第7話 あの日、再会の雨

6月に入り衣替えをしていても、まだ朝は涼しかった。

夜間降った雨でしっとりしたアスファルトは曇天の空と同じ色をしている。

信田千香子は学校へ向かう道中、いつも通りがかる公園でイヤホンを片耳だけ外し、蝉の声が聴こえないか、耳を澄ましてみる。流石にまだ聴こえない。だが、そろそろ聞こえ出しても良い頃だ。

夏が来たら、友達やあの兄とどこへ行こう。

山。海。夏祭り。ショッピングモール。そんなことを考える。

イヤホンから流れるブロードウェイ・ヒットナンバー特集の一曲「You Can't Stop The Beat」を聴きながら、昨夜ミンクオイルで磨いたパンプスで水溜りを避けて歩く。

夏の予定を思って足取りが思わず軽くなるも、油断は出来ない。期末テストで赤点を出して補習でも入れば予定はパーだ。

夏休みは思い切り遊べるように、今からキッチリと詰めておかねばならない。既に夏休みへ向けた戦いは始まっているのだ。

また、毎日こうして遅刻せずに学校へ行くことも、教員各位からの評価点へと繋がる。毎日の弛まぬ努力こそが、安寧への近道なのだ。


思えば貞人を捜し出したのも、千香子の努力によるところが大きかった。

去年までのことだ。

施設に入っていた千香子は、貞人を探し出そうと複数のラジオ番組への投書を続けていた。戦後はそうした人捜し番組や、亡くなった人との思い出を語る番組が多い。

千香子は中学校に上がってから、週に何通もそうした番組にメールを送り続けた。途中からはメールだけでなく、葉書も直筆で書いた。

『兄代わりとなって面倒をみてくれた、馬場貞人さんを捜しています。現在の年齢は28歳程。身長は170センチ程』という内容に、貞人との朧げながらも大切な思い出を、したためた。

幾度も、幾度も。

思い出したエピソードや、再会できたら何と言いたいかや、今頃どうしているのかという心配。そんなことも書いた。

私は元気にしている。貴方は元気ですか。

私はもう中学生になった。もう大人です。迎えに来て欲しいとは言わないし、貴方の生活の枷になるつもりはない。だからせめて、元気だという一報だけ欲しい。

書いた文字が涙で滲んだこともある。

やがて、番組パーソナリティが「難しい漢字が書けるようになりましたね。それだけ長く捜してらっしゃるということでもありますが」と、半ば知り合いのようにコメントをくれだした頃、馬場貞人本人らしき人物を知っているという返答が番組に寄せられた。

佐丸という名の男性からで、ビル管理の会社で警備員をしており、務めているマンションに馬場貞人なる人物が住んでいる、というものだった。

初めは二段ベッドが抜けるほど喜んだものの、次の瞬間には冷静になるように努めた。人生において期待などそう持たぬ方が良いと知っている、当時15歳になったばかりの千香子であった。

その翌日から、先ずは自分の足で当該マンションの前まで足を運び、その前で張り込み、馬場貞人らしき人物が出入りしているか見定めることにした。

いきなり訪ねて人違いでは迷惑だし、そもそも本人であっても迷惑かも知れない。馬場貞人の年齢を考えれば、結婚していたり、子供がいたりしても不思議ではない。

3日ほど通って、そのマンションに出入りしている人間の顔を観察したが、貞人らしき人物は見かけなかった。

終いには貞人は性転換したのではとすら考え、妙齢の女性の顔もよくよく見たが、それでもそれらしき人物はついぞ見なかった。

10年経ってはいても、顔を見れば貞人と分かる自信はあった。

表からは出入りをしていないか、よっぽど人相が変わっているかだろう。

そこで、ついに佐丸にコンタクトを取って、話を聞くことにした。

流石に自分が勤めるマンションで会うことは避けたかったらしく、近所の喫茶店で待ち合わせることになり、4日目の夕刻に話を聞けた。

馬場貞人はマンションのオーナーで、佐丸は管理会社を通して雇われる被雇用者であり、エンドクライアントである馬場のことを勝手にこうして喋ること自体が職を危うくするばかりか、下手をすれば佐丸は管理会社から訴えられる事案にもなりかねない。しかし、佐丸は勤務中に聴いているラジオ番組で千香子の話を耳にして、どうしても力になりたいと思い、禁を破った。後で聞くことになるが、佐丸もまた先の極東戦争の中で家族を亡くしていたという。

そういう話の後で、ついに貞人の話を聞けた。

マンションへの出入りはいつも車で、地下駐車場からの直通エレベーターを使っているということだった。

一階エントランスを使うのは、郵便物の確認をする時か、すぐ近所で買い物をする時くらいだという。

さて、そうなると待ち伏せは難しかった。

佐丸は立場上取り継ぐことはできない。それは職務違反をしたと自白する様なものだ。

なので、千香子は大人しく自分の入っている施設の職員らに事情を話し、馬場貞人に連絡を取ってもらうことにした。

馬場貞人もまたこの施設の世話になっていたのだから、これは不自然なことではない。施設のシスター達が見つけて連絡したことにすれば、佐丸のクビも繋がる。

シスターも校長も、皆これに賛成してくれた。

千香子は普段は大人しい優等生だが、月に一度の里親オーディションの折りにはいつも、ぶっきらぼうな態度でビーバップ・ハイスクールのキャラクターの様に振る舞って、シスターらの手を焼かせていた。

それは千香子がいつか貞人が迎えに来てくれると信じているからこその行動であり、その点シスター達も承知していたので、咎めは無かった。

しかし誰もが、便りの無い貞人がある日いきなり千香子を迎えに来るも思っていなかった。

千香子自身もそれに薄々気づいていたが、半ば意地になっていたところもある。

だからこそ、貞人が見つかったかも知れないと報された施設の職員らは、自分のことのように喜んでくれた。

千香子の体を触るのが好きだった一部の職員は、貞人にそれが知れるとでも思ったのか、実に分かりやすく動揺していたが、千香子からするとそれだけで気味が良かった。体を触るだけで何もしてこない臆病な小悪党など、物の数ではない。貞人の手を煩わさせるだけ無駄なことだ。

15歳にしてそれだけの心境に達している施設育ちの千香子であった。

しかし貞人と会う段取りをつけるとなると、千香子は急に怒りが湧いてきた。

貞人に対する怒りだ。

会って、あの男は何と言うだろうか。どんな顔をするだろうか。

そう考えると、もし優しくされても腹が立つし、憮然とされてもイラつくし、冷たくあしらわれてもはらわたが煮え滾る思いがするだろう。

どう転んでも口がへの字に曲がる思いがする千香子は、段取りは全て施設側に任せることにした。表向きには「楽しみですー」「ドキドキしますー」などと言ってニコニコして見せていたが、どうも千香子のその苛立ちは周囲も察していたらしく、「きっと大丈夫」とよく励ましてくれたものだ。

そこへ、馬場貞人から会うことに対して「NO」の返事が戻って来た。

貞人は会うことすら拒否した。

「いい度胸じゃん、あの野郎」

と千香子は一発ぶん殴ってやろうと思い、止める周囲を振り切って、街へ駆けた。

電車を乗り継ぎ、バスを乗り継いだ。

急いだので、脚が痛んだ。

やがて降り始めた雨が、強かに千香子を打った。千香子の頬を伝うのは雨か、涙か。自分でも分からなかった。

『涙と雨の違いは 多分塩分さ』

と歌ったロックバンドが居た。あの歌詞が、その時の千香子に雨と共に刺さった。

千香子はまた、貞人のマンションの前に立った。

だが、入る方法が分からなかった。

外から恨めしげにマンションを睨む。

フロントから見える大きなガラス窓に近づくと、中の警備員と目が合った。佐丸ではない、別の男だった。タダで入れてくれそうにない。

誰とどんな話をすれば中に入れるのか、思いつかなかった。

悔しさがこみ上げ、気がつくと暗証番号でロックされたガラス戸を殴りつけていた。何度も殴った。気が狂いそうになる程に拳が痛かった。それでも、その痛みが千香子を慰めてくれた。心の方がずっと痛く、苦しかった。

飛び出して来た警備員に止められたが、今度はその警備員を殴りつける。しかし、あっという間に取り押さえられてしまった。ブルース・リーの様にはいかなかった。

もちろん、悪いことをしたとは思っている。暴力はいけない。

誰かに罰してもらいたかったのかも知れない。思い上がっていた自分を。自分など、貞人からすれば忘れ去った過去のほんの一部なのだろう。

であれば、せめて一発殴らねば気が済まない。この涙の一粒でも、見せてやらねば収まらない。

怖い警備員らに囲まれて、警察を呼ぶぞと脅されつつもダンマリを決め込んでいると、遅番の佐丸が出勤して来た。

佐丸は千香子を認めると驚き、庇ってくれた。タオルとココアを出されたが、千香子はそれらに手も触れず、

「馬場貞人さんの玄関の前まで通して下さい」

とだけ言った。

佐丸は千香子の様子から事の顛末を悟った様子で、同僚達と何やら相談し始めた。

彼らに迷惑をかけているのは明らかだった。

千香子を通せば、彼らはクビを覚悟せねばなるまい。

彼らにとって一番手っ取り早いのは警察へ引き渡すことだ。

だが警察が来れば、「体を触られた」と言って騒いでやるつもりだった。

ビショビショに濡れた服が透けて肌に貼り付いている。警備員らも、千香子に騒がれるのは避けたかろう。

佐丸が、

「ここで待ってはどうかな?馬場さんが戻られるまで」

と提案してくれたが、そんなことをすればこの警備員らを使って外へつまみ出させるに決まっている。他人が居ては話も出来ない。

一対一なら正直なところも聞ける。追い出される前に。

千香子は譲らなかった。

すったもんだしているうちに、千香子を迎えにシスターがやって来た。

警備員らに対して丁寧に礼を言い、詫びを入れたシスターは、千香子を引きずって帰った。

千香子はその夜風邪を引き、熱にうなされたものの、翌々日、起きられるようになるとまた馬場貞人のマンションの前に立った。

今度は暴れたりなどせず、ただ、マンションの前に座り込んで、ぼーっと過ごす。

出入りする人間からは不審な目で見られたが、構わなかった。

5、6年前なら浮浪児も珍しくなかったが、制服を着て何をするでもなく道端に座り込んでいる女子中学生は、その頃でも人目を引いたろう。

警備員らも、マンションの敷地の外に座られては何も出来ない様子で、こちらを一瞥するだけだった。

そして夕飯時が過ぎる頃、辺りが暗く沈んだ頃にシスターがまたやって来て、千香子を連れて帰った。

そんなことが一週間ほども続いただろうか。

その日、また雨が降った。

それでも、千香子は相変わらず座り込みを続けた。

初めは傘をさしていたのだが、近くを通ったSUVが水溜りの水を盛大に千香子に跳ね上げ、千香子はまた先週の様に濡れ鼠になった。

傘を捨て置き、いつもの様に地べたに座ることにした。

暗くなって来る頃、正面扉から佐丸がやって来た。

佐丸は、

「中へ」

と言った。

佐丸の顔は見なかった。

ロビーに黙ったまま足を踏み入れ、佐丸が促す先にエレベーターがあることを見、千香子は顔を上げた。

「馬場さんにも伝えたんだよ。この一週間、ずっと。でも、あの人何にも言わなくてね」

千香子の訴えを伝えられて尚、彼からは反応が無かったという。

それならば、何故佐丸はエレベーターへ通してくれるのか。

「あんな冷たい人の下で働くくらいなら辞めたっていいし、それなら最後に1つ良いことをしたいんだ」

佐丸は屈託ない笑顔で、千香子の背を押して、エレベーターに乗せた。

「馬場さんはまだ帰ってないから、玄関の前で待つと良いよ。いつも通りならそろそろ帰る頃だし、ペントハウスの入り口なら暖房も効いてるから外よりマシだよ。僕にできるのはこれくらい」

千香子が礼を口にする前に、エレベーターの扉が閉まった。

佐丸には後でキチンと礼を言わねばなるまい。

グスンと鼻をすする。

千香子が乗った最上階へ直通のエレベーターが停まり、扉が開くと、8畳ほどのスペースがあった。床と壁は白っぽい石のタイル。

奥には重そうな木のドアが佇んでいる。

ペントハウスの入り口だ。

ここに貞人は住んでいるのか。

呼び鈴が付いているので、鳴らしてみる。

反応は無い。本当に留守のようだ。

服も髪もずぶ濡れだが、佐丸が言ったように幸いにも空調が効いているので、暖かい。

貞人の帰りを待つことにする。

ここで待ち伏せれば、追い返すのは難しいだろう。


そもそも馬場貞人と会ったのは、随分昔だ。

今から12年程前、全国で発生した同時多発テロ。政令指定都市のインフラが麻痺し、列島か震撼した暗黒の2週間。

千香子の家族はその時に皆亡くなった。

詳しいことは分からないが、マンションが倒壊した瓦礫の下敷きになったのだという。

当時2歳の千香子は、奇跡的にその中から救出されたのであった。

今ではその記憶も朧げだが、暗闇の恐怖と飢餓感だけは、今でも鮮明に思い出せる。

その後入れられたのは、地方自治体で用意したバラック。孤児達はそこで世話された。

数ヶ月すると、引き取り手の無い子達は、各地の児童養護施設へ移動して行った。

千香子は、立川セントジョージ学園へ入れられた。児童養護施設であるが、同時に小中一貫校でもある。

そこで、馬場貞人と出会った。

当時、貞人は16歳。

皆の世話を買って出る兄貴分だった。だが威張っているわけでもなく、いつも優しく笑っていた印象がある。

まだ2歳の千香子は、いつもこの貞人のそばを離れなかった。トイレまでついて行こうとして怒られたこともある。夜は貞人に絵本を読んでもらった。他の子供らも一緒だったが、貞人は皆が寝るまで何冊でも読んでくれたものだ。千香子のお気に入りは、3人のならず者が孤児達の為に強盗をする『すてきな三にんぐみ』という絵本だった。

千香子が貞人のことで他によく覚えているのは、4歳の頃の記憶だ。貞人とよくホラー映画を見たことだ。

4歳の千香子には、それはそれは怖いものだったが、他の子供らが蜘蛛の子散らした様に逃げて行くので、貞人と2人で過ごすことが出来たのである。

怖いのを我慢さえすれば、貞人を独り占めにできた。それは幸せな時間だった。

貞人にくっついて顔を手で覆いながら見た怖い映画は、今ではなに1つ思い出せない。

あまり怖い思いをした記憶は無く、ただ、貞人の体温を感じて安心していたことだけ憶えている。

あれからホラー映画は観ていない。

貞人がその後すぐに施設を出て行ってしまったからだ。貞人は18歳、千香子は4歳だった。

千香子は貞人が去ってからずっと泣いて過ごした。それも、よく憶えている。

後で聞いたことには、3日間は泣き通しだったらしい。

しかし、貞人について一番憶えているのは、次のシーンだ。

荷物を担いで出て行く貞人が振り返り、泣いている千香子を抱き上げて、

「いつか迎えに来てやるからな。千香子」

と言ってくれた、あのシーン。

聞き違いでも記憶違いでもない、千香子の人生のハイライトだ。

それを頼りに生きて来た。

いつも窓から外を眺め、門に貞人が立つ日を待っていた。

木の葉が枯れ、散り、やがてまた葉が萌え、青々としたかと思うと、また枯れていく。

それを何度繰り返したろうか。

千香子は待つことをやめた。

自分から貞人を捜すことにしたのだった。

そして、今こうして、貞人の家の前で帰りを待っている。濡れそぼった服を着て。


1時間か2時間、ドアの前で待った。

エレベーターの起動音が聞こえ、直後その扉が開いた。

そこに立っていたのは、記憶の中の馬場貞人とは違う、険しい顔の男だった。

確かに、目鼻立ちは面影がある。

だが、どこか帯びた空気が異なっている。

貞人は何も言わず、千香子を見つめる。

千香子も、無言で見つめ返す。

「……雨か」

貞人が玄関のドアへ歩みを進め、呟いた。

服が濡れたままの千香子は座ったまま、膝を抱えている。

「ここまで入るとはな」

貞人は呆れたように言い、ドアのテンキーで解錠コードを叩く。

「大した行動力だ」

10年ぶりの挨拶が、まるで犬に声をかけるような言葉だ。

「入れ。風邪を引く」

そう声をかける貞人に、千香子は立ち上がりざま殴りかかってやろうと、立って拳を振り上げた。

しかし、出来なかった。

怒りと悲しみと、会えた嬉しさが、一気に千香子を襲っていた。

咳き込むように嗚咽が出て、振り上げた腕から力が抜けてしまった。膝から崩れ落ち、また地面にへたり込んでしまう。

空っぽの胃袋からこれまで飲み込んできた涙を吐瀉する様に、泣いた。

殴ってやろうと思ったのに、何故こうなるのか。この男に、千香子がどんな気持ちだったか思い知らせてやりたかった。

殴って、カッコよくエレベーターから去るつもりだった。

それなのに、何故こんな幼児の様に泣けてしまうのか。千香子の体を突き上げるのは言い知れない感情だった。まるで電気ショックだ。

床に落ちる自分の涙が霞んでいる。鼻水も混じっているかも知れない。

こうなればもう破れかぶれだ。

貞人のズボンに縋る様に、裾を掴む。

会いたかった。

そう言ったつもりだったが、訳のわからないただの嗚咽にしかならなかった。

貞人の顔は見えなかったが、ぼんやり見えたその爪先が困った様にウロウロしていた。

爪先が止まり、やがて何か決断した様にゆっくりと一歩、千香子に寄った。

「おいで」

貞人の腕に抱きかかえられた。

腕は力強かったが、まるで卵を扱う様に優しくふわりと抱いてくれた。

その瞬間、千香子には分かった。

この男は間違い無く、馬場貞人だ。

この慈しむ様な抱き方が、懐かしい。幼い頃に感じたあの温もりだった。


家の中は暖かく、広かった。

リビングは2階部分と吹き抜けで、ドッジボールやバスケットボールが出来そうだ。

天井の照明は、業者を呼んで高い脚立を使わなければ替えることが出来ないだろう。

これだけ天井が高くても暖かいのは床暖房のおかげだろう。

しかし、そんなブルジョアジーな趣のあるペントハウスにも関わらず、家具らしい物が何も無い。

映画の中だと高そうなモダンアート作品が置いてあったり、壁にかけてあったりしそうだが、そうした物も無いし、調度品の類も無い。ここで生活している人間の様子が想像出来ない。暖かいはずなのに、妙に寒々しい。

だだっ広い独房の様だ。

千香子は洗面所と風呂へ案内され、シャワーをいただいた。風呂場も、体操が出来るくらい広い。石鹸やシャンプーは見たことが無いブランドで、匂いも初めて嗅ぐ品だった。きっと高級品なのだろう。

しかし、そんな清潔で湯垢や黒カビが微塵も見られない風呂場は、やはり生活感に欠け人間味が無い。

柔らかく大きなバスタオルで身体をよく拭き、用意されていたぶかぶかのスウェット上下を着て、ドライヤーで髪を乾かした。

「こういう時って、ワイシャツじゃないの?」

千香子は鏡に向かって呟いてみる。

洗面所を出ると、洗濯室の乾燥機が回っていた。千香子の濡れた服を乾かしているのだ。

広いリビングの端っこにくっ付いたダイニングでは、大理石のアイランドで貞人が何やら作っていた。

普段から料理をするのか、キチンとエプロンをしている。

これだけの家だから、ロブスターが出て来ても驚かない。もっとも、千香子はロブスターなど見たことも無いが。

千香子は無言でカウンターのスツールに腰掛けて、髪の毛先を指で弄ぶ。

どんな料理が出て来てもケチをつけてやろうと待ち構える。この男がどういうつもりにせよ、困らせてやりたかった。

千香子を引き取るつもりが無いのは、もう分かっている。

だったら散々ワガママを言って困らせてやろう。そう思っていた。

やがて出て来たのは、ノンオイルのツナ入りマッシュポテトと、セロリが刺さったトマトジュースだけだった。

確かに食事が出るだけ有難い。しかし、これは何と言うか、

「健康食すぎない?」

と評されても仕方ない夕飯だった。

「こんな物しか無い」

貞人は目も合わせずに、そう言った。

「いつもこういう食事?」

「ああ」

「朝も夜も?」

「そうだ」

「お昼ご飯は?外食?」

「あまり食べない。たまに、喫茶店でサンドイッチを食べるが」

「聞くけど、サンドイッチはやっぱりツナのやつ?」

「ああ」

にわかに、こんな刑務所の様な食生活を一人で続けている貞人が急に気の毒になった。

この広いばかりで家具の無い家。ここでこの男はどんな生活をしているのか。楽しみは無いのか。趣味は無いのか。

目の前にいるこの男の顔が、まだ見えなかった。

「出してもらっておいて悪いけど、これは食べられないかな」

千香子は俯いて、そう言った。

貞人がどんな顔をしているかは見えなかったが、さっき玄関で爪先が泳いでいた時と同じ気配がする。

千香子は言葉次いだ。

「これだけじゃ、もったいないよ。ってことね。これは付け合わせにする」

「付け合わせ?」

「うん。下にスーパーあったよね?」

「ああ」

「お財布借りていい?私が料理ってやつを見せてあげる」

千香子は自信満々に言った。


その夜の千香子の水を使わずに作った特製カレーは、貞人の心を開かせるに十分役立ったと言わざるを得ない。

「うまい」

と漏らした貞人は、初めて笑顔を見せた。

千香子の中で、その時何かが氷解した。

千香子も思わず笑っていた。

笑いつつ、また涙を浮かべていた。

爪先に触れた床暖房の様に温かい涙だった。

二人は特に言葉を交わさなかったが、一緒にカレーを食べ、同時に食べ終わると、片付けも一緒にやった。それだけで、二人の中に何かが満たされる様だった。

「今日はありがとう」

千香子は乾いた制服を着て、カバンを取ると、そう礼を言った。

貞人は「こちらこそ」と言いかけたが、それより相応しい言葉があるのではと逡巡するうちに、千香子が玄関へ歩きだしてしまった。

貞人が後を追うと、玄関で靴を履いた千香子が笑って、

「にぃちゃん」

と呼んだ。

貞人は妙な多幸感を味わいつつ、

「なんだ」

と返す。

「一発ぶん殴っていい?」

千香子は変わらない笑顔で問うた。

貞人は狼狽したが、いやこれは何かの冗談の類いと思い、頷いた。

次の瞬間、貞人の脛を千香子のスニーカーの爪先が蹴飛ばした。

何年も自分の叫び声など聞いていなかった貞人だが、久し振りに聞こえた己の叫びは他人の声の様だった。この子なら本当に殴りかねないと心の準備はしていたつもりだが、果たしてそのパンチを食らってやるかどうするか一瞬考えたタイミングでやおら蹴りを食らって、驚き半分痛み半分で脛を抱えてしまった。

蹲った貞人を見下ろす千香子はケラケラと笑ったが、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で見上げた貞人のオデコに猫の手にした右手でコツンとやり、

「気が済んだ。許したげる」

と、また泣きそうな顔をした。

千香子は涙こそ浮かべていないが、それは泣き顔の様に見えた。

「もう来ないから、安心して」

貞人が何か答えるより早く、千香子はドアを開けて出て行った。

貞人は追いかけて何か声をかけてやろうかと、思ったが、玄関の向こうのエレベーターが開く音がして、諦めた。

今日の貞人は判断が悪かった。久し振りに人間らしい人間と時間を共にしたのだ。

何か腑に落ちない物を感じながら貞人は就寝の準備をしたが、何時ものようにクローゼットの中の寝床に潜り込んで1時間しない内に、千香子が無事に施設まで帰れたか気になり(という理由を何とか探し出し)、立川セントジョージ学園に電話をしてみた。


その1週間後に改めて、貞人と千香子は里親相談員の立会いのもと、面談した。

貞人は立川セントジョージ学園へ赴き、そこの相談室で千香子と向き合った(貞人には初めて来る場所だったが、ここは本物の貞人らしく『懐かしい』と月並みな言葉を並べておいた)。

その時の千香子の顔と来たら、嬉しいやら緊張するやらで何とも言えない表情だった。

千香子は開口一番に「殴られ足りなかったの?」と涙ぐみながら笑顔で言った。

貞人は「そうだ」と返し、そこからはの話やの話をした(の話の内容は勿論、本物の貞人の経歴を踏まえた話だ)。

その後も数回、同じ様な面談を経ることになったが、その間に貞人の収入、経歴、人格は徹底的に調べられた。

貞人が独身である点と、賞金稼ぎという危険な仕事を副業としている点は里親として致命的だったが、補って余りある収入が決め手となり、養子縁組されることとなった。

貞人の本業は無論明かしていない。

恐喝と誘拐と殺人が主な仕事だなどとは言えようはずがない。


千香子の年頃の女の子など、貞人にはユスリの道具として使うくらいしか思いつかない。

よくある手としては、言いなりにしたい人物に未成年の女の子(または男の子)をあてがって、そのベッドインの様子を写真や映像に収める方法。この写真と映像をネタにするのだ。古典的だが、殺しより何より有効な手だ。女の子には小遣いをやる。そういう使い方だ。

それがどうだ。千香子を養子にしてしまった。

俺はどうかしてしまったに違いない。貞人は本気でそう思った。

犬や猫を引き取るのとは訳が違う。人間の子供だ。いかに一時癒されたとは言え、そうホイホイと引き取って良いものか。

千香子を養子に取るか否か悩んでいた貞人の背中を押したのは、貞人の職業だった。

つまり、面倒になればすれば良い、という考えだ。

職業柄、人間の潰し方と死体の消し方ならよく知っている。どこでどう処分すれば死体が見つからないか、貞人は知っているのだ。

世間に娘はどうしたのか問われたら、「男を作って出て行った」と言えば良い。

それに殺さずとも、マカオや何処かに売るのも手っ取り早いかも知れない。

であれば、この娘を引き取るのも悪くない。

手放すまでは可愛がってやれば良い。

無責任で身勝手なことを考えている自覚はある。

だが、元々人様に迷惑をかけて生きる道を選んだ以上、外道は外道。今更誰に何を恥じることも無い。


そんな風に千香子との出会いとこれまでを振り返る貞人は、車中でタバコをふかしつつ、食べ終えた昼食のチキンタコスの包み紙を丸めた。

その日の新聞の行間にメモした、店の名前の列を眺める。新聞にメモしておけば捨て置いてもゴミとして始末されるので、貞人の様な仕事の人間には有用だ。

メモした店名はどれも、例のサロンの系列だ。

つまり、六道会が間接的に所有する店だ。

馬場貞人が殺した5家族10組の夫婦は何れも、近親者に六道会の出すサロンの常連客がいた(貞人が手にかけた以外にも更に10人が死んでいるが、彼らも同様だった)。

貞人は手始めに、例の田沼彪吾巡査部長から共有してもらったそれら店舗の所在地を訪ねることにしたのだった。

一店舗ずつ見張り、客や店員の出入りをカウントする。何時にどんな人間が出入りしたかを調べるのだ。

一人で行うには大変地道な作業だが、大雑把なデータは既に田沼が調べていた。貞人はその田沼のデータを元に同じ様に客を調べ、貞人なりの観察をする。田沼が気付かなくとも、貞人なら分かることもある。

そして、に当たりをつけて、田沼には到底出来ない裏付け方で確証を得るつもりだ。拉致誘拐、監禁拷問は貞人の領分である。

その日も、貞人は粗方の調査を行い、夕刻には帰路に着いた。

今日は千香子が夕飯を作っているはずである。いつもの様にラジオのニュースを聴いていたが、たまには音楽でもと千香子セレクションのデレク・アンド・ドミノス「いとしのレイラ」をかけながらマンション地下に車庫入れする。

今日も世はこともなし。

「おかえり!」

貞人が玄関を入ると、千香子がエプロンで手を拭きながら迎えに出て来た。

カレーの香りがしている。

「ただいま」

「今日はね、カレーにしてみたよ」

「ああ、匂ってるな。有難う」

「またー?とか言わないの?」

「カレーは好きだ」

貞人はセミドレスブーツを脱ぎ、部屋(寝床のあるウォークインクローゼットだが)へ行くと、拳銃を手金庫にしまい、着替えて降りる。

するとちょうど、カレーが用意されているところだった。

手を洗って戻ると、付け合わせのマッシュポテトの盛り付けも済んだところだ。

そのマッシュポテトには見覚えがあった。

「このマッシュポテト、ツナが入ってるな」

「うん」

千香子が笑う。

「今日ね、また思い出してたんだ」

匙を掴んでいただきますしながら、千香子は言う。

「ここに来た日のこと」

一口食べて、美味さに身震いしている。

貞人も合掌して食べ始める。

「そしたらさ、なんかカレーが食べたくなっちゃって。このポテトも」

「そうか。俺もだ」

「カレー食べたかったの?」

「いや、俺も思い出してたんだ。あの日を」

「そっか。偶然だね」

この娘を殺すのは忍びない。当分、無理だ。

貞人は口中のカレーを噛み締めて思う。

「美味い」

「そ?ありがと」

「こちらこそ」


貞人がこうした稼業に就いているのには訳があった。

ある人物への私怨を晴らすべく腕を磨く為に、この世界へ飛び込んだ。18歳の時である。

人を殺すには技術が要ることを、貞人は知っていた。それを学ぶ為だった。

10年以上が経ち、いつの間にかその道の名手になっているが、まだ目標は達していない。

準備が足りておらず、私怨はまだ晴らせずにいる。

貞人は、誰かに対する恨みだけで生きているのだ。

そして、千香子がその妨げになる様なら、躊躇わず沈めるか埋めるかするつもりだ。

だが、日々それが難しくなっている。

千香子に対する情が湧き始めていた。

千香子を殺せば、今後ずっと悔いて生きることになろう。

貞人は今夜も、寝室であるウォークインクローゼットで一人、減音器サプレッサーと拳銃を手に悩ましい溜息を吐くのだった。


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