第5話 殺し屋の休日

「あたし、老いたなぁー」

などと朝っぱらから漏らす多々良莉乃の年齢は15歳。高校一年生。

「若さの盛りじゃん。ラリラリ変なの」

聞いている信田千香子は朝っぱらからプリッツを口の端で咥えてポリポリしている。

一時限目前のこの僅かな時間帯から、愚痴とお菓子で既にリラックスモードの2人は、高校生活に慣れてきたと言える。

「いやさぁ、最近、朝辛くてさー」

「それは仕方ないよ」

「あたし五月病かね?」

「それは『老い』じゃなくない?それに、もう6月に入ったよ」

「あ、そか。衣替えしてるもんね」

「朝眠いのと肉体の衰えは関係無いし、そもそもまだ、成長期だよ」

「わかってないなぁ、ちかちー」

「なにが?」

「うちらは水泳部。お肌の手入れとかしてないと、塩素と紫外線であっという間にシワとシミだらけだよ」

「そんなの化粧品業界が垂れ流してる広告の文句じゃん」

「あー、ちかちーそんなこと言っちゃう?そんな歳で女捨ててちゃ未来は無いね」

どちらかと言うと、髪が短くボーイッシュなのは莉乃の方で、女の子っぽく格好に気を遣っているのは千香子の方だ。人は見かけによらないものだ。

「リノちゃんって案外意識高いんだね」

「いや、別にそんなんじゃないけどさ」

「それじゃあ、何かあったの?」

千香子の問いに対し、莉乃は溜息混じりに、

「実はさ、従姉のねーちゃんが結婚するらしいんだよね」

と答えた。

「良かったじゃない。おめでとう」

「ありとー。や、別にそれはいいんだけどさぁ」

「?」

「なんだか、この前まで一緒に遊んでたあのねーちゃんが結婚するなんてさ、人間って歳取るの早いなーって思って。あたしも、気がついたら高校生じゃん?」

「光陰矢の如しだねー」

「サーロイン肉の如し?」

「人が真面目に聞いてるのにそういうこと言っちゃう?」

「ごめんて。でもさ、そう思わない?」

「そうだねぇ。でも、それで老いたなんて思わないけど」

「うん、ちょっちオーバーだった」

莉乃の気持ちは理解できる。

体のあちこちが膨らんできた最近としては、それが嬉しくある反面、もう自分は大人なんだと感じる。

その点の戸惑いは千香子にもある。

しかし、千香子は元々孤児。千香子にとって子供時代は長過ぎる。

早く大人になりたい。そう思っている。

老いて死ぬことは贅沢だ。人生半ばで死ぬ人間も居るのだ。千香子の家族の様に。

「ちかちー、また難しい顔してる」

「そお?」

千香子は莉乃の指摘に、慌ててプリッツを2つに折って鼻の穴と下唇につっかえ棒して安来節をして見せる。

「どーかにゃ?」

莉乃は一頻ひとしきり笑ってやったが、千香子の繊細な部分を感じて、気の毒な気持ちがした。

こうした談笑ですら、千香子の境遇は影を落としてしまう。

この、風に吹かれる野花の様な親友を、守って行きたい。莉乃はそう思うのだった。


殺しの依頼が来た。

出勤すると、馬場貞人のデスクに何も書いてない赤い付箋が、貼られていた。これは殺しの依頼があった時のサインだ。

黄色はその他、強奪・恐喝・誘拐といった案件になる。

これらは裏の仕事だ。

この事務所は表向き保釈金協会の代理業務を担っているが、その裏で所属する鉄砲持ちに非公式のアルバイトを斡旋している。

実はどこの世界にも裏の仕事は存在する。皆それを口にしないだけだ。

例えば郵便配達員。時折彼らは伝票の無い荷物の配達を上役から頼まれることがある。それを特定の場所にいる特定の人物に渡すだけで、無税で1万円が貰えたりする。

それがどんな荷物で、渡す相手が誰なのかは知らないし、詮索しない。そういうものだ。

このニコマルという会社にも、そうした秘密裏に斡旋される仕事があるのだ。

受ける気が無ければ、赤や黄色の付箋は黙って捨てる。

受ける気があれば、付箋を持ってイザドラ社長のデスクへ行く。イザドラから口頭で概要を聞き、そこで再度受けるか受けないかを問われる。そういうことになっている。

貞人は既に、ガラス張りの社長オフィスに通され、イザドラと相対していた。

「その案件だが、簡単だしメチャクチャ美味しいぞ」

「聞こう」

口頭での連絡は、メールや書面での証拠を残さない為。具体的な殺害指示をしないのは、もし盗聴されてもそうと分からない様にする為だ。

今回のまとは、5家族5組の夫婦10人。

どこも未成年の子供が数人居るが、子供らには手を出してはならない。保険金が目的ではないらしく、他殺の状況でも構わないそうだが、出来れば派手な事件にならない方が良いという。5家族に何らかの繋がりがある場合、その因果関係から指図した人間が判明して捕まる可能性もある。

「依頼元は?」

小角おづぬって男だ」

「身元は?」

「個人で事務所を持ってる弁護士」

「ただのカットアウトだな。背後関係は?お前のことだからもう調べはついてるんだろう?」

イザドラは勿体振るようにタバコを吸い始める。

「宗教法人六道会の顧問をやってる。恐らくこっちが本当の依頼元だと私は睨んでる」

宗教法人六道会。ボンベイは知らない会社だ。

「宗教法人?」

「ああ。宗教法人だ。最初は私はただの節税目的の名ばかり宗教法人かと思ってたが、ちゃんと実態がある」

地方の過疎化や高齢化で経営が立ち行かなくなった神社や寺を、土地ブローカーが買い上げ、その宗教法人の代表に収まるという財テクがある。譲渡の際に税金がかからず、継承が楽なのでよく使われる手だ。

「所謂休眠法人ってやつではないんだな?」

「うむ、代表者は法名を持ってる本物の坊主だし、都への活動報告もちゃんと上がってる」

坊主が殺しの依頼。妙な話だ。

「胡散臭いにも程があるよな」

イザドラはタバコを苦々しく吸いつつ、

「でもギャラが良い。10人完遂が絶対だが、1本だ」

と人差し指を立てて見せる。100万ドル、つまり1億だ。イザドラの紹介料25%を引いても7500万円。

「良過ぎる。余計不審だな」

「もっともだ」

「キャッシュでなく電子送金だよな?」

「ああ。ただし後払いだ」

「担保は?」

「依頼人が完全に身分を明かしてるからな。特に無し」

「依頼人がトカゲの尻尾ってことは?」

「税金の申告額からしてそれは無い。堅い商売でしっかり稼いでる弁護士だ」

「そんな奴が殺しをね。的はどんな人間なんだ?」

「会社員に公務員、その妻で専業主婦。中流家庭の普通の夫婦だ。子供はどこも小学生や中学生。まだその程度しか調べてねぇ」

イザドラはタバコを最後まで吸うと、灰皿に押し付ける。

「昔、『ブラジルから来た少年』って映画があったな。アレに似てる」

「ああ、確かに」

イザドラは、今度はブレスケアを噛みつつ、

「恨みかな」

と頬杖をつく。

「真っ当な人間が真っ当な人間を殺す。利権が絡まないとなると、大抵は恨みだな」

これは貞人の経験だ。

「で?どうするよボンベイ。お前がやらなきゃ。断るぜ?」

「金山や郷崎には頼まないのか?」

「普通のヤマなら奴らに頼むが、話した通り、どうも臭ぇからな」

「俺なら平気だと?」

「お前なら多少のことがあっても平気だろ」

こんな嬉しくない信用もあったものだ。

「それに、お前は銃だけじゃなく、ナイフや毒も使えるし、何なら素手でもイケるからな。手口を柔軟に変えて対応出来る奴が向いてると思ってな」

もう一つの理由だった。十人が短期間で死ぬのだ。皆同じ死に方では、警察が連続した事件として扱ってしまう。そうなるとこの事務所にも捜査の手が及ぶことになりかねない。

「で?」

イザドラが問う。

「やるよ」

貞人はぶっきらぼうに言った。

ちょうど千香子に自転車をねだられている今日この頃だ。ウン千万円もの実入りがあれば、千香子をツールドフランスにも出してやれるだろう。

「いやにアッサリ引き受けるんだな」

イザドラが目を丸くした。

「お前、クサい案件には慎重だったろう?」

「今回は桁が1つ違う」

「そうだが、どういう心境の変化かと思ってな」

「子供には金がかかるんだよ」

「ああ、ちかこちゃんだっけか?確かに、これを一件引き受ければ、それだけで医学部にも行かせてやれるな」

「うん」

貞人には食わせなければならない人間が居るのだ。それに、安全に暮らすには金がかかる。各所の隠れ家の家賃や固定資産税もバカにならない。

怪しい案件だが、貞人は乗ることにした。


「ねー、にぃちゃん」

夕食の席で、千香子が真剣な顔で尋ねた。

「スキンケアって、必要なの?」

「何だよ、藪から棒に」

貞人は眉を顰める。男の一人暮らし。スキンケアなどという言葉すら思い出すのに数秒を要した。

夕飯はチキン南蛮だ。手作りのタルタルソースにはたっぷりの卵黄を加えている。このタルタルソースだけでも食べ応えがあり、白飯が非常によく進む。

「お前、ニキビなんか無いだろ」

ニキビというのも懐かしい響きだ。貞人の様にハタチをとうに過ぎた人間は吹出物と呼ぶものだ。こういうチキン南蛮の様な脂っこいものを食べると出ることがある。鳥の皮は全ての肉類で最も高カロリーな、脂の塊だ。

「でも、そういうのしないと、肌が汚くなるって言うじゃん?それこそニキビが出来たり」

「今は何もしてないのか?」

「うん、化粧水とか乳液とか、そういうのひとつも持ってないな」

「必要無いものは買わなくていい」

千香子もそう思っているが、そんなバッサリ切り捨てることもあるまいに。千香子が頬をぷぅっと膨らませると、

「いや、そんな物無くても、お前は可愛いだろ」

貞人は補足する。

世の中では、本来不要な物が必要だと宣伝されて大っぴらに売られていることがある。大抵、便利な物ではあるかも知れないが、決して必要な物ではない。

そういう物が多過ぎる。

貞人がそんなことを考えていると、ポーッとしていた千香子が我に返り、

「ひ、必要になった時には遅いんじゃないかと思って」

と、付け合わせのサラダに乗ったカイワレを一本チビチビと齧った。

「どうだろうな。俺にはわからん」

「はー、これだから男親は」

千香子はやれやれと首を振る。女の子である千香子の模範となる様な、女の年長者はこれまで何処にも居なかった。ここに来る前はキリスト教系の児童養護施設に居た。あそこのシスター達がスキンケアに熱心だとは思えない。

「……すまん」

つい謝っていた。

「冗談だよー。気にしないで。ほら、アーン」

箸でつまんだひと切れのチキン南蛮を貞人の鼻先に突き出し、自分も口を開けてアーンする様に促す千香子。千香子のピンクの喉ちんこが見え、つい自分も口を開けてしまう。

「なんてウソー」

チキン南蛮を翻して自分でそれを食べてしまう千香子の表情の無邪気さが面白く、ムカっ腹は立たない。

ろくに化粧っ気が無いのは千香子の生い立ちのせいもあるが、そもそも貞人にイロが1人2人居れば多少のアドバイスも出来たはずだ。しかしながら、貞人にはそうした異性の付き合いは無い。

「あに?おふぉっふぁ?(何?怒った?)」

千香子が白飯を掻き込みながら問う。

「いや、施設でも、そういうことは教えてもらわなかったんだな、と思ってな。確かにシスター達は化粧なんかしないしな」

「そりゃね。清貧ってヤツがモットーだったし」

千香子は咀嚼して飲み込むと、烏龍茶を飲む。コップの縁が脂でギトギトだ。これぞ栄養満点の夕食の証。

「でもさ、にぃちゃんもそろそろ肌とか頭皮とか気をつけないといけないんじゃない?」

「俺も?」

「うん、私に合わせてこういうの食べてるんだからさ」

チキン南蛮を頬張り、また白飯を掻き込む。

「30歳が十代育ち盛りと同じもの食べてちゃ、脂性になるだろうし」

「俺はまだ二十代だ」

貞人は答えるが、別に自分の年齢などどうでも良いと思っている。若さに価値があるという観念は、貞人には無い。

「そんなこと言ってると、ハゲたり老けたりはアッという間なんだから」

千香子の老練な意見は付け焼き刃だが、真理でもある。その通りだ。

「俺もスキンケアをすべき、か」

「そうそう」

「じゃあ、今度一緒に買いに行くか?」

貞人がそう言うと、千香子はタルタルソースを口の端にくっつけたまま、ガッツポーズした。

「うん!ついでにお化粧品も見たいな」

うまく誘導されたものだ。

ムスメにコスメを買わされる。やはり子供というのは金がかかる。

しかし、色々と興味を持つのは良いことだし、女の子ならば化粧の仕方くらい覚えていなければなるまい。

ともあれ、この千香子が化粧を覚えたいと言う。わずか数カ月だが、娘の成長を見る様で、何だかソワソワするこの養父であった。


貞人はその週、目標となる五つの家族の夫婦の調査をジックリと行った。

見張り、彼らの平日の生活サイクルを調べ、生活ゴミから情報を得る。おおよその所得。預金先銀行。買い物をする場所。ペットの有無。性生活の頻度。ゴミからは得られる情報も多い。

どの家族も平凡な一家だった。誰かに殺されて然るべき理由が見当たらない。

殺しの指示があった場合、大抵の人間に理由がある。金か女が絡んでいることが多い。

しかし、今度の的は夫婦。しかも五つの家族。品行方正なこと以外に共通点は無い。

貞人の調べが足りないこともあるのだろうが、それにしても何もが見えて来ないのは妙なものがある。

同時に、依頼者である小角晃平という弁護士が顧問を務める六道会のことも調べてみた。点を一つ調べても、線は見えない。もう一つの点も調べねばならない。そうすれば、点と点を結ぶ線が見えて来ることもあるだろう。

そもそも六道とは、仏教において迷える者が輪廻する六つの世界のことを指すのだそうだ。「子連れ狼」で主人公が口にしていた台詞にも出て来た。天道、人間道、畜生道、阿修羅道、餓鬼道、地獄道。ここから外れた者が、外道となる。

六道会は、剛徳という坊主が代表者で立てている宗教法人で、武蔵野市内にある寺を本部としている。宗派は恐らく真言宗系ということだ。また、剛徳は社会福祉法人四生会にも縁があり、この四生会は都内数カ所に保育園や児童養護施設を開いている。

怪しい所は何も無い。

本来なら血生臭い事とは無縁の世界からの、殺しの依頼。

不審であった。

それとも、弁護士の小角晃平のバックに、この宗教法人以外に何処か付いているのか。

何れにせよ、貞人一人では調べようもない。そもそもイザドラがこの案件を振る前に、下調べはある程度終えている。しかし、何も出て来なかった。

怪しげな臭いの無い場所から、いきなり殺しの話が来た事が解せない。

ともあれ、下調べに何週間もかけていられない。

自分の仕事を、黙ってやる。

それしか無いように思われた。

どんな背後関係があろうが、やることは変わらない。

用心して、やる。


まず最初の家族。

深夜2時に雨樋を登って二階へ浸入し、減音器付きの.22口径で夫婦の耳に五発ずつ弾を叩き込む。

子供は起き出さず、外に出てからも誰にも見られなかった。


2番目の家族。

警報機付きの家なので、昼間、妻が一人のうちに呼び鈴を鳴らす。出て来た妻の顔を殴り、縛り上げ、子供と夫の帰りを待つ。皆を帰宅した順に縛り上げる。現金と金品を盗り、家の中を荒らすと、夫婦を刺し殺す。

深夜までテレビを見て過ごしてから、人気の無い頃合で外に出る。子供らは覆面をした貞人しか見ておらず、縛ってすぐに薬で眠らせてあるので、これも目撃者無し。


3番目の家族。

犬を飼っている家なので、事前に犬を殺しておく。小便の為に庭に出されたタイミングで、青酸カプセル入りの肉を投げ、食わせた。犬には悪いことをしたと、貞人は思う。同じ犬同士、恨まないでもらいたい。

無害な犬を殺したことを思えば、夫婦を殺すのは造作も無かった。


4番目の家族。

子供を置いて夫婦で映画を観に出る予定を知っていたので、都合良く交通事故に遭ってもらった。


5番目の家族。

赴任先で倒れた夫を心配して、子供を祖父母に預けて夫の見舞いに来た妻。しかし、結局病院に妻は現れず、夫も未明に容体が急変して死亡。

貞人は千香子に土産を買って、東京に戻った。


こうして数日のうちに、5家族5組の夫婦10人が、綺麗に死んだ。


翌日、オフィスに何するでもなく出勤した貞人は、午前中からコーヒーを飲みながらイヤホンでラジオを聴きつつ、休憩していた。

そんな時、

『にぃちゃん、今朝なんか疲れてたね(´・ω・`)』

貞人の携帯に、千香子からそんなメールが来た。

今頃授業中だろうに、あの不良娘め。

疲れて見えたのか。そうか。普段通りに振舞っていても、そういう所まで見抜けるほどに千香子は貞人を気遣っている。

嬉しむべきだが、貞人自身がそれに値する人間なのかと考えると苦々しい気分になる。

いつの間にそうなったのか。これまで過ごしたのはたった3ヶ月程の間だが、千香子はすっかり貞人の女房気取りである。いや、こちらの気力の微減まで見抜けるのだから、ただ女房を気取っているのではない。

貞人は、確かに疲れていた。

10人も殺したのだ。

無抵抗な人間だから殺すのは容易いか?そうではない。

相手がどんな人間でも、殺すに至る際の心労は並大抵ではない。

人間の脳には、相手に対する同情心を司る特定の領域があるらしい。その領域が存在する以上、人は他人の苦しむ様子から目を背け、悲しみに暮れる他人に手を差し伸べる。

そして、その領域があるから、人を殺すのに躊躇いが生まれる。貞人とて例外ではない。人間嫌いの貞人だが、殺しは嫌なものだ。

脳にこの同情心領域が無い人間は、ただの異常者だ。そういう人間は他人に苦痛を与える仕事にむいているかも知れないが、恐らく真っ当な生活を送ることが出来ないだろう。こうした体質はサイコパスと呼ばれ、多くが刑務所や精神病院に入ったりしているが、中には大きな企業の社長を務めている人間もいる。人を人と思っていない人間は、落ちぶれるか、逆に登りつめるか、どちらかということだろう。

貞人はこういう仕事をしているが、人並みに同情心はある。多くの人間がそうであるように。貞人とて普通の人間なのだ。

では、そういう人間は、どうやって人を殺すのか。どうやって冷酷に仕事をするのか。

簡単だ。

心を切り離すのだ。

そうやって仕事をこなす。

しかし、忘れてはならないのは、仕事の後に心をちゃんと取り戻すことだ。

戦闘中に興奮状態にある時ならば、それも容易い。

だが、それでも夢に見る。死人の夢だ。

ナイフを相手の肋骨の間に差し込んだ感触が、手に残っている。

首をへし折った、あの枝を折る様な感触が、腕に残っている。

相手が最後に吐いた息の臭いが、鼻にこびり付いている。

噴き出た血の温かさが、肌に沁みている。

自分に向けられた最後の眼差しが、この瞳の奥に焼き付いている。

ふとした瞬間に、そういう記憶が蘇る。

それと向き合うのが人殺しの宿命だ。

中には、自分が殺した相手の罪を数えて、自分は悪者を天に代わって裁いたのだと自己暗示をかける者もいる。酒に酔って誤魔化す者もいる。

だが、そういう人間は、何の罪も無い人間を殺した時が年貢の納め時だ。罪の無い人を殺した時、言い訳は出来なくなるからだ。言い訳できなくなると、自分を誤魔化せなくなる。

そんな時でも自分のしたことを受け止め、背負い、それでも立っていられる人間でなくてはならない。

それが人殺しを生業にする人間の最低条件だ。

貞人にはそこに更に、「極力他人の世話にならない」というルールを加えて、ギリギリで健全な心を保っている。

この社会の恩恵が無くとも一人野山で行けていければ、この社会に仇なしたところで、それは倫理に反しない。

野生の獣が人を食べたところで、それは自然なことだ。

それでも、貞人とて万能ではない。人の作った食糧を買い、それを食べ、髪も床屋で切ってもらい、仕立屋が仕立てた服を着る。

まだまだ獣には程遠い。

貞人はまだ、獣には成れていない。

だから、今度の様に無害な人間を殺めた時は、気持ちの切り替えにかなりカロリーを使う。

心というのは、なかなか思い通りコントロール出来ない。

『少し疲れてるが大丈夫。今日は早めに帰る。千香子も、疲れてる時は無理をするな』

そう千香子に返信する。

するとすぐにまた携帯が鳴る。

『そか、りょーかい。あたしもムリしないよ、有難う⊂((・x・))⊃』

というメールの後、

『この週末は、温泉に行かない?( ^ω^ )』

と、2通目。

なるほど、そういうことか。

貞人を気遣う一方、こういう狙いがあったのか。

しかし、温泉だと。あの娘、どれだけスキンケアのことを気にしているのか。一時の流行病のようなものなら良いが、美容オタクになられても困りものだ。

間を取って、

『健康ランドなら、由』

と送る。

『(¬_¬)』

『なんだ。不満か?』

『にぃちゃん、温泉って知ってる?(-_-)』

『温泉地まで行く交通費と宿泊費について考えを巡らせて欲しい』

『。・゜・(ノД`)・゜・。』

少し贅沢をさせ過ぎたか。甘やかすのは良いが、高級志向になられるのは困る。

しかしながら、ある程度は譲歩することにする。

『近所に地下水を汲み上げて使用している健康ランドがあるらしい。塩風呂に炭酸風呂に檜風呂と色々あるし、岩盤浴やマッサージも別料金で付いてる。https://〇〇〇〇』

都内に数ヶ所だがそうしたややお高い健康ランドがある様だ。

すると、千香子から、

『(。-_-。)』

と来て、直後に、

『☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆』

と来た。

そういうことになった。


お昼休みには必ずと言っていいほど上機嫌な千香子だが、今日は輪をかけて機嫌が良かった。

千香子の弁当を覗き込んでも、おかずはいつも通りの様で、フォアグラやトリュフが入っているわけでも無さそうだ。よもやタコさんウインナーくらいでこの機嫌もあるまい。

蓮水と莉乃がその点を問い正すと、千香子は待ってましたとばかりにこの週末の予定を話した。

「あー、それ『月の湯』だよね。近くのスーパー銭湯みたいなやつ。じいちゃんとばあちゃんがたまに行ってるって言ってた」

と莉乃。

聞けば随分楽しそうなところらしい。

岩盤浴にフットマッサージ、その他、美顔マッサージ、ソフトクリーム食べ放題のフードコート、食事処の天ぷら定食、土産のいぶりがっこ。

「桃源郷だね!」

千香子は感嘆する。

蓮水は横で聞きながら、

「そんな良いところだったなんて。私、毎日近くを通って帰ってるけど、知らなかった」

と箸を止めている。

「田舎からこっちに出て来たじいちゃんとばあちゃんが言ってることだから、多少大袈裟かもだけど」

莉乃はミニハンバーグをぱくつきながら言う。

「田舎から?」

「ああ、そう、戦争でインフラが駄目になった地方から、逆疎開して来たんだよね」

極東戦争の端緒になった全国同時多発サボタージュで、地方の政令指定都市がターゲットになった折、そうした人間も多く居たという話だ。東京への攻撃は最後だったので、その前に東京へと逃れた者は多い。もっとも、そうやって逃れ来て、結局その後、東京で炎に焼かれた者も多かったことは言うまでもない。

莉乃の祖父母も逆疎開して来たらしい。

戦争のことはニオイ程度しか憶えていない莉乃でも、家族にはそんな人が居るのだ。

暫定政府から新政府への政権移譲が行われた数年前。その前までは、駅前を歩けば手足の無い物乞いが多く座り込んでいたものだが、今では見かけない。まるで何事も無かったかの様だ。あの人達は一体どこへ行ったのだろうか。

千香子の様に親を亡くした子供だって、恐らくこの学校にも沢山居るだろう。

みんな傷を隠して、何事も無かった様に振舞って、一生懸命生きている。千香子にしてもそうだ。

だから、たまには温泉くらい望んでも許されるべきである。と、自分で思っている。

厳密には温泉ではないが、千香子には似た様なものだ。

リラックスできるレジャーなどという贅沢。

某夢の国ランドという遊園地も良かったが、マッタリと湯に浸かって魂を洗濯し、美味しいものを食べるのも、良い。

「楽しみだなぁ」

千香子はワクワクと見えない尻尾を振った。


その週の土曜。

混浴スペース用の為の洒落た水着(ビキニではないがセパレート)に、温水プール用のゴーグル(競泳用)、レストスペースでリラックスする為の曲を満載した音楽プレーヤー(貞人の私物のハイレゾ)と、ゴロゴロしながら読む為のティーン向けファッション雑誌(ハンドタオルのオマケ付き)、居眠りする為の簡易枕(空気で膨らませるタイプ)、買って貰ったばかりの練り石鹸と化粧水と乳液(天然由来成分)。

ビーチバッグにそれらを詰め込んでいる。

完全武装の千香子は『月の湯』を臨み、興奮気味に舌舐めずりした。

「ぬかるなよテメェら」

千香子は子分達に肩越しに声をかける。

「誰が子分だ」

と、ト書きに突っ込む莉乃と、早くも千香子のセパレート水着を想像して鼻血を垂れ流さんばかりの蓮水が、車から降りて来た。

千香子は貞人と自家用車のゴルフで朝早めに出て、莉乃と蓮水をピックアップし、現着したところだった。

車のドアをロックした貞人は、

「では、現時刻から自由解散。昼食はヒトフタサンマル時にレストラン涼葉にて」

と事務的に告げる。千香子はそれに、

「会敵後自由。なんて」

と冗談を合わせる。

千香子は随分はしゃいでいる。今日の湯を満喫する為、昨夜は机に向かって猛勉強をし一週間分の復習と来週の予習をこなしていた。体を疲れさせ、湯の効能を堪能する為とのことだ。あれだけ勉強をしてくれるなら毎週でも連れて来てやりたいところだ、と貞人は思う。

「あの、すみません。私達までご一緒させて貰って」

と、蓮水が改めて貞人に挨拶する。

「ちかちーの話聞いてたら、あたし達も行きたいなーって思っちゃって」

と、莉乃はカラカラと笑う。

「思ったその願望がつい口を突いて出ちゃった、と」

蓮水は申し訳ないやら、ワクワクするやらで両手をもじもじさせている。

莉乃と蓮水の親御さんからは、許可と料金分のお金を貰っているし、むしろ千香子の相手をしてくれるので居てくれて助かるというものだ。

「僕は入浴出来ないので、むしろ助かりますよ。有難うございます」

貞人がやおらそう言った。

入浴出来ないとは、どういうことなのか。

「え?」

千香子が小首を傾げる。

「なんで?体調でも悪いの?」

ちょっと千香子の問いに、貞人はアッケラカンと、

「彫り物が入ってるからな」

と答えた。

彫り物。刺青。タトゥー。

公衆浴場がそれを禁止していることは世間の常識だ。千香子だってそれくらい知っている。

「うぇ!?マジで??」

未曾有のショックが千香子を襲う。

貞人のことはチョイ悪くらいの人物と思っていたが、まさかのタトゥーが。そういうものは、ヤクザかマフィアかチャラいスポーツ選手か、そういうのに憧れを持った脳みその足りない親不孝者が入れる物だと思っていた。貞人がそういう輩だと分かったショック。

そして、一緒に混浴スペースにも入れないというショック。今後一生、混浴は叶わないのだ。

夏を前にした早めの水着回が、よもやタトゥーで台無しになろうとは、予想もしない出来事であった。

「うわ、ちかちーが真っ白に」

莉乃が千香子の思考停止をそう形容している横で、蓮水は、

「それは感心しませんね、お兄さん」

と貞人のことを評する。

蓮水は千香子の受けた衝撃を表情から見て取り、彼女の狼狽を、自らの若干の怒りに変換させていた。

貞人は蓮水の眉間のシワに気圧されてしまう。

彫り物や刺青というのは、貞人達の世界では当たり前の物だ。皆、何かしらの絵や模様や文句を彫っているものだった。海外での話だが。

しかし、貞人も彫り物を入れたことを後悔していないわけではない。

脱げば目立つし、墨が入っている所は発汗しないので、機能面ではマイナスなことしかない。機能的でないことは嫌いな貞人だ。格好つけて入れた絵は、今や恥ずかしいくらいだ。

「若気の至りだった……」

10年前、ブルガリアの民間警備会社で白兵戦カリキュラムの指導員補佐として勤めだした頃に、不退転の覚悟として背中に入れた刺青。青臭い感情でやってしまった失敗だ。

「でも、どんな目的で、どこにどんなイレズミを入れたかによって、私達の評価も変わるかと」

蓮水は冷静に続ける。貞人に対する信用を試す様な口調だ。

「言うほどの物ではないので……」

女子高生の前で萎縮するこの殺し屋。

「私がこんなことを言えた義理ではありませんが、千香子さんがかわいそうですよ、お兄さん」

「おっしゃる通り」

そんなことを話しているうちに建物の入り口に辿り着き、履物を脱いでロッカーにしまうと受付へ。

高級なホテルのような内装に、千香子の機嫌が俄かに復活する。

莉乃は小さく跳ねる千香子に少し安心して、

「あたしはカッコいいのならいいと思うけどなぁ」

と、貞人のモンモンについてフォローする。

「いえ、そういうのでは……」

女子高生にフォローされるこの殺し屋。

蓮水は莉乃に対して腕組みすると、

「体にエモい絵や文字を彫るなんて、その行為自体が女々しくてダサいと思わない?元服の儀式で、文化として墨を入れる人達は別として」

蓮水はどこまでも常識人だ。

こういう子が千香子の友達で喜ばしいが、彼女から説教されているのは一回りも歳上の自分であることを恥ずかしく思う。貞人は蓮水と係員にペコペコしながら受付をする。

「あ、にぃちゃん、岩盤浴の予約もお願いね」

「海藻パックとマッサージもオネシャス」

「ソフトクリーム食べ放題パスもお願いします」

女湯へ女子高生3人を送り出した貞人は、することも無いのでフードコートでコーヒーを頼むことにする。

コーヒーを手に取ったタイミングで、小走りに戻って来た千香子に背中を蹴られ、溢れたコーヒーで手をアチチした貞人は、ムカムカしながら振り返ったが、千香子は既に女湯の暖簾へ取って返し、アカンベーしながら引っ込むところだった。

貞人はコーヒーにブランデーを垂らしたい気分だったが、というかブランデーが飲みたかったが、生憎と瓶を持ち合わせていなかった。


千香子、莉乃、蓮水の3人は、キャッキャ言い合いながら、先ずは水着に着替える。

混浴スペースは水着着用でなければならない。

「あーあ、せっかく可愛い水着ポチったのにな」

千香子が、白地に青いボーダー柄の水着に胸を押し込みつつ、ボヤく。

ボーダーは太く見える効果があるので、セパレートならば胸と尻が発達して見えるという、そんな視覚トリックを誘う柄だ。

健康的で爽やかな色みだが、そういうセクシャルなニュアンスもある。

それに、小ぶりなフリルが可愛い。

だと言うのに、あの兄は本当にダメだ。

貴重な水着シーンに立ち会う資格が無い人間には、ラブコメの主役など務まらない。

況して刺青など。主役どころか悪役だ。

「その水着可愛いじゃーん。お兄さんに見せられなくて残念だな」

莉乃は部活でも使っている競泳用水着だ。アレだけ肌がどうだの言っていた割には硬派な娘だな、と思うものの、莉乃のそういうコスパや機能美を由とする所は美点だと思っている。

蓮水はと言うと、

「……」

黙って千香子の肢体を眺めている。

視線に気づいた千香子と目が合うと、蓮水は、『(=゚ω゚)b』と親指を立てる。

蓮水の水着はミントグリーンのワンピースタイプだが、背中が広めに開いていてフェミニンな印象がある。

3人とも部活で鍛えられた体をしている、健康な女子高生。壁一面の大きな姿鏡で、それぞれ確認し合う。ポーズなんかも取ってみる。

3人それぞれ別々の魅力がある少女であるという自負を胸に、早速、混浴スペースへ向かう。

そこには、円形の大きな温水プールが開けていた。思い切り泳いでも平気な広さだ(しかしそれはマナー違反である)。

円形のプールの真ん中には泡風呂。

外のスペースには露天風呂が見える。

大理石を模した白いタイル。ドーム状の天井には青空のペイントが施されている。古代ギリシャ風だ。

混み具合としては、まだ開いたばかりの時間帯なのでなかなかに空いている。

思わず走って飛び込みたくなる衝動を抑え、3人は軽く屈伸と伸脚をしてから、ゆっくりと浸かる。これがオトナの入浴態度というものだ。

刹那。

疲れと一緒に魂まで揮発しそうになる程の、優しい温もり。

『嗚呼ぁ……』

と、声が出てしまう。

湯温は丁度良い。熱くなく、温めの一歩手前。長湯しても心地良い塩梅だ。体が湯に溶けてしまいそうになる。

3人が源泉に浸かるカピバラの様に目を細め、まったりと揺蕩っていると、

「おい、見ろよ、いい女だなぁ」

「ほんとだ」

という若い男の話し声が泡風呂の方から聞こえて来た。

『自分のことか』などと思う程自惚れていない3人は、まさかそんなことはないと思いつつ、恥ずかしい気持ちも大いに感じたものの、自然と居住まいを正して、さっき鏡の前で取ったポーズを思い出す。

自分が綺麗に見える角度。それを何なく、声の方へ差し向けてやる。3人互いに、そうと悟られない様に、さりげなく。

本当に、男の人から水着姿をそう評されているとしたら、恥ずかしい。しかし、だとするなら応えてやるのも世の情け。

中学時分なら男子の視線など嫌悪の対象でしかなかったが、今は高校生。それくらいの余裕はあるのだ。

3人は、「いい湯だねー」などと関係ない会話をしつつ、そんな共通の心境を胸に湯を掻いていた。

「見たか?あの女」

「うん、来てよかった」

別の男達も、そんな話をしている。

3人は、流石にこうなってくると自分達の事ではないと悟った。

確かに3人とも、平均以上の魅力を持ち合わせた健康優良娘だが、こうまで噂をされる程ではない。

3人は頷き合って泡風呂へ忍び寄る。

前かがみになった男達の中に、女の姿があった。

他にも女性客は居るが、その女の体つきは、周りのそれと大きく違った。大きな違い、と言うか、大きさが違うのだ。尻や胸の。

金髪を頭の上で団子にしているので、肩の筋肉の付き方もよく分かる。水泳を嗜む3人から見ても、相当鍛えられた体であることは見て取れる。

褐色の肌は日焼けでなく、ナチュラルスキン。日本人ではない。

そもそもそのグラマラスな体が日本人離れしているので、日本人でないとすぐに分かる。

溢れそうな乳と、はち切れそうな尻に張り付く黒いビキニの布地面積は、もう少し狭いとお巡りさんが来てしまうだろう。

その女が、3人の視線に気がつく。

「お、何だお前ら。ボンベイんとこのガキどもじゃねーか」

イザドラ・ハッチェン。

こういう女をエロテロリストと呼ばず何と呼ぶ。

3匹のカピバラは、思わぬ所でチーターに出会った。


サウナは2種類あった。

ミストサウナとドライサウナ。

ミストからの、かけ湯と、水風呂。そしてドライからの、かけ湯、水風呂。

そしてまたミストへ。

サウナマラソンだ。

今、2回目のドライサウナに入っていた。

千香子、莉乃、蓮水、それからイザドラの4人は、混浴スペースから水着を脱いで風呂へ移っていた。

「ここには毎週来てるんだ。土曜の朝は一番風呂でな」

イザドラはここの常連らしい。

千香子らはイザドラとは顔見知りだが、仲が良いわけではない。まず年代が違う。

それに人種も違う。肌の色ではなく、仕事をしている大人の女だから女学生とは違うという意味でだ。

3人が他人行儀な様子で萎縮しているのは、イザドラも3人同様に服を着ていないからだ。

そうなると、3人は同じ女という生き物としての強烈な劣等感に苛まれることになるわけで(水着の時点から思い知ってはいたが)。

イザドラのダイナマイト・ボディならぬアトミック・ボディは、このイエローガールズに畏敬の念を抱かせる。ショック・アンド・オーというやつだ。

「何食ったらそんなにデカくなるんすか?イザドラ姉さん」

ジリジリとした暑さに耐えつつ、莉乃が思わず問う。

「好きな物さ。好きなもんだけ食う。好きなだけな」

イザドラは涼しい顔で答える。

「ただし運動は欠かさないことだ」

ニコニコと答えるイザドラの腕や脚の筋肉の付き方は、確かに一流の運動選手のそれだ。

それが社長も務めるキャリアウーマンなのだから、眩し過ぎる。

「お前ら、見たところ水泳やってるな?」

イザドラは3人の体をしげしげ眺めて言い当てる。

「よくわかりますね!」

蓮水が驚く。

「わかるさ。そっちの、リノちゃんだっけ?キミは平泳ぎが得意だな?ハスミちゃんは、自由形。ちかこちゃんは、ほほー、バタフライじゃないかい?」

イザドラはまるでエスパーだった。筋肉の付き方を見て、得意な泳ぎまで見抜くとは。一流のインストラクターでもこうは行かない。

「す、凄い」

千香子らは一瞬サウナの暑さを忘れていた。

「社長さんも、水泳を?」

千香子が尋ねる。

「社長はやめろよ、森繁じゃあるまいし。部下じゃないんだから、イザドラって呼びな」

「……イザドラさん、いくつなんですか?そもそも、外国人が東宝の映画のファンだなんて」

「外国人がみんなゴジラ以外の東宝映画を知らないなんて思ったら大間違いだぜ、お嬢ちゃん。もっとも、私は大映のファンだがな」

「ガメラのファンですか?」

「違う。座頭市だ」

オタク話に花が咲きそうになったところで、

「で、水泳をやってんのかって聞いてんだよ、大社長様」

莉乃が割って入る。

「ん?ああ、まあな。他にも色々」

「色々?」

「トライアスロンだ。これでもアメリカ代表でオリンピックが決まってたんだぞ?」

得意そうな台詞だが、ことさら大ごとでもなさげに爪に挟まったゴミを気にしながら言うあたり、もう本当にこの女には勝てるところがないなと3人は感服仕った。

3人は、

「マジすか」

「この上に」

「オリンピック」

と暑さから噴き出る以外の、変な汗をかきつつあった。

イザドラの前で勝っているのは歳が若いというだけだし、そもそも、こちらが若輩者故に負けているということもある。若さになど価値が無いと思い知らされる。

「昔の話だがな」

そう言って、額に垂れた前髪を巻いたタオルに指で搔き上げる仕草の、何とカッコいいことか。

よく見ればイザドラの流す汗は、3人よりも多い。十代よりも代謝が活発なのだ。

体を鍛えていれば、こういう大人にもなれる。

「あ、あの……」

千香子は握った両の拳を胸に、イザドラに向かう。

「どうしたら、イザドラさんみたいになれますか?」

千香子にも分かっている。イザドラになるくらいなら、まだロボコップにでもなる方が簡単だ。

それでも、尋ねざるを得ない。せっかくカッコいい大人の見本を前にしているのだ。

「よせやい。私になろうだなんて。ロクな人生が待ってないぞ?」

これまた見本のような答えだ。

「この見てくれで傭兵なんてやってた頃にゃ、何度レイプされたか」

「あ、いや、そういう答えが聞きたいわけではないので……」

思わぬハードなお答えまで賜り、3人は狼狽するものの、

「その見てくれだけ真似したいんだよ」

と莉乃がハッキリ物を言ってくれた。

「ヒドイ。カラダだけなのね」

イザドラは胸を押さえて、ワザとらしくしなるが、すぐに、

「まあ、ぶっちゃけ美容には金かけてるわな」

やおら立ち上がり、全身を3人に晒す。

やはり見事なカラダだ。

「どこにいくらくらい?」

「顔は美顔機、体はジムと自転車。全身エステに全身脱毛。毎月ウン十万だなぁ」

「ひえー」

「でもな、私の年収でそれくらいに抑えてるのは安い方さね」

「うぇ?」

「私と同じかもっと上の連中ってのは、体にメスを入れたり、クスリを入れたり、シリコンぶっ込んだり、もう改造人間だ」

「後はもう電脳化だけだね」

「そういうこった」

「ちなみにイザドラさん、彼氏は?」

千香子が問うた。

「もう出るぞ」

スタコラ出て行こうとするイザドラの腕と脚に絡みついて、それを阻止する3人。まるで「ゴジラvsキングギドラ」のポスターの様な構図だ。

「宝の持ち腐れしてるんですかそうですか」

莉乃はイザドラの右腕にまとわりついている。

「嘘ですよね?何人もいるんですよね?」

千香子は左腕。

「まさか、女性が好きとか?彼女がいるとか?」

蓮水は膕を抱える形で下からイザドラを見上げている。

「えぇい、うっせーな!オトコの一人や二人、その気になりゃすぐ作れるんだよっ。今はそういうの要らないってだけだ!」

イザドラは右脇と左脇と又で、3人の首を締め上げる。汗で滑りそうになるものの、強い力をかければ雑作も無い。

それに対し3人もくすぐり攻撃で抵抗する。

どうやらイザドラは腹と内腿が弱いらしい。

「お前らこそ男はいないのか!不良どもめ!」

イザドラは3人を体のあちこちで挟んだまま組み倒す。

そんなことをしている内に熱中症になりかけた4人は、外へまろび出るとかけ湯をして、水温20度の水風呂に浸かる。

最初は冷たいが、一度浸かると出られないのが水風呂の気持ち良さいうものだ。

「そういや、ボンベイ、いや、貞人、と言うよりお前の、えーと親父さんか?来てんのか?」

イザドラが問う。

「にぃちゃん?ですか?はい、来てます」

「あいつ、こんなとこ来るのか」

「来てますけど、お風呂は入れないって言ってました」

「あ、そっか、あいつ刺青入ってたなぁ背中に」

「知ってたんですか?」

「ああ、知ってる。古い付き合いだ」

イザドラの口の端に何となくオトナの含み笑いが現れた気もするが、そこを問いただす言葉が見つからず、代わりに、

「どんな刺青ですか?」

と尋ねることにした。

「ちかこちゃんこそ、家族なのに知らないのか?」

「……裸は見たことないので」

「そうか。まあ、一緒に暮らして間が無いもんな」

「教えて下さい。どんな刺青ですか?」

イザドラは尋ねられて破顔した。

「教えたらあいつに殺されちゃうからな。やめとく」

「えー?気になるー」

と声を上げるのは莉乃だ。

「そもそももったいぶるようなモンでもないし、それにタトゥーには意味があるだろう?」

「意味とかあるんですか?」

今度は蓮水が言う。

「大概はな。あいつに刺青を彫った彫師は、ソ連時代からやってるジーさんで、色々教えてくれたよ。悪魔の絵は『反権力』とか、首のナイフは『ムショの中で殺しをやった』とか、虫は『スリ』だとか。入れる場所でも意味が違ったりな。胸の薔薇は『ムショで成人した』とか。そういうタトゥーの意味を聞かれるのを嫌がる奴もいる。ボンベイはそういう奴だ」

「ムショ……」

「刺青は、元々囚人の個体識別に使われてた物だし、あとは兵士とか漁師とかが、顔が無くなった死体になっても遺族が確認出来る様に刺青を入れたりもした。そういうもんだ」

「へえー」

「雇われで兵隊やってた時には、大概みんな所属部隊のインシグニアを二の腕に彫ってたもんだよ。いつグチャグチャの死体になるか分からんからな」

「イザドラさんも、彫ってるの?」

「ああ、実は彫ってる。腕じゃないが」

「あ、いけないんだー」

3人はイザドラの体をまたもしげしげ見るものの、それらしき絵や模様などは見当たらない。先程サウナで組んず解れつした時にも、脇や内腿にそんな物は見られなかった。

「私は温泉が好きだからな。入れなくなるのは嫌だから、目立たない所に彫ったんだよ」

「一体どこに?」

「ヒミツ」

「で、彼氏の有無は?」

「ヒミツだ」

次はミストサウナに入る4人。

蒸気にハッカが仄かに香っている。暑いが爽やかな気持ちになる。

「しかしお前ら、まだハイスクールの学生だろう?半レジャー施設とは言え、えらく老け込んだ場所に来たもんだな」

イザドラは周りの客に聞こえそうな声で喋るので、3人は居心地が悪い。

「美容と健康は、女の子の永遠のテーマです」

千香子は借り物の言葉で、若いなりにもちゃんと高い意識を持っているのだと主張する。

「ご立派。勉強も怠るなよ」

イザドラは笑う。遊ぶ子犬を見る様な笑い方だが、悪い気はしない。

「そういやーさ」

莉乃が口を開く。

「美容と健康って言ったら、この前ネットの記事で見かけたんだけど、『輸血サロン』ってのがあるらしいじゃん」

「輸血?」

蓮水は血や針が苦手なのか、顔を顰める。

「あー、なんかその都市伝説聞いたかも」

千香子もポンと手を打つ。

「何なんだそりゃ?」

イザドラが膝を乗り出す。

「お、イザドラ姐さんでも知らないことがありんしたか」

莉乃は少し得意げだ。こういう噂話というのは、女子高生の方が情報に長けている。

「いいから教えろよ」

「仕方ないなぁ」

莉乃は咳払いする。

「輸血サロンってのは、一部の金持ちだけが秘密で通う違法な店で、若い健康な人の血液を輸血して丈夫な体と若さを充填することで、美しく長生きしてやろうってゆう、そんな気味の悪い噂話だよ」

なるほど、噂話にしてもリアリティがある。

確かに、年寄りが事故等に遭った際、大量の輸血が必要な処置を受けた後で、事故の前よりも元気になったり、その後病気らしい病気をしなくなったりすることがある。

血というのは生命力と直結した物であるという感覚は、イザドラにもよく分かる。血を流すことが多い世界に居るので、その点は理解出来る。

「しかしなぁ、そもそも輸血用血液ってのは慢性的に不足してるんだ。酔狂や健康の為にそんなことはすまいよ」

「だから、違法なサービスなんだって」

「ふぅむ。昔、『血頭』ってゆう中国マフィアが居たな。奴らは血液をブラックマーケットで売ってた。そういう奴らが今でも居て、血液を売ってる、と?」

「それは知らないけど」

「だが、少なくとも私ならそんなサロンは行かないね。どこの誰の血か分からんのに」

「でもでも、さっき姐さんが言ったように、体を切って骨を削ったり、シリコンを入れたりする人がいるわけじゃないっすか」

「確かにな」

人間は金の為なら何だってやる。それはイザドラもよく知っている。

そして、女は若さと美しさの為ならなんだってやるということも、知っている。

輸血サロン。

不気味な話だが、興味深い話ではある。


「何故いる」

貞人が浴衣のイザドラを認めた第一声がそれだった。

女子高生3人も浴衣なので本来ならその色っぽさを特筆すべきところだが、この場にイザドラが居ては霞んでしまうというもの。

貞人はというと、シャツとジーンズのままだ。

昼食は5人で摂ることになった。

「刺青入れてるクセに、子供の為に公衆浴場に来るだなんてよ。この子煩悩」

イザドラはイジメる相手に巡り合ったガキ大将さながら、貞人に絡む。

「うるさい」

貞人はイザドラを鼻クソ程度に扱う。

「お前こそ、刺青入ってるだろう。そもそも、鉄砲が持てない所に来て大丈夫なのか?」

「そりゃ私は枕の下に.38口径、ベッドの下に12ゲージを忍ばせてるが、週に半日くらいはピストルを外したっていいさ」

「そうかい」

「なんだよ」

そんな2人だが、一本の瓶ビールをグラスに分け合い、既に1杯目を干している。2杯目からは手酌だ。示し合わせた様に、自然に飲んでいる。社長と部下ではあるが、その前に戦友同士。勝手知ったる間柄だ。

そもそも戦友という物が分からない女子高生3人から見ると、奇妙な関係というより、理解不能な2人。

刺青の存在を知っていたり、パーソナル・ディフェンスの意識と、互いにそのレベルを把握していたり。

妙な大人達だ。

少なくとも、千香子達の周囲の大人と比べるとかなり異質だ。

それでも、2人が普通の友人以上だということは、ビールの飲み方で分かる。

千香子はちょっと悔しかった。

幼馴染である貞人が、自分の知らない間に他所で竹馬の友を作って、目の前でそいつと阿吽の呼吸で酒を飲み交わしている。しかも色っぽいガイジンのネーちゃんだ。

確かに、貞人と千香子と過ごしたのはたった2年ほどの間。イザドラとは10年来の仲らしいので、数字の上では負けている。

バストサイズの数字でも、完敗だ。

だから、悔しい。

頬杖をついてメロンソーダをブクブクやりながら、千香子は2人をジトーっと見ている。

イザドラはその視線に気づいている。女は、嫉妬の眼差しには聡い生き物だ。

千香子は知らないのだ。この貞人が、本物の馬場貞人ではないことを。

千香子の慕っていた貞人本人は、とっくに死んでいる。目の前でビールを飲んでいる偽物がヨハネスブルグで殺したのだ。合法的な戸籍を新たに得る為に。

闇市でそれ相応の金を出せば、戸籍を買うことも可能だ。しかし、この男が取ったのは安上がりな手段だった。年齢と性別、容姿が似た人間を選んで、入れ替わるのだ。

そんな偽物の貞人が、千香子のことをこうして週末にレジャー施設へと連れ出しているのだから、こんな皮肉な帳尻合わせは無い。

しかし、目の前のこの冷血漢にも人の心があったのかと思うと少しつまらない気もするが、同時にビールの喉越しが良い心地がする。人の情があるということは、イザドラのことも社交辞令なんかでなく、本心から悪からず思っている部分はあるだろう。

イザドラが、

「お前、私のこと好きか?」

とグラスを傾けつつ貞人に問うと、千香子の鼻からメロンソーダが噴き出した。

貞人は冷静に、咳込む千香子の顔をおしぼりで拭いてやりながら、

「もう酔ったのか?」

と問い返す。

鼻に入った炭酸に涙ぐみながらグズっている千香子を尻目に、イザドラは、

「いや、何となく。日本でビジネスやるからって言った時について来てくれたり、金を手にしてもまだ一緒にやっててくれたり、何でだろうなーと思ってな」

言って、ビールを干した。

そこへ、

「わ、なんか大人の会話が始まった」

莉乃が茶々を入れる。

蓮水はというと千香子の背中をさすっている。

「日本に帰る用事があったからだ」

貞人もビールを干す。

「それは前に聞いた」

「そうか?それ以上の理由は無い」

「可愛げの無ぇ部下だな」

と、そこへ千香子が、

「ねえねえ、その日本に帰る用事って、何?」

とカットインする。

邪魔をする為に割り込んだタイミングだが、その前のめり具合にはどこか真剣なニュアンスがある。

貞人は千香子の表情を読む。

読んで、望む通りの答えをやることにする。

「お前だよ」

死んだ馬場貞人本人なら、千香子の為に日本に帰っただろうか。

南アフリカへ井戸を掘りに来ていた立派な青年だった。この偽物とは大違いの、笑顔の素敵な好青年。彼は、千香子の待つ日本へ帰るつもりだったのだろうか。

しかし最早、本人の意思を確かめる術は無い。

ならば、偽物にできるのは優しい嘘を吐いてやることくらいだ。

「ずいぶん待たせたからな」

千香子は晴れ間が差す様に笑うと、仁王立ちしてイザドラを見下ろした。

腰に手を当て、

「だ、そーです!」

と小さめの胸を張った。

本日初めての勝利に、全千香子が涌いていた。アメリカ代表に、この痩せっぽちが初めて勝ったのだ。

「ああ、はいはい。そうですか」

イザドラとて人の子。この可哀想な娘のことを思うと、負けておいてやるのが自身の心を救うことにもなる。

千香子の高笑いがおさまる頃合いで、皆が頼んだ天ぷら定食やカツとじ定食が運ばれて来た。

飯となると大人しいのが育ち盛りだ。はしゃいだ後は特に、飯が胃に染みるというもの。黙して食べている。

貞人とイザドラは、そんな女子高生3人の食べる様子を見つつ、2本目のビールを飲っている。肴は天ぷらの盛り合わせだ。

子供らが食べる横で、それを見つつのアルコール。

「私ら、なんか夫婦みたいだな」

イザドラの何気無い一言。

莉乃と蓮水は、心の中で『嗚呼』と嘆いた。

液体燃料と固形燃料という物がある。液体燃料は安定していないものの、扱いが容易い。

そして、固形燃料は安定しているものの、一旦火が点いたら燃え尽きるまで止まらない。ロケットに用いられるのが液体燃料で、ミサイル等に用いられるのが固形燃料だ。

ロケットと違い、ミサイルは自身が炸裂する為にそういう燃料を使用する。

人はよく『怒りに燃える』という表現を使うが、千香子の怒りはどちらに似るか?

液体燃料と、固形燃料。

何れにせよ、千香子の燃えるオーラと白熱した眼球、逆立ったツインテールは地獄の鬼を想起させた。

鬼千香子は立ち上がり、イザドラを見下ろす。

「な、何だよ」

百戦錬磨のイザドラも、ビールを注ごうとした手が止まる。

千香子は燃える目玉でギョロリと天ぷらの盛り合わせを見、

「えい!」

と海老天を摘み上げて、口に放り込んだ。

「あっ!私の海老天を!」

イザドラが声を上げたが遅かった。

「ふむむ、くぬくぬ!」

咀嚼しつつ、別の海老天と、イカ天、穴子天に手を伸ばす。千香子が思いつく限りの最大の暴力は、相手の飯を奪う行為だった。

「何が夫婦か!えい!この!いい加減にしろ!」

「おい食うな!悪かったって!だからホタテだけは!」

「うるふぁーい!」

貞人と莉乃は呆れ、蓮水は千香子を「可愛い」と拝んでいる。

食事の席は惨憺たるものとなったが、一応、5人の腹はそれなりに膨れた。


その後は、昼寝に、岩盤浴、二度目の入浴、マッサージ。そして夕食。

この後は車の運転があるので、貞人とイザドラは夕飯の席では飲まなかった。人を脅したり殺したりしても、酒酔い運転だけはしないのが、彼ら高級な悪党の証だ。

もっと上等な悪党は合法的に手を汚さず悪事を成すが、それは逆に怠け者だ。額に汗して人を殺してこその悪党だと、イザドラは思っている。

「私より悪い奴、それが許せねぇ」

イザドラはテラスの喫煙スペースでタバコに火を点けながら、言う。

「何だそれ」

貞人も、今日何本目か分からないタバコを吸いながら、問う。

今は2人。かしまし娘達は最後にひとっ風呂と言って、また湯に浸かりに行っている。

「悪い奴ってなぁどこにでも居るだろ?」

「ああ。ここにも2人な」

「違う違う。私達は、言わば蜘蛛だ。益虫だよ。他の害虫どもを食うんだ」

「蜘蛛はチョウやリスも食うぞ」

「たまにはな」

「……」

「兎に角だな、そこら中に悪い奴がいて、そいつらが私より悪いことをしてるのが許せねぇんだよ」

「それは、そいつらが吸う甘い汁を横取りしたいと、そう言ってるのか?」

「んー、それもあるが、ちょっと違う。私より悪いってのはつまり、私より強いってことだろ?強い奴は倒したい。自然な道理だ」

「悪どさは、強さなのか?」

「まあ、そんなもんだろ」

「じゃあ、子猫の目玉を抉って遊んでる子供はどうだ?お前より強いのか?」

「ああ、強いね。そんなことが平気で出来る倫理観の無さは、強さだ」

「そういうもんか」

「うん。しかし、猫を殺せるのはお前も同じだろう?ボンベイ」

「まあな」

「金山を脅す為に猫を撃ったらしいが、どうかしてるよ、お前」

「そうだな。まあ、俺は、強いからな」

「そういうことになるな」

「俺は、そんなものは強さだとは思わんが」

「じゃあ、強さって何だよ?」

「色々ある」

「色々?」

「ああ、色々な強さがある」

「例えば?」

貞人は問われて、吸っているタバコを咥えると、右手をイザドラに差し出した。握手を求める様に。

イザドラは、

「おい、やめろ、分かったよ」

と、こうべを振った。

10年前の、徒手格闘の訓練を思い出していた。指導員として日本からやって来たという、ホッソリした黄色い少年。馬鹿にしてナメてかかり、その右手を取った瞬間、頭からマットに投げ落とされて脳震盪を起こした。オマケに右の肩が外れて3日間訓練が出来なかった。

そんなイザドラの記憶。

貞人は昔と同じ顔で笑うと、

「単なる腕っ節の強さもあるし、逆に……」

と続ける。

「逆に?」

「自分を殺しに来た奴と友達になるっていう、そういう強さもある」

と言って、宵闇に煙を吐く。

これは塩田剛三の言葉だ。

敵対する人間と戦わず、仲良くなれば良い。それが一番強い技である。そういう強さだ。

「そういう意味で、俺は弱い」

「ああ、そういう意味なら、人類最弱と言っていいな、私達は」

「だよな」

2人は笑う。

イザドラは、

「そうなると俄然、強い奴らをぶっ殺したいな」

と宣い、腕を組む。

友達になろうと手を差し伸べる連中を片っ端から殺したいと、そう言っている。この女も相当歪んでいる。

「俺は世界と戦う気は無いよ」

「何だつまらん」

貞人は、タバコを灰皿に捨てながら、

「殺したい程恨む相手は、1人で充分だ」

と呟いた。

「誰なんだそれは」

「うん?」

「殺したいのは誰なんだ?」

「一般論だよ」

「どうかな。お前、何か目的があって日本に戻っただろう?誰かを殺す為じゃないのか?」

「おい、またその話題か?くどいな」

貞人とイザドラがこの話をするのは初めてではない。

「背中の彫り物と関係あるのか?」

「……」

「お前の母親は死んだって言ってたよな。誰かに殺されたのか?」

「違う」

「じゃあ、お前の背中の聖母子像は何だよ」

「キリスト教モチーフのタトゥーは、犯罪への献身。そういう意味だと彫師も言ってたろ?」

「お前自身はどういうつもりで入れたんだよ?」

「カッコつけただけだ。元々ひ弱な子供だったから、そういう物に対する憧れがあったんだ」

「そうだとしても、お前がタダのカッコつけでそんな刺青入れる様な奴だったら、わざわざ尋ねたりしねぇよ」

「……」

貞人の背中に入っているのは、トリケイロッサ型の聖母子像。

本来、聖母子像というのは優しく神々しいものだ。

しかし、この聖母子像は少し違った。

聖母マリアが幼いキリストを抱いた聖母子像だが、マリアの脚が異様に長く描かれている。

そして、マリアの左腕が、何故か2本描かれている。

不気味な聖母子像だった。

どんな意味があって貞人がこの聖母子像を彫ったのか、イザドラはちゃんと聞いたことが無かった。

「……母は病死だった。関係無い」

貞人はいつもの顰め面で答える。

「だが、その原因を作った誰かを恨んでるな?」

「……」

「臥薪嘗胆って言葉があるよな?恨み辛みを忘れない為に、その絵を彫ったんじゃないのか?」

「セラピーの真似はやめろよ」

「いや、全ては私の興味本位だ。答えろ」

「尚更答えたくないね」

「まあそう言わずにアチっ!」

短くなったタバコに指を焼かれたイザドラがタバコを灰皿に放る。

指をフーフーして振り返ると、貞人が屋内に引っ込むところだった。

「おい!」

「帰るぞ。また会社で」

貞人は背中で言った。

怒ったわけではないらしいが、聞かれたくないことなのだろう。この話題になるといつもはぐらかされる。

「次は話してもらうぞ!」

いつもイザドラがそう吐いて終わる。

そしていつもイザドラは思う。

馬場貞人が、馬場貞人の戸籍を得てそう名乗る様になる前。イザドラは彼をボンベイと呼んでいた。そして、その前を知らない。

彼の本名を知らないのだ。

訓練キャンプに指導員の補佐としてやって来て、その給料を受け取りつつ、そのまま訓練生として入隊した、あの男。

若く、小さいので、皆あいつのことは皮肉を込めてセンセイと呼んでいた。

しかし、皮肉を込めてはみたものの、イザドラや仲間の屈強な連中が、誰一人勝てなかった。徒手対徒手。警棒対徒手。長物対警棒。どれで戦ってもコテンパンだった。まさに、センセイだ。

入隊すると皆、出身地名で呼ばれていた。互いに出身地名で呼ばれるのを嫌った連中は、出身地名をトレードして呼びあった。

いつしかセンセイはボンベイと名乗っていた。

ボンベイは日本に戻る折、自分に容姿が似た青年を殺して成り代わった。それが馬場貞人だった。

センセイの、ボンベイの、馬場貞人の本名は、何というのか。

本名を、未だに知らなかった。

いつも聞いても答えない。

彼の名前は、いつも誰かからの借り物でしかない。

高級車もペントハウスも持っているが、いざとなれば、それらを30秒で始末して高飛びする。

全てを手にしている様で、その実何も持っていないし、存在もしない。

名刺は弾丸ホローポイント。名札は刺青マドンナ。それだけしか持っていない。

ボンベイが姿を消す時、彼の素性を知る人間も一緒に消える。

ブルガリアでもクロアチアでもヨハネスブルグでも、人が消えた。

皆、ボンベイに近しい人間達だった。

だから、ボンベイが本名を教えないのは、相手を慮っているからこそだ。

「舐められたもんだ……」

本名を知りたい衝動と、いつかボンベイの手にかかるのではないかという恐れ、そしてそれに対する反発。

私を消せるものなら消してみろ。そう思っている。

逆にお前を消して、墓石に本名をデカデカと刻んでやる。

「ボンベイ。お前は、誰だ……」


その頃、謎の男ボンベイは、支払いカウンターで、高額の支払いを前に手に汗をかき、尻を小娘共にけたぐり回されつつも、何とか財布を取り出していた。

「ゴチでした!」

女子高生3人組はツヤっツヤだ。

貞人は馬車を引く馬の心地を感じつつ、ゴルフに3人を乗せ、夜道を走りだすのだった。

「……刺青、消そうかな」

そんなことを呟いてみる。後部席の3人は、既に寝息を立てていた。


莉乃と蓮水を家まで送り、帰路に着く。

娘の友達を車で家まで送るのも、慣れたものだ。

千香子は窓の向こうを向いて、目を閉じている。眠っているのかと思っていたが、

「にぃちゃん」

と、不意に声をかけてきた。

「起きてたのか」

「起きた」

目をこすりながら、欠伸をかます千香子。

「それで、なんだ?」

「にぃちゃんって、どんな刺青入れてるの?」

千香子は帰宅BGMを選びながら、尋ねる。

「しつこいな」

「知りたいんだもん」

「一緒に暮らしてりゃ、そのうち目に入ることもある」

「だからこそだよ。その時にショックを受けたくないし」

「……刺青が嫌か?」

「嫌じゃないけど、なんか、怖いなって」

「怖がることない。ただの絵だ」

「じゃあ、私がタトゥー入れたら?どうする」

「ひっぱたく」

「うわ、矛盾!」

「……わかってる。その時、俺にお前を叱る資格はないな」

「だよね」

「……消せばいいのか?」

「ううん、違うよ」

「じゃあ、なんだ?」

「にぃちゃんのことが、知りたいだけ。施設を出た後のにぃちゃんに、どんな物語があったのかなって」

「……」

「それに、あの人が知ってて私が知らないってのも、悔しいし」

「あの人?イザドラか?」

「そ!イザドラさん、にぃちゃんの刺青知ってた」

「そりゃあな」

「裸、見せたことあるんだ?」

「うん」

「ふぅん」

「何だよ。色々あったんだ。仕方ないだろう」

「ま、何も聞かないけどさ」

「ふん。イザドラから聞かなかったのか?刺青のこと」

「話さなかったよ、あの人」

口数は多くても話し過ぎない点は、数少ないイザドラの良い所だ。

「そうか」

「あの人も、にぃちゃんのことよく分かってないみたいだった。表面上は仲良くしてるし、実際仲も良いんだろうけど、でも、どこか距離を感じてるみたいな」

「当たり前だ。今は仕事仲間ってだけだしな」

「にぃちゃんは、イザドラさんの刺青のこと、知ってる?」

「ああ、知ってる」

「どこに入ってるの?」

「見つけられなかったか?まあ、そうだろうな。あんな所に入ってたら……」

貞人は笑う。イザドラの刺青は見つけにくいのだ。

「このエッチ!」

千香子のオイルエステで磨かれた鉄拳が、貞人の左頬を叩く。

「痛っ!やめろ!事故る!」

「えい!この!エロ!エロおやじ!」

「痛いって!」

「あんな所ってどんな所!?」

「何考えてるんだ!違う違う!」

「何が違うの!」

貞人が丈夫だと思って本気で殴ってくるので始末におけない。

「踵だ!イザドラの刺青は!踵に入ってるんだよ!」

「……え?」

「ああ痛ぇ。イザドラは右の踵に、部隊名を彫ってる。タトゥーはそれだけだ」

「あ、あー、なんだ。そっか」

「……何か言うことは?」

「ごめんくさい」

「もう連れて行かんぞ?」

「ごめんなさいってー」

「まったく」

「でもさ、イザドラさんの下腹部に3つ並んだホクロがあるけど、あれがタトゥーかと思っちゃった」

「正三角形になってるホクロか。確かに、試し彫りのタトゥーに似てるな」

「……」

「……あ」

「このエッチ!死んじゃえ!」

「エルボーはやめろ!痛い!」

ゴルフは夜道を蛇行する。


イザドラは晴れ晴れした気持ちで「月の湯」を出た。駐車場へ向かう間、鼻歌は「暴れん坊将軍」のテーマだった。

僅かに風が吹く。

爽やかな夜風、その中に僅かな仄温かさを感じた。

蛇が熱に反応する様に、イザドラはバッグを背後に投げ、腰のベレッタM84FSを抜いた。

「おっと危ねぇ。撃つなよ」

イザドラが拳銃を振り向けた先に、男が立っていた。

「誰だ。灯りの下まで出て来い」

イザドラが声をかけると、男は進み出る。顔が見えた。

「……マジで誰だ」

「……初対面だよ」

男は両手を肩の高さに掲げている。

歳の頃は30代半ばか40手前といったところ。

吹き曝しの岩の様な顔付きだ。

ざっくりしたフィールドジャケットに、カーゴパンツ姿。上下どちらも草臥れていて、伸び放題の髪がジャケットの襟に掛かっている。

浮世離れした身形だが、浮浪者というわけではない。どちらかと言うと、戦地にある兵士の佇まいだ。

「警視庁警備局、田沼彪吾たぬまひょうご

男が名乗った。

「デカか。バッジを見せろ。左手でな」

「デカって……。20世紀かよ。わかったわかった」

田沼はゆっくりと、左手でジャケットの前を開き、首から下げたバッジホルダーを見せる。金メッキの、桜の代紋。

今時はバッジの偽物も珍しくないが、この身形。刑事に化けるなら背広くらい着るものだ。逆にこのフィールドスタイルに信憑性がある。

「ピストルだ」

「捨てろと?」

「いや、見せろ」

「何故?」

「どこにどんな差し方をしてるか、見たい」

「……」

田沼はまた左手を使い、ジャケットの裾を持ち上げ、後ろを向く。

ベルトの後ろ腰にホルスターが取り付けられている。ホルスターは左利き用でピストルが逆向きだが、留め具は右利き用。手首を捻って抜くキャバルリードロウの差し方だ。抜く時に銃口が自分の方を向くので危険な差し方だが、手首を返すだけで抜けるので、馬上で拳銃を抜くことが多い騎兵隊キャバルリーがこの様な差し方をする。現代社会のロウエンフォースメントの帯び方ではない。

しかし、こんな携行の仕方をしている人物を、イザドラは他に知っている。貞人ボンベイだ。

それからして、この田沼という男も、曲者だと分かる。

ピストルは、SIG P220のシングル・アクション・オンリー。引き金を絞るだけでは撃発しないので、多くの場合、撃鉄を起こした状態で安全装置をかける、所謂コック・アンド・ロックで持ち歩く物だ。熟達した腕が無ければ自分の脚を撃ってしまう、これも危険な携行の仕方と言える。しかし、初弾をシングルアクションで撃てるので、1発目を命中弾にし易く、その点は利がある。

抜いて、最初の一発で仕留める。そういう男なのだろう。只者ではない。

SIGを使っている点からして警察官と思って良いだろうが、P220は警察の官給品ではない。しかもシングル・アクションだ。

「私物か?」

「まあな。お前のチーターもそうだろう?」

「携帯許可はある」

「俺もだ」

「……」

「いい加減、下ろしてくれ。話もできない」

確かに、田沼に殺意があれば黙って後ろから撃ったはずだ。

イザドラはピストルを下ろす。ホルスターには仕舞わず、右手に握ったまま体の横に垂らしておく。

「警備局だって?右翼、左翼、外事、アカ、どれの担当だ?」

「公安課じゃない。警備企画課実務係だ」

「ふん、『幅広情報』係か。私に何の用だ?」

現在の警備企画課の任務の中には、『幅広情報』の収集という作業がある。

『幅広情報』とは、政財界や芸能界のネタのことだ。各都道府県に特派員がおり、各地でこれの収集に当たる。戦前はチヨダやゼロなどと呼ばれていた人員だ。

戦争以降は特に危険な任務になっている。金で人を殺す人間が巷にあふれたことと、道具ピストルも世間に流通してしまった為、羽振りの良い人間の身辺を探る捜査官が容易に行方不明になる世の中になったというわけだ。

イザドラは、田沼の佇まいから、そういう捜査官と睨んでいた。まともな警備企画課の人間なら背広を着ているし、夜の駐車場で後ろから声をかけたりしない。

「逮捕に来たんじゃない」

「だろうな。私を捕まえたかったら人手が要るぜ」

「豪い自信だな。ニコマル金融の代表取締役社長、イザドラ・ハッチェン」

「……」

「俺はな、お前さんの飼ってる犬に、用がある」

田沼はニヤっと嫌な笑い方をする。獰猛な笑みだ。

イザドラは乾いた口で無い唾を飲み込む。

「うちのラッキーとハッピーに?」

「あ、いや、ホントに飼ってるわんこの話じゃない」

「なんだ」

「ラッキーと、えーと、ハッピー?」

「……文句あるのか?」

イザドラは、実は犬を2匹飼っている。何れも従順で、円らな瞳の可愛いドーベルマンだ。

「いや、この商売の独身者が、犬を飼ってると思わなかったからな……」

「うるせぇ」

「今日は一日放っておいて大丈夫だったのか?」

「うん、2人ともハウスキーパーが世話してる。平日と同じに」

「そうか、良かった。……ふたり?」

「いちいちうるせぇ奴だな。犬は家族だ」

「いや、気持ちはわかる」

イザドラは咳払いして、ベレッタをホルスターに仕舞う。犬の話をして和んだわけではない。ただ、こんな話にキチンと調子を合わせてくれるこの田沼の人の良さを買ったのだ。

「で?私の部下の誰かに用があって、私に話を聞きに来た、と?」

「あ、うむ、そう。そうだ」

田沼も仕切り直す。

「どいつだ?」

「馬場貞人という男だ」




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