第6話 対公僕

木曜日の夜。

信田千香子と馬場貞人の暮らすペントハウスは、24時近くまで灯りがついていた。

夕食後、ホラーゲームを交代で進めるという家族団欒を経て、就寝の時間。

千香子は怖がりのくせに、ゲームはホラージャンルを好む。と言うより、一緒に人間が怖がっているのを見て、それを楽しんでいる節がある。

いつも沈着冷静な貞人が、敵のゾンビに出くわす度にビクっとなるのが千香子には面白いらしく、わざと貞人にくっついて、貞人の心臓の音や筋肉の強張りを確かめる。

貞人は千香子にくっつかれ、別の意味で鼓動が速くなりそうな気がして、そうと悟られない様にするのが大変な上、ゾンビは急に出て来て怖いし、そもそもゲームというものにも慣れていないので、すっかり疲れてしまった。

初め『怖いから一緒に寝よ?』と言って来た千香子も、キャーキャー騒いで流石に消耗したのか、すぐに自室で寝てしまった様で、もう物音もしない。

しかし貞人はまだ眠れなかった。

明け方に人と約束があるのだ。


今週の頭のこと。

「刑事だと?」

「ああ」

上役であるイザドラ・ハッチェンから、公安の刑事と会ってもらいたいと打診を受けた貞人は、片眉を吊り上げた。

公安の人間は、正確には「刑事」とは呼ばれない。刑事事件を扱う刑事課の人間ではないからだ。

だが、イザドラや一部の者は、背広を着た警察官をまとめて「刑事」と呼称することがある。無知故と言うより、そうやって俗っぽく彼等を呼ぶことで煽っている様だ。

オフィス近くの大衆割烹(全席喫煙)でランチミーティングの最中のことだった。

郷崎と金山と真田遥を先に帰され、貞人だけ居残りを命じられ、田沼彪吾という「刑事」の話を聞かされた。

「やっぱり、俺のことを尾けてたのか」

「気づいてたのか?」

「ああ。あの『月の湯』の駐車場にも、オフィスの前にも、いつも同じ黒塗りのフェンダーミラーの車が停まってた」

「黒塗りのフェンダーミラー。ホテルの送迎車じゃなけりゃ……」

「覆面パトだ」

利用する施設の駐車場に停まっている車を観察するのは、貞人の癖だ。

ただ単に車好きなのかも知れないが、そういうことには鋭い。

「先週の件がバレたか?」

貞人は苦虫を噛んだ様な顔をする。

それでも、尾行の正体がハッキリして幾分ホッとしている節もあるのか、煙草を吸い始める。

「だったら今頃私もお前もお縄だろうよ」

先週の件とは、つまり、貞人がイザドラの紹介で請け負った10人殺しの件だ。

5つの家族の、5組の夫婦を殺す依頼。何の因果も無い彼ら10人を、貞人は7500万円で始末した。面倒な案件だったが、痕跡は何1つ残していないはずだ。

「その件ではないと?」

「違うらしい」

「じゃあ何だ?そもそも何故お前を通す?」

「ま、一応お前も、国から逮捕権を与えられてる準警察職員だからな。私の顔を立てたんだろう」

「お前に義理立てする程、警察は俺たちを買ってない。むしろ俺たちこそ、世間の治安を悪くしてる元凶として目の敵にしてるくらいだ」

貞人達賞金稼ぎは日本保釈金協会の代理人だが、そもそも日本保釈金協会は一般社団法人であり公的な組織ではない。だから貞人達は準警察職員と呼ばれ、逮捕権と拳銃携帯許可こそあれ、殆ど一般人と変わらないのだ。

故に一般警察職員からは煙たがられ、その上、平気で違法行為に及ぶ犯罪者が多いとあって、むしろ取締りの対象になることすら屢々である。

「それくらい知ってる。だが、奴は違うみたいだ」

「ポリなんて皆同じだろう」

「会えばわかるさ」

「行っていきなりワッパかけられたりズドンとやられたりしたら、お前を恨むぞ」

「心配するな。所轄の知り合いに調べてもらったが、どうやら本物の刑事だし、それに……」

「それに?」

「その田沼って奴がお前をパクるつもりなら、呼び出す様な色っぽいマネしねぇってことだ」

「夜中にドアを蹴破るタイプか」

貞人は可笑しそうに笑った。

「あと、それなりに役に立ちそうだ」

「役に立つ?俺達の天敵が?」

貞人の疑問。

なぜ刑事が役に立つのか。

この会話が、今から数日前のことだ。


貞人は朝5時に田沼と会う手筈になっている。

待ち合わせ場所は、都内のとある公園。

人気の無い時間に人気の無い場所で会うのは、田沼が歴とした警察官であることが分かっているからだ。

相手が正体不明者なら、公共の、人気のある場所で会う。人が大勢いる場所ならば、下手に切った張ったは出来ないし、人混みに紛れることも出来る。

田沼の様な身分のしっかりした人間と会う時は、逆に静かな場所で、人目を避けるのが良い。相手にとっては気味が悪いので牽制になるし、最悪相手を殺してもバレにくい。

それでも準備が要る。

午前3時に家を出れば、4時には着くだろう。

早めに着いておけば、色々と仕込むことができる。

警察官の行動原則は、30分前行動。

だからこっちは60分前行動だ。

イザドラに一報を入れ、拳銃を2丁準備してから、出る。

闇の深い時間。とは言え、東京は大きい通りに出てしまえば、ネオンとヘッドライトが目に痛い街だ。

貞人の運転するゴルフが、次第に住宅地へ入って行く。

その辺りになると街灯だけがポツポツと立っているだけだ。

そんな中に、忽然と公園があった。

野球やサッカーは無理でも、バスケットボールくらいは出来そうなくらいの広さで、四方を木が囲んでいる。

人はいない。

公園の周りをぐるっと回って、少し遠くへゴルフを停める。

待ち合わせ場所の側に車を停めては、ナンバーを控えられたり、発信機をつけられたりするかも知れない。爆弾を仕掛けられることは無いにしても、用心したいところだ。

赤外線を可視化出来るサーマルスコープで、周囲をチェックする。背の高い建物や民家。人影は無い。家の室外機や給湯器、電線の変圧器だけが色付いて見える。

公園に入り、ベンチの1つに座ると、手が届くほど近くの潅木かんぼくの植込みに、拳銃を隠す。

拳銃はもう1丁ある。アンクル・ホルスターに、9mm弾を使用するリボルバーを差している。足首に隠すのには理由がある。腰に差したり、脇に吊ったりしていると、相手が刑事ならすぐにバレる。

一目に武装していると分からない様にしておくのは、こちらの身を守るためでもある。

あまり相手の警戒心をあまり煽っては、相手が小心者だった場合、拳銃を抜かれてしまう可能性がある。それでは話もできない。

田沼が小心者でないことは知っている。

だが、これも用心だ。

冷静に話をする為に、前もって拳銃を手近な場所に隠し、また、見えにくいところに帯びる。

粗方の準備が整ったところで、刻限の30分前となった。

日の出を迎え、空が青くなっていた。

公園の端にある防災器具が入ったコンテナと公衆トイレの影に潜んで立ち、待つことにする。

数日前のことをまた思い出してみる。

田沼についてイザドラに聞いた時のことだ。


田沼は、役に立つ。そうイザドラは言った。

「役に立つ?俺達の天敵が?」

貞人の疑問に、イザドラはこう答えた。

「調べて分かったんだが、田沼って苗字は役所で変えたもので、奴の旧姓は『菱沼ひしぬま』だ」

貞人の表情が僅かに動いた。

氷の塊の表面を滑る水滴の様に、傍目には分かりにくいが、それは確かに貞人の顔に現れた。

どの様な感情かは分からないが、何かが貞人の胸中に去来したのは確かだった。

しかし、貞人は何も言わない。

イザドラは代わりに、

「菱沼グループの総帥、菱沼塒ひしぬまとぐろ。その次男が菱沼彪吾こと、田沼彪吾ってわけよ」

と続けてやる。

「菱沼グループは、高度経済成長期から鉄鋼と造船で大きくなり、今や巨大なコングロマリット。政財界は勿論、私達の世界にも影響力がある。知ってるよな?」

「ああ」

「そのボスの息子となりゃ、近づいといて損は無い」

「それは良いが、放蕩息子プロディガル・サンがなんで刑事なんてやってるんだ?」

「知らねえよ。苗字もわざわざ変えてるし、何かあったのかもな」

「そう言えば、お前も実家は金持ちだったな。トラッシュ家庭出身者の方が多い世界だってのに、奇特だな」

「それは否定せんが、ボンベイ、お前はどうなんだ?」

「俺のことはいいだろう」

「どうして?」

「今こうしてクズやってるんだ。元が金ピカだろうが襤褸だろうが関係無い」

「じゃあ、私も田沼も同じことよ」

「……違いないな」

イザドラは咳払いすると、また話し始める。

「菱沼塒は隠居して随分になるが、今でも力がある。力が及んでるのは日本だけじゃねぇ。バハマ文書、スノーデン、バルティスカヤ原発、果ては極東戦争。噂じゃあ、それらの原因の一部を担ったとか、いやいやかかる火の粉から日本経済を守っただとか、色々と話はあるが、まあ、私らには足の臭いも嗅げねぇくらいのビッグボスだわな」

「お前は情報筋に長けてると思ってたが、それでも菱沼のことは噂止まりか」

「それくらい上になって来ると、うちら雑魚に動きが掴めるほど容易くない。奴らのは全部クローズドで外に漏れないし、もし漏れてもすぐにデッドラインになる」

「トカゲの尻尾だな」

「そうだ。だから難しい」

「この前の件と言い、俺達の与り知らぬ所で働く力学がある。それはどうしようも無い。潮の満ち引きみたいなもんだ」

「そうとも。だからこそ、田沼には価値がある」

「息子である田沼なら、簡単にトカゲの尻尾になることは無い、か」

「うむ、多分な」

「だが、田沼こと菱沼彪吾が、俺達に利用されるだけのアセットになる様な甘い奴じゃなかったら?」

「そりゃ甘くねぇさ。そもそもオマワリだしな」

イザドラはあっけらかんと言った。

真意が読めない。イザドラは一体どういうつもりでお膳立てをしているのか。

「……そろそろ聞かせてくれ。俺とそいつを引き合わせたいワケは?奴の狙いは?」

貞人の問いに、イザドラは頬杖をついてこう答えた。

「お前の正体さ」

「俺の、正体?」

「本名本籍その他色々だ。お前、日本に帰ってきた時に顔まで変えたよな?整形手術で」

「後ろ暗いところがあるもんでね。お前には関係無いだろ」

顔の整形。確かに施している。

日本に戻ってすぐのことだ。『馬場貞人』になりきる為に。

元より顔立ちの似ている人間を選んだわけだが、より似せるために外科手術を施したのだ。金をかけたおかげで、かなり本人に似た顔になった。手術で神経が傷ついた為に頬の一部にはまだ感覚が無いが、それくらいは安いものだ。

「お前が殺した『馬場貞人』本人ソックリにしたんだろ?」

「そうだ」

「向こうにいた頃、いつも写真を避けてたのは、初めから顔を変える予定があったからか?」

「写真が嫌いなだけだ。そんなことより、田沼の狙いが俺の正体ってのは、どういうことだ?」

貞人の問いに、イザドラは頬杖をやめ、

「奴は、お前が誰だか知ってるフシがある」

とだけ言った。


田沼彪吾は警視庁警備局 警備企画課 実務係に身を置いている。

この実務係というのが曲者の集団だ。

実務係は特定のオフィスを持たず、警電(支給される携帯端末)で入る情報を元に任務に当たる、街を巡回する私服警官の部隊だ。

地域警察官おまわりさんと違う点は、制服を着ないということと、管轄を持たないこと。

自由に動き回ることを許されているが、警電のGPSで常に上役の監視がある。

これは突発的な凶悪事件に対応する為に設置された、遊撃手的な専門班であり、配属される人員は皆、柔道・剣道・逮捕術・射撃において一定の成績以上を持つ者とされている。

彼等は常に武装し、拳銃を携行している他、自動小銃と散弾銃も車載しており、単身でも1区画を制圧出来る火力を有す。

イザドラが言った幅広情報収集の任務も、現在この実務係に取り込まれている。

フットワークが無ければ務まらない事案に対応する為の部隊。それが警備企画課の実務係だ。

元は暫定政府発足時に内務省が設置された折に、その内務省内に設立された重武装警ら隊をその始祖としている。その後、新政権発足時に内務省解体と警視庁再編を経て、今の実務係となって行ったわけである。

それ故、実務係は鎮圧部隊としてのDNAが強いが、一方でスパイ部隊としての性格も有するという、特殊な集団だ。

田沼彪吾の仕事場は街であり、オフィスは泥塗れで傷だらけのランドクルーザーの運転席。

背広は着ず、いつもクタクタの野戦服にカーゴパンツやジーンズ姿。

管轄は北海道から沖縄まで。犯人が海外に居れば、そこへも出向く。

GPSという首輪をされているが、何処までも自由な仕事である。

それ故に、朝の5時に人と会うというのも、当たり前のようにあることだ。

「眠い……」

運転席でハンドルを握る田沼は欠伸をかます。

「眠いっスねぇ」

助手席には、同じ実務係の同僚で後輩の、藤吉ふじよしが座っている。

藤吉は田沼より十程若い。背は低いが腕や脚が太く、ラグビー選手の様な印象がある男だ。

「田沼さん」

藤吉が目を擦りながら声をかけて来る。

「なんだ」

「誰に会うんスか?」

「誰なのか確かめたい相手さ」

「男っスか?女スか?」

「男だ。多分」

「多分て」

藤吉も田沼と同じ実務係の人間だ。

基本的に単独行動する彼らだが、複数人で動く時は必要人数に声をかけて集まってもらう。それも警電のフリック操作ひとつで可能だ。

藤吉はしょっちゅう田沼が呼び出している為、半ば相棒の様な存在である。

「田沼さん」

「なんだよ」

「田沼さんの車って、なんでいつも西部劇みたいな曲かかってるんスか?」

「好きだからだ」

「へえ」

「悪いか?」

「いえ、別に」

「エンニオ・モリコーネ、知らんか?」

「さーせん。自分、どうでもいいっス」

「つまらん奴だ。アメリカ映画くらい観てるだろうに」

「モリコーネはイタリア人っス。マカロニっスよ。そもそも西部劇の曲って、ディミトリ・ティオムキンが母国ロシアの民謡から発想した曲調なので、曲自体のルーツはロシアにあるっス」

「……お前、詳しいな」

「自分、学生の頃、ちょっと吹奏楽部やってたんス」

「意外だ。アメフトやラグビーかと」

「あはは」

田沼は藤吉とは随分になるが、まだ人物を掴めない所がある。よく喋る男だが、尽きせぬ謎を持つ後輩だ。知らないプロフィールも、まだまだあるだろう。

暫く車を走らせ、ちょうど4時30分に、待ち合わせ場所の公園の辺りに着いた。

日の出を過ぎ、空は明るくなったばかり。

車で公園の周りをぐるりと一周する。

公園には誰もいない。

路肩に駐車すると、藤吉を運転席に座らせて、そこから様子を注視している様に頼む。

「了解っス」

藤吉は拳銃グロック34を腰のホルスターから抜いて、遊底を引くと座席と太腿の間に挟む。

田沼も拳銃シグP220を抜いて、チャンバーチェックしておく。問題無い。何かあれば初弾で倒せるだろう。安全装置をかけて、ホルスターに戻す。

公園の周りを徒歩で回って、今度は周囲の住宅の窓やドアを見る。まだ夜明けの時間だ。人気は無い。

この公園を指定したのは田沼だ。見晴らしが良いので見張りやすいし、相手が逃げても周りは住宅地なので隠れる場所は少ない。相手を確保するつもりなら閉鎖的な場所でも良いが、そもそもそんな場所では相手が警戒してしまう。撃ち合いも捕り物も演じるつもりは無いが、そういう場所を選んだつもりだ。

田沼は公園に入る。

滑り台、ブランコ、鉄棒がある。

公衆トイレと、広場。公衆トイレを確認しておくことにする。後ろ腰の拳銃に手をかけたままトイレの中へ入るも、誰も居ない。

その時、

「田沼さんかい?」

背後で声がした。

田沼は思わず拳銃を抜きそうになったが、理性がそれを抑えた。声の調子の落ち着き方からして、待ち合わせの相手だ。

右手を銃把から離し、ゆっくり振り向く。

「馬場さんだね?」

目の前には中肉中背の犬顔の男。歳の頃は二十代半ばくらいに見えるが険しい顔つきで、何気無い表情をしていても眉間の皺は半ば皮膚に刻まれているかの様だ。

「田沼彪吾。警視庁警備企画課」

田沼は名乗る。

「ニコマルの馬場貞人」

スズメが鳴く中で名乗り合った。


午前7時に貞人は帰宅した。

7時10分には千香子を起こすことになるので、急いで朝食を作る。

目玉焼きとハムとサラダを盛り付け、六枚切りの食パンをトースターに突っ込むと、千香子の部屋へ。

ベッドに千香子の姿は無く、クローゼットから目覚まし時計の音が鳴る。

千香子は今日もクローゼットで寝ていた。

丸まったタオルケットを抱き、寝間着のTシャツが託し上がってお腹が丸見えだ。ハーフパンツの緩くなったゴム紐のせいで、ショーツの上端も見えている。

本来、健康男子にとってこれは眼福なのかも知れないが、養父の貞人には目の毒だ。

「起きろ」

声をかけるも千香子は僅かに身じろぎするだけ。昨夜はゲームをさせ過ぎた様だ。

「朝だぞ」

「……嘘だぁ」

朝を嘘と言うこの娘。

「本当だ。朝飯も出来てる」

「……おみそ汁ある?」

「今朝は、無い」

「……それじゃあ起きられないなぁ」

「学校に遅れるぞ?」

「……おみそ汁のかわりに元気になれるもの、欲しい」

「シャブか?」

「にぃちゃん、笑えない」

「なんだよ、元気になれるものって」

「うふふー、それはねぇ……」

千香子は少し勿体ぶると、やっと目を開き、タオルケットをドラキュラのマントの様に羽織って跳び起きた。

「……それは、目覚ましのヴェーゼ!」

しかし貞人は2秒前に部屋を出て行き、ドアの外から「早く降りてこいよー」と声をかけるあしらい方で対応した。

「こら、おい、兄。戻りゃんせ」

貞人が階段を降りる音が聞こえて、不承不承に寝床を出る。寝床から出る時。これぞ1日のうち最悪の瞬間だ。

髪を軽くといて制服に着替える。

部屋を出て、2階の洗面所で歯を磨く。1階のお風呂の脱衣所兼用の洗面所は、貞人が使い、2階は千香子が使う様になっている。特にルールは決めていないが、朝のこの時間に洗面所でカチ合うとお互いタイムロスになるので、千香子が2階の方を使い始めただけだ。

そこで髪をきちんと整える。朝の用足しも、2階のトイレを使う。そのほうが手間が無い。再び洗面所で鏡を覗き、ニキビチェック。特に出来たりしていない。顔色も悪くない。化粧は無しで良いと判断し、一旦部屋に戻ってカバンを掴むと、階段を降りる。

階下に降りると、ダイニングキッチンのカウンターに湯気の立つ朝食が並んでいた。

しかし、千香子の視線は朝食より、キッチンの貞人に注がれていた。

「どうしたの?その顔」

貞人の右頬が薄紫色に腫れていた。右瞼も少し腫れ、右目が小さくなってしまっている。

「ちょっとな」

貞人は尋ねられると思っていたらしく、何でもないとあしらう。

「喧嘩?」

「中高生じゃあるまいし」

「じゃあ何?」

「仕事だ」

「悪者が暴れたの?」

「そんなとこだ」

「ふぅん」

千香子は貞人の顔をしげしげ眺めつつ、いただきますして朝食を食べ始める。

「マーガリン塗るか?」

貞人も調理具を片付けつつ、立ったままトーストを食べ始め、千香子に問う。

「ミルクジャムまだあるンなら、ミルクジャムがいいな」

「コーヒー味のがあるから待ってろ」

「買って正解だったね。また買ってよ」

「高いから、常備はダメだ」

「ケチぃ」

親子らしい朝の会話。しかし親の顔が試合後のボクサー状態なので、爽やかな朝の風景としては異様と言える。

千香子が食べている間に、貞人はトーストを咥えたまま、千香子の弁当におかずを詰める。

白飯は、昨夜の残りを冷凍したものを解凍して敷き、おかずはこれも冷凍食品だ。時間が無い時はこれに頼るしかない。簡単だが、貞人の作ったおかずより美味いので、実利的である。

「簡単ですまんな」

「いいよー。昨夜も仕事だったのに、むしろゴメンね」

朝食をごちそうさました千香子はお皿を下げて、貞人の拵えた弁当を通学カバンに入れると、「いってきます」と言って玄関に向かおうとした。

「へい、ロッキー」

振り返って言った千香子のおふざけに、

「何だ、エイドリアン」

と貞人が返す。

千香子は、耳貸して、という風に手招きとコソコソ話をする添え手で貞人を誘い、貞人の顔が下がると、その腫れた右頬に軽くキスしてやる。

「馬鹿、何してる!」

貞人は鍋が噴きこぼれた時の様に慌て、腫れた頬に手をやる。

「バカは無いっしょ。早く治りますよーにってゆうおまじないなのに」

千香子はヘッヘッヘと悪い笑みを浮かべつつ、玄関へ。

「じゃ、いってきまーす」

その背中を見送った貞人はそのまま立ち尽くしていたが、やがてふと自分がどんな顔をしていたか気になり、表情をキープしつつ洗面所に向かい鏡を覗くと、まだ右手がキスされた右頬を押さえたままになっていることに気がついた。

右手を下ろす。

右の頬からミルクジャムがほのかに香る。貞人はマーガリンで食べたので、このミルクジャムは千香子の唇に付いていたのだろう。

さて、顔は、仏頂面のままだ。

良かった。慌てた様子を悟られたりはしていないことを祈ろう。

別に女性に接吻されたことが無いわけではない。ただ、キチンと情の込もった口づけをされたのが余りに久し振りだったので、狼狽してしまったのだ。

その狼狽を千香子に見透かされては、保護者としての面子が立たない。

皿を洗いつつ、貞人は溜息を吐く。仕事も私生活も、何やら面倒なことになって来た。


1階へ向かうエレベーターの中で千香子は、壁に額をガンガン打ちつけていた。

「ああぁあぁあああぁ恥ずかしぃ

いー!やっちったー!ちくしょー!うおぉおおおおおおおぉ!」

ホッペにキスというだけでも、15歳の小娘にとっては凶行なのだ。相手の腹を刺すくらいの決心が要った行為だった。決行するか否か悩んでいたおかげで、朝ごはんに何を食べたか憶えていない。

コソコソ話を誘って相手に耳を傾けさせ、その頬に口づけ。少女漫画で読んだテクニックだが、こんなに簡単に上手くいくとは。

しかし、仕掛けた方の千香子が耳まで真っ赤である。

心臓の高速の鼓動が、千香子の体を穴の開いた風船の様に暴れさせる。四方の壁を殴り、床でブリッジし、羞恥心を発散させんと一頻り暴れる。

直通エレベーターなので途中で誰かが乗ってくることは無い。

そのエレベーター内のその様子を防犯カメラを通じて1階ホールの佐丸警備員が見ているとも知らず、千香子は1階が近くなると身形を整え、エレベーターのドアが開くと「おはようございます」と涼しい顔でブースの佐丸に挨拶して学校へ向かった。

梅雨入り前。空は晴れていた。


「何だァ?その面ぁ」

対面一番にイザドラが声を上げた。

イザドラのオフィスへ今朝の田沼と話した件を報告に来た貞人は、いつもの仏頂面だ。右頬は氷こそ当てたものの、千香子のおまじないがそんなに早く効くわけもなく、依然腫れている。

「いきなり、仕掛けられた」

貞人は腕を組む。そもそもこの話を持って来たのはイザドラだ。この痣はイザドラのせいとも言える。

「素手の喧嘩をか?中高生じゃあるまいし」

「俺もそう思う」

イザドラの秘書の森山が、淹れたばかりのコーヒーを持って来た。エチオピア豆の深煎り。専用のファイヤーキングのマグカップ。それを2人で飲みつつ、

「順序立てて話せ」

「わかった」

貞人は、5時間前のことを話し始めた。


「田沼彪吾。警視庁警備企画課」

「ニコマルの馬場貞人」

スズメが鳴く中で、互いに名乗り合った。

その刹那。

田沼の腰が落ち、鋭い右の足刀蹴りが貞人の腹を目がけて飛んで来た。

貞人は咄嗟に、その蹴りを右腕で払いつつ左にステップし、距離を取る。

素手の格闘。

いきなり何故。

考える暇も無かった。

田沼が腰を落とし、両の拳を構えて、貞人を追う。

右足が前の、サウスポー構え。

貞人も同じく、右足が前になる逆構えだ。

普通右利きは、左足が前になる順構えになるが、貞人が右利きにも関わらず逆構えなのは剣道と古武術をやっていた経験があるからだ。だから、右足が前になる。

この田沼も、利き手は右のはずである。それなのに、貞人と同じ逆構え。同じ構えのふたり。

田沼の右ジャブ。速く、強い。

貞人は両の手でパンチを払う。

間隙を縫って、貞人の前蹴り。ジャストミートしないまでも、互いの間に距離が出来る。

間合いを詰め、どちらともないフェイントとカウンター狙いの応酬。

目の良さ、速さ、経験。

どれも互いに拮抗している様だった。

しかし、貞人の方が年齢が若い。長引けば、先に息が上がるのは田沼の方だろう。

貞人はそう考え、今度は田沼を休ませない様に間合いを詰め始める。プレッシャーをかける。

しかし、田沼も心得たもので、それに動じない。

ベタ足で、根をはった様に、動かなくなる。カウンターを狙う蛇の目を、真っ直ぐに貞人に向けている。

成る程、これが競技ならば強かろう。

だが、これは街の喧嘩だ。

貞人は足元の砂を思い切り蹴り上げ、土埃を田沼の顔に飛ばす。

目潰しにはならないまでも、瞬きを誘うには十分だ。

すかさず右ジャブからの左ストレートを放つ貞人。しかし、空振る。

田沼の体が、くるりと右に、貞人から見て左に反転して受け流したからだ。

それと同時に田沼の左バックハンドブローが飛んで来たが、貞人は顎の前まで引いていた右掌で左耳を覆うようにガードしつつ、頭を屈めてやり過ごす。

田沼は後の先のカウンターが受けられてしまい一旦引くかと見えたが、その田沼の左足がヒョイっと上がった。

左足が貞人の右頬を思い切り叩く。

田沼の体勢が不完全であったから良かったものの、軸足が接地していれば意識を失っていただろう。おかげで気が狂いそうな程の痛みだけで済んだ。

こっちのつけ込む隙が無い。もし隙があっても、こうして無理な体勢からでも柔軟に反撃を繰り出して来る。粘りのある戦い方だ。敵に回したくないタイプなのは間違いない。

しかし、貞人とてそれは同じだ。

自分を蹴った田沼の左足を掴んだ貞人は、寝技に持ち込もうと、その左足を強く引く。

田沼は逆らわずに、その勢いで貞人に組みつこうとする。

しかし、組みつかれる前に、貞人は田沼の左足を放した。

そして両の手で突きを放つ。

右拳は田沼の首、左拳は右脇腹を狙った、諸手突き。腕と肩と上半身のしなりで打つ、独特のフォーム。

打つ時に、右膝を抱え込む様に右足を上げるのは、金的を防ぎつつ、両手が無防備になる次の瞬間に蹴りを出せる様にだ。

諸手突きは田沼に刺さる。

首への当たりは浅いが、脇腹は深い。元々首への突きは、脇腹を狙う為の囮としての役割が大きい。

次には予定通り、低めの前蹴りを出す。

それで距離が取れた。田沼が後ろ受身で転がり、そのままスックと立った。

互いに構えを解かないまま、間合いの外で見つめ合う。

「妙な当身あてみだな」

田沼がそう言って、息を吐く。

そして、構えを解いた。

田沼は服に付いた砂を払いつつ、脇腹を押さえる。

「おお、イテぇ」

「あんたが仕掛けたんだろう」

貞人は構えを解かない。そのまま、

「無抵抗の市民に対して、お遊びが過ぎる」

と言うと、ペッと血の混じった唾を吐く。

「何が無抵抗だ。そもそも技があると思ったから仕掛けたんだよ」

田沼は笑う。

「まあ、許せ」

屈託の無い笑みに、つい毒気を抜かれる思いがした貞人は、少し構えを下げる。

「時間が勿体無い。本題に入ってくれ」

貞人はゆっくり後ずさると、構えを解いて、ベンチに座る。近くの植込みには拳銃が隠してある。

「実は、もう本題に入ってる」

田沼は笑みを崩さず、貞人に近づく。もうどんな殺気も無い。

成牙流せいがりゅう、当身の十三、随兕ずいじ。その角は岩をも砕く、ってか」

田沼が言った。

貞人が放った諸手突きのことだ。

「成牙流を使う奴は珍しい」

貞人はどんな表情も浮かべない。黙って聞いている。頷きもしない。

「ただでさえマイナーな古武術の、しかも成牙流って零細流派。とはいえ、実は俺も嗜んでいてな。お前、もしかして前に道場で会ってないか?」

田沼は貞人の横に座る。

「知らんな」

貞人の言葉は、そんな流派は知らないというニュアンスも、お前なんか知らないという意味も、両方を内包している様だった。

貞人に話す気が無いことがこの返事でよく分かった田沼は、煙草を吸い始める。

貞人はそれをじっと見ている。

やがて沼田は、

「実は、成牙流は国内では無名だが、海外の特殊部隊や要人警護の訓練課程では有名で、この世界なら知っている人間も多い。現代では貴重な、古来からの殺人術を豊富に残しているからな。大先生おおせんせい白井牙山しらいがざんは今でも世界中飛び回って教えてるよ」

というを始める。

「お前も、大先生おおせんせいに教わったか?」

「そんな話をする為に、ここに呼び出したのか?」

貞人は焦れているが、それを表情に出さない様にしている。

田沼は煙草の煙を吐くと、諦めた様に話題を直接的な方向へ持って行く。

「あんたの名前は、馬場貞人。2007年生まれ。29歳。マンション経営と賞金稼ぎの二足の草鞋で、所得税に誤魔化しは無し。マンションを建てた時の頭金の支払いは現金。後のローン支払いも順調。定期補修工事の積立ても、大丈夫そうじゃないか」

オマワリのこういうところはいつも不気味だ。こっちのことを、こっちの知らない内によく調べている。貞人はそう思う。

「マンションを建てた金は、マカオで稼いだ。ラッキーだった」

「そうらしいな。あんたの相棒で社長のイザドラ・ハッチェンも、マカオで勝った金で会社を建ててる。あんたら、余程ギャンブルが強いと見える」

「奴と俺は、いつも運が良い」

「そうかい。伊達にキャッサバばかり食べてたわけしゃないな」

「……」

アフリカに居た頃は、青いバナナとキャッサバばかり三食。それが思い出される。飲み水は土の臭いがする所だった。

田沼は貞人がアフリカに居たことも調べているのだ。そこまで調べているということは、即ち、田沼は目の前のこの自分を信じてはいない。馬場貞人という人物が偽物であると疑っている。

「勤めてるのは、ニコマル金融。そりゃ、俺みたいな警察官に睨まれても仕方ねぇ」

「それは確かに」

ニコマル金融は評判が悪い。

と言うのも、採用している人間の多くが、素性の良くない者だからだ。悪く言えばゴロツキやチンピラの類が多いのだ。

賞金稼ぎ達が所属する会社である、保釈金取立業務代行会社にも、色々とタイプがある。

元警察官で作られている会社、元自衛官で作られている会社等だ。他に、極東戦争の折に日本へ稼ぎにやって来た元傭兵達で構成された会社もある。

イザドラ・ハッチェンが作ったニコマルは、一部にそうした元傭兵や、他にもヤクザ崩れや警官崩れ、何かになり損ねた人間を取り立てている。賞金稼ぎをしていなければ、刑務所か職安か墓場に居る様な連中だ。

イザドラ曰く、「人探しをするなら、外様のライオンより地元のジャッカルだ」とのことで、つまりは優秀な人材をよその土地から連れて来るよりも、地元で居場所を無くしたロクでなしの方が、何かとこの稼業には都合が良いということだ。

だから、他の会社より問題を抱えた社員が多いのも、確かだ。

「しかし、賞金稼ぎとしては優秀だな。働き者だ。去年だけで30人も捕まえてる」

田沼は続ける。

「だが、そのうち半分以上は逮捕時に殺してるな」

田沼は冷たく笑っている。無表情な貞人と、感情自体は実はさして変わらない温度感らしい。

「それでも賞金は貰える」

「そうだろうよ。まるで西部劇だな」

「俺の準警察職員としての資質を問いに来たわけでもあるまい?」

「……」

田沼の吸っている煙草が短くなってきた。

田沼は、核心に触れ始める。

「あんた、孤児院に居たな?児童養護施設に」

「だったら何だ」

本物の馬場貞人は、確かに児童養護施設の出身だった。

「最近、同じくそこに入ってた子供を養子にもしてるな」

「ああ」

「施設の名前は?」

「立川セントジョージ学園」

「あんたは何年入ってた?」

「2021年から2025年の4年間だ。これは尋問か?」

「いいや、個人的な質問さ。PKOの活動に参加して南アフリカへ行ったのはその後だな?」

「ああ」

「顔を整形したのは、そこから帰ってからか?」

「……」

「横須賀の整形外科で、顔を変えてるよな?お前の元の顔は分からねぇ。何せその整形外科病院が燃えちまってるからな、医者と一緒に。もっとも、医者は火事の前に首を絞められて死んでたそうだが」

「何が言いたい?」

「あんたは、本当にその孤児院育ちの馬場貞人なのかどうか、ちょっと怪しいんじゃないかと思ってね」

「じゃあ逮捕しろよ」

「まあ、そう焦るな」

「……」

「いいか。お前は馬場貞人本人じゃないかもしれん。だが、証拠は無い」

「当たり前だ」

「しかしだ。お前が今やってる怪しい仕事は、ヤバい。逮捕されて有罪になれば、死刑は間違いない」

「何のことかさっぱり分からんね」

「業務以外の人殺しをやってるだろうが」

「知らんな」

「ふん。まあ、この件でも証拠は無い。それは同じだ」

「……」

田沼は、貞人の正体を真っ向から聞き出すつもりらしい。

小細工が苦手な性分なのだろうが、愚直が過ぎる。

貞人が黙りを決め込もうとしていると、田沼は、次に込めた弾を撃ち出した。

「先週と先々週で人が大勢死んだ。20人もな」

少し遠巻きに話をし始める。

先週の殺しの件であることは、すぐに分かった。

「ほう」

しかし貞人が把握している殺しは10人分だけだ。

もう10人分は知らない件だし、それが誰の仕事なのかも知り得ない。

「事件、事故、行方不明。20人が死んだり消えたり。夫婦者ばかりが子供を残して10組もな」

「毎日どこかで誰かが死んでる。世の中そんなもんだろう」

「いいや、これは他殺だ。司法解剖を待ってる遺体もあるから、断定は出来んが。何れも犯人は挙がってない」

「怨恨や金の線では被疑者が浮かばない。そんな事件だって山ほどあるだろうよ」

「その通り。だが、俺達には常にマークしてる要注意人物が、何人か居てね。そのブラックリストのうちの何人かが、この街から姿を消してた」

「その間に、20人が死んだ、と?」

「状況が出来すぎてる」

「それだけじゃ弱いと思うがな。被害者に繋がりでもあったか?」

貞人は、殺しのターゲット達の関係性を見出せなかった。この質問は本音で尋いている。

「まあな。詳しくは言えんが」

田沼は必要以上を漏らすつもりは無い様だ。

「そうかい。で、それと俺と、どう関係してる?」

「お前もブラックリストの1人だと言ったら、分かるだろう?」

「それは光栄だ。だが、俺じゃない」

「そう言うと思ってたよ」

「証拠は無いんだろう?だったら証拠を掴んでから出直すべきだし、それに、もし俺が犯人の1人だったら、この話を受けて証拠隠滅を謀るかも知れん。感心しないな」

「犯人は複数だと、どうして思う?」

「俺がブラックリストの1人だって、そっちが言ったんだろう?」

「だが犯行に及んだのはブラックリストの全員とは、言ってない。所在が一時的に分からなくなってたと言っただけだ」

「被害者の数と、犯行の期間からして、1人じゃあ厳しいと思うがね」

「確かにな」

田沼は言葉の端々まで聞いているぞと、この様なジャブを出して来た。まだ殴り合いは続いている様だ。

こういうジャブに言い淀んだりすれば、捕まらないまでも、向こうのペースになってしまう。

「俺は何もやってないし、知らない」

「待て待て。俺があんたに会いに来たのは、ワッパかける為じゃない」

「やっと本題か。じゃあ何だって言うんだ?」

田沼は、まるで女に思いを告げるかのように、少し照れ臭そうに鼻を擦り、

「俺はお前のことを追ってたんだが、どうもお前が関わった事件の裏側にいる奴らの方が気になりだしてね」

と笑う。そして、

「ちょいと手伝って欲しいのさ」

と、目を覗き込んで来た。

「俺にオマワリの手伝いを頼むのか?」

「準警察職員だろう?」

「だが俺は、保釈金を踏み倒して逃げてる逃亡犯を捕まえるのが仕事だ。殺人の捜査は越権行為だよ」

「違法なアルバイトは出来ても、法の番人としての時間外労働は真っ平ってか?」

「言ってくれるね。俺には、あんたを手伝う義理は無いし、そもそも仕事をさせるなら報酬の話をすべきだ」

「義理ならあるさ」

「無いね」

「あるだろう?」

「知らん。何を言ってる」

貞人の返答に、田沼は、

「お前、俺のこと知ってるな?」

と、また目を真っ直ぐに覗き込んで来た。

全く駆け引きをしないタイプは、逆に気味が悪い。

「元々あんたの苗字が『菱沼』だってことか?菱沼グループに収まらずに、公務員をやってる変わり者だと」

貞人はそう答える。

田沼は待ち受けた答えとばかりに薄笑いを浮かべる。

「お前のところの社長が調べたらしいな。誰かに銭をつかませて知った、履歴書を斜め読みした程度の、誰でも知ってる情報だ」

「……」

「だがな、そんなこと、お前はとっくに知ってたはずだ」

「何のことだ」

「とぼけるな。お前はこの俺『田沼彪吾』が『菱沼彪吾』だと知っていたはずだし、この顔だって懐かしいはずだ。お前が俺の思ってる通りの男ならな」

「話が見えない」

「……白状するつもりが無いのは、分かってる。だが俺は、お前の正義感が強いってことはよく知ってる。俺の頼みを断る人間じゃないとな」

貞人のことを追っていたと言う田沼。どういう理由で貞人を探っていたのかは、分かる。

貞人のことを、田沼に近しいだと思っているのだ。

そのが整形して顔を変え、殺し屋に身を落としている。そう考えているのだ。

「よく分からんが、まあ、いい。報酬を提示してみな。いくら出す?」

しかし、そんな田沼に付き合っているのも煩わしい。身のある話をしたい貞人はそう尋ねた。

「報酬は、俺に付きまとわれることが無くなるってのと、それプラスアルファ」

「アルファを聞かせろ」

「被害者20人に繋がりがあると言ったが、それはある『組織』でね」

「組織?」

「その組織が貯め込んでる違法な資産、それはあんたやあんたの会社の物にしていい。それがアルファさ」

「まだ話が見えんが、その組織とやらが存在するという証拠は?」

「詳しい話なら、できる」

「ふむ。じゃあ詳しく聞く前に尋ねたい」

「構わん」

「あんたは、俺がその20人殺しに関わってると言うが、もしそれが正しかったとして、被疑者の俺がどうして事件の捜査を手伝わなきゃならないんだ」

「お前が犯人だったとしても、お前は雇われて金で手を貸しただけの雑魚だ。逮捕しても抜本的な解決にならん。だからお前を味方にして、銭を払った連絡役を追ってもらい、俺は組織の方を突つく。下と上の両方から攻めるのさ」

「畑中葉子かよ」

「それは『後ろから前から』だ」

「要するに、俺をパクらず、協力者にするわけか」

「アメリカでは司法取引なんて言うよな。日本ではあり得ないが、こういう個人的な約束事なら問題無い」

「俺がこの会話を録音してれば、あんたのキャリアは終わりだ」

「キャリアなんて望んでないから、屁でもないね」

「あんたの目的は?俺を追ってたとかいってたが、そういうことじゃない。もっと根源的な意味での目的は何だ」

「悪さしてる連中を、懲らしめたいだけだ」

「あんたの手で逮捕しなくても構わない、と?」

「できれば捕まえたいが、それでは正義が行えない時もある」

「すると、あんたは自分で犯人を裁くわけだ。あんたの正義は絶対ってわけかい?人の善悪を裁ける物差しを持ってると?」

「俺は神様じゃない。だが、自分が許せないことと戦うのが、それが、仕事だ。その為に人は働く。給料が少なくても文句は無いね」

田沼は当たり前のこと様に言った。

何でもない常識を口にする様に。

しかしその言葉は、田沼の胸の内に燃える情熱から発された物であることは、確かだ。

こういう警察官らしい警察官は、今日日少ない。こういう警察官が一番厄介だ。買収も脅しも通じない、自分を映画の主人公か何かかと勘違いしている奴。そこそこの実力に裏打ちされた並々ならぬ自信。殺さない限り折れない心は、愚直を通り越して阿呆の域だ。

こういう男が一番厄介なのだ。

「青臭いオッさんだな」

貞人は、情熱や信念といった類いが嫌いだ。

「うるせえ」

「報酬とやらの額は?大凡どれくらいだ?」

貞人には善悪の観念は無い。損得勘定があるのみだ。

「何十億、もしかすると何百億」

「雲をつかむ様な話だな。まあ、いい。で、俺みたいなヤクザ者に何をやらせるんだ?組織ってのは何なんだ?」

「その質問は、この話を引き受けるって意味だと認識していいか?」

田沼は何気無い視線を向けて来る。真摯な目だ。阿呆だが嘘の無い男による、嘘の無い話。聞く価値は、それなりにあるだろう。

暇潰しくらいにはなるかも知れないし、面倒になればケツをまくれば良い。

「聞くだけ聞いてやる」

「有難い」

田沼は、知り得る情報を貞人に聞かせた。


30分後。

話を聞き終えた貞人は、両手を開いて見せつつ、田沼の目の前で、植込みから拳銃を取り出して懐にしまった。少し驚いた様子の田沼を尻目に、去ることにする。

その背中に、

「用心深いな」

と、田沼が声をかける。

貞人は振り向いて、

「返事は、追って」

とだけ言う。

「その拳銃、使うつもりだったのか?」

田沼がベンチから立ち上がって、問う。

貞人は振り返らず肩越しに、公園の外を顎で指し、

「使ってれば、あそこから撃たれてた。そうだろう?」

と、田沼が乗って来たランクルを見やる。

距離にして30メートル先だ。

運転席から藤吉が覗いている。開けた窓枠に左腕を乗せ、その腕に右手で握った拳銃を番えている。この距離なら、当たる。拳銃は、熟達した者なら50メートル先のマンターゲットでも狙い撃てるのだ。

「気づいてたか」

「あれだけ堂々としてたらな。牽制は見えてなきゃ意味が無い」

「そりゃ用心くらいは、するさ」

「だろうよ」

貞人は変わらぬ歩調でまた歩きだした。

藤吉の構えた銃口に背中を預けたまま、ポケットに手を入れ、そのまま去った。

銃の照準を向けられていると知った状態で、煙草を吸い、淀みなく話もしていた。剰え無造作に隠した拳銃を取り出して、散歩に出る様に歩き去った。こちらが警官だと分かっていてたとしても、余程豪胆でなければあんな態度ではいられまい。

おまけに、あの動き。

徒手格闘の腕前は、そこらの警官が10人がかりでも手に負えるかどうか。

それに、あの成牙流の当身。

田沼が幼少から習わされてきた日本古武術、成牙流。

英才教育として身に刻まれた英語、フランス語、中国語は役に立ったが、それ以上に有用なのが、この成牙流古武術だった。

成牙流は、柔術、剣術、槍術、薙刀術、手裏剣術、捕縛術、弓術を今でも教えている。

昨今は、至近距離で拳銃を相手にした際の「対拳銃術」も編み出し、それも教えている。

警官になった田沼には、何より成牙流が役立っている。

父親である塒は、息子達が菱沼グループの担うと信じていた。だから最高の教育で以って、文武両道を叩き込んだ。

しかし、次男の彪吾は家を出て警官になり、この通り田沼を名乗っている。三男の獅生しどうは蒸発。

グループに残っているのは長男、兄の、虎琉いたるだけだ。

田沼は、三兄弟でも特に父と母から可愛がられたし、その愛情に応えるだけの思慮分別も弁えた子供だったが、卑屈で卑劣な兄と、妾腹でひ弱な弟の間で悩み、ついに家を出て警官になった。

結局、父の手元には愚かな長男だけが残り、田沼の手には成牙流の技が残った。

その成牙流を使う、あの男。

田沼がランクルに戻ると、藤吉が拳銃をしまいながら声をかけてきた。

「何者ですか、あれは」

「殺し屋だ」

田沼は簡潔に答えた。


「んで、娘に朝食と弁当を作りに帰り、そのまま出社した、と」

イザドラは3本目の煙草に火を点けながら、整理する。

「そうだ。寝てない」

貞人は森山の持って来た氷嚢で顔を冷やしながら、話している。

「お前、3日くらい寝なくても平気だったろう」

「5年くらい前ならな」

「話が済んだら帰って良い」

「有難い」

イザドラは煙を吐くと、

「それで?田沼の話の詳細は?」

と促す。早速『組織』の件が聞きたいらしい。

貞人は、氷嚢をマグカップの横に置く。

「六道会だ」

イザドラは怪訝な様子で、煙草を吸い、

「例の件の依頼主が法律顧問を務めてる、あの宗教法人か」

鼻から煙を吐く。

5家族10組の夫婦殺害依頼を寄越した弁護士、小角。その小角が顧問を務める、宗教法人『六道会』。

表向きには臭いところなど何も無かった。

「詳しく」

イザドラは更に促した。


宗教法人六道会。

前田剛徳という人物が代表者を務め、武蔵野市内にある善明寺を本拠地とする、歴とした宗教法人である。

また前田剛徳は、社会福祉法人四生会に毎年一定額の寄付をしており、この四生会の外部委員まで務めている。

四生会は、都内数カ所に保育園や児童養護施設を開いている。

どこにも後ろ暗い所の無い、清廉潔白な人物と組織である。

しかし、この六道会と四生会の理事会役員らや、その家族が所有する土地や建物に、決まってとあるサービスを提供する店が複数あるのだそうだ。

貞人が殺した者は皆、この店に通う客の身内や友人だったと言う。

この店はどれも会員制のサロンで、関係者や一部の客しか入れない。

通う客は多くないが、いずれも各界の著名な人物やその家族だという。

「麻布あたりに腐るほどあるだろうよ、そんな店」

イザドラは言う。

「確かにな。表向きはシガーバーだの、ネイルサロンだのって話だ。だが妙なのは、これらの店の、年間収入だ。多過ぎる」

「もう確定申告の内容まで調べてるんなら、家宅捜索なり何なりやっちまえばいいじゃねぇか。共謀罪とか何とかアヤつけてよ」

しかしそうも行かないのが世の常。

司法側の人間にもこれらの店の上客が居るらしく、のらりくらりで令状が出ない。

表立って動こうとすれば、申請や連絡のどこかで必ず動脈硬化して、立ち行かなくなる。

そのうちに他の事件が起き、そちらの捜査に追われることになる。

「だから、うちらか」

「半ば脅迫だがな」

「奴は何故、お前を窓口にした?そういう話なら私にした方が早かったろうに」

「それは……」

貞人は言い淀んだ。

だが少し息を吸ってから直ぐに、

「知り合いだからだ」

と言った。

イザドラは目を丸くし、パシンと膝を打った。

「やっぱりか畜生」

立ち上がらんばかりに声を上げる。そして、

「顔を変える前からのか?」

と身を乗り出して尋ねる。

「ああ」

「私と会う前からの?」

「そうだ」

「それに向こうは気づいてるのか?」

「怪しんでるが、確信は持ててない様だ」

イザドラは息を吐きながら、背もたれに深々と背中を預ける。

「で、お前の本名は?」

「言わねえよ」

「畜生め」

イザドラは少し笑って、新しいタバコを取り出し、吸い始めた。

「お前の名前を、田沼から聞き出すか」

「その前に消す」

「私を?田沼を?」

「話の続きを聞かないのか?」

「……わかったよ。話してくれ」

六道会の手にある謎の店。

繁盛しているが、そのサービスに見合う以上の収入。

そして、20もの人死ひとしに。

しかしそれでも、捜査を寄せ付けない六道会のヴェール。

田沼は焦れていた。

目の前で確かに何かが起きているが、それが何なのか全容が掴めない。ジョン・ル・カレの小説の様だ。

田沼が貞人を呼び付けたのは要するに、何か悪どいことをしている連中が蠢いているが、具体的にどんな悪さをしているか分からないから、そうと知らずその手先になっているに協力を頼んだ。

「と、いうことだ」

元知り合い男こと、貞人は微笑していた。



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