第3話 文学少年の約束

 僕には、秘密の場所があった。学校の誰も、恐らくは教師ですら知らないであろう場所。それを知るものは、僕ともう一人だけ。


 通学路から外れ、小さな美術館の庭を通り、パン屋の角を曲がり、帽子屋の向かいの小路を進むと、その古本屋は現れた。時の流れに取り残されたようなその異質な佇まいは、僕を落ち着かせる。



 ころろん、と軽すぎない鐘の音を響かせて、僕は店に入った。中を見渡すと、いた。僕の秘密の共有者。

 黒くて濡れたような大きな瞳、まっすぐ肩まで伸びた髪、すらりと美しい手に支えられているのは、またヘミングウェイだろうか。

「やあ」

 僕は声を掛ける。

「ああ、来たんだ。昨日は来なかったよね」

「うん、部活を辞めたんだ。僕には必要ないからね。それで、昨日はちょっと疲れちゃって」

「そうね、君は一人で十分本を読んでいるもの。わざわざ集団を作って活動する必要なんてないよ」

 賢そうな顔を少し緩ませて、彼女はお疲れ様、と笑う。


 僕たちの間にはいくつかの共通点といくつかのルールがあった。

 共通点として、僕らは制服を着ている。彼女はスカートを清楚な長さで着用し、細くて長い脚には真白な靴下を履いていた。無論、僕も制服を着崩すなどということはしない。東京帝国大学で高等な教育を受ける者が着ていたこの学ランに敬意を払って、模範的に着用している。

 そして、互いに一人称を「僕」「私」としている。僕は一度も自分のことを「俺」と称したことはないし、彼女が自分のことを「アタシ」「ウチ」もしくは名前で呼んでいるところを聞いたことがない。いつも高すぎない落ち着いた声で「私」という。そして互いのことを「君」と呼び合う。僕は君に「君」と呼ばれる瞬間が、何より心地よかった。

 そして、僕たちは互いに自己紹介をしない。僕は彼女の名前を、年を、学校を知らない。それでいいと思う。僕たちはこの古本屋で、約束のない逢瀬を重ねる運命の二人なのだ。そこらに転がっているありふれた男女とは違う、物語のように唯一無二の関係性なのだ。

 お互いの素性を一欠けらだって共有することなく、僕たちは共存できる。名前のない関係を支えている言葉なき約束を、僕たちは大切に胸に秘めて、今日もここで出会うのだ。


 この店には、小さいが喫茶スペースがある。お客がいるのをあまり見ないが、店主が趣味でコーヒーや紅茶を出してくれる、落ち着いたやさしい場所だ。僕たちはここで、本を読んだり本について語り合ったりしている。

 本好きな店主は、時々サービスで飲み物を出してくれた。僕たちのような中学生が本を読んでいる姿を見るのが嬉しいのだそうだ。僕は彼女の真向かいに座って、紅茶の湯気に霞む彼女の伏せた瞳を見るのが好きだった。

 今日も僕たちは一番隅の席に座り、それぞれ本を広げた。


「冬の夜は、宇宙を思わせる」

 君が、不意に声を出した。

「瑠璃色の雲を作る鳥を探す」

 僕も返した。

「菫は、春しか知らない自分を憐れまない」

 君は少し考えてから、また口を開く。

「いつかの八月、あの入り江に船を浮かべる」

「えー、また『ル』?」

 君は少し不満そうだ。

「じゃあ、過去形にしようか。『船を浮かべた』」


「たくさんのことを、思い出せなくなってきた」

 君は笑った。

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