないまでも上位に組み込む程度でもある。


 月光は、元々中学校まではいわゆるお嬢様学校出身で、優等生と自負して高校まで過ごしてきたが、その実、過ぎた自惚れによってしばしば学業を怠り始めたのを皮切りに成績を落としてしまい、今に至る。家族からの失望も計り知れないもので、高校進学の時点での彼女の心境など言葉では表現するに足らない。


 決してこの高校では落ちぶれてはいなかったし、闇夜に比べてしまえば圧倒的に友人関係も良好な方だったが、昨年末辺りから平均のラインと隣り合わせのストレスに苛まれていた。


 そして今回の平均落ちだ。どれだけ闇夜が疎ましいと思ったことか。


 自分よりも優れた答案用紙を受け取る無表情のあの横顔が脳裏をよぎる度に奥歯がきしむ。


 闇夜を月光ほど睨みつけたものはいない。


 学業こそ、成績こそ闇夜と月光は同じラインに立っているのかもしれないが、周囲からの印象などはまるで正反対で、互いにあいまみえることもない遠い存在のはずだった。


 しかし、そのような経緯など闇夜は知る由もないし、仮に知っていたところで、どのように対応していただろうか。何にせよ、これまで闇夜が自覚してかしないでか整合してきたものに生じたこの僅かな歪は闇夜に何かしらの影響を与えることは明白だった。


 そうして、一つ、物事が秘密裏に動き始めていた。


 黒谷闇夜は、おそらく退屈な授業の中、あくび一つせず、黒板のごちゃごちゃとしたチョークの文字を手前のノートに清書していた。


 あまりにも歪な文字の羅列は、ノートの上でコンバートされたかのようにキレイに並ぶ。


 その姿たるや、人間翻訳機のようにも見える。


 見える、とはいっても、それはあくまで闇夜のその姿を一部始終注視していたときに限りそう見えるというだけであって、闇夜は大して目立つ気質でもないので、気に留まるものがまずいなかった。


 ところが、それはつい先日までの話で、白夜月光は気に留めていた。極めて不快な思いをしながらも、凝視していた。


 教師がチョークで黒板をコツコツと叩く音を無視して耳をすませば、密かに月光の方から歯ぎしりの音が聞こえたに違いない。


 月光の机の上で、授業が始まってから何本目かのシャーペンの芯が折れた。芯の替えはいくらでもあるとはいえ、一方のノートは黒ずみを隠せないような状態にまで至っている。


 きっとこんなノートを持ち帰り、自宅で復習しようものなら授業内容の前に復讐を覚えることだろう。


 もはや月光の集中力など、全て闇夜に奪われていたに等しい。


 黒く、淀んだ、おぞましい何かが、月光の体の奥の何処かにある鍋のようなものの中で延々と零れんばかりに引っ掻き回されていた。熟すのももう時間の問題。


 そうこうしているうちに、ようやくしてか月光の中の理性を司る糸が何本か切れた。


 無論、そんなものの音などしないし、周囲にいた誰かが気付くこともなかったが、それがトリガーだった。


 とうとう月光は闇夜に狂った。


 そうしてまもなく、学校中にチャイムの音が響き渡り、誰しもが張っていただろう緊張の糸のようなものがぷっつりと途切れて唐突なまでに疲労感や安堵を覚えた。


 今日の授業を全て終了し、教室中がざわざわがやがやと帰りの雰囲気を漂わせていた。


 それに感化されるまでもなく、闇夜も一通り鞄の整理をすると、片肩に鞄を背負い、扉を潜った。さも、当然かのように、月光も後を追う。傍から見れば珍しい光景だ。


 まだ、この日には誰も気づくことはなかったが、これからしばらくこれが当然のようになっていくのだった。

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