第4話 しじま

瀬戸内海に浮かぶ、小さく静かな島があった。

島の名前は、金青島きんなおじま

大きさは1日あれば徒歩で島をぐるりと回れてしまう程度で、島民の多くが漁業で生計を立てている。極東戦争以降は、若者の多くが島に留まっている為、過疎の懸念は無いと言えよう。

とは言え、コンビニエンスストアも無い島である。18時には店という店が閉まるし、欠品は勿論、不定期定休日など日常茶飯事。文明的にはコンビニエントならざる島であった。

しかし、日本列島にあって最も日照時間が多い辺りであり、船乗りが多いので島民の気質は朗らかそのもの。

東京で食べると目の玉が飛び出る程の料金を取られる新鮮で美味しい魚と、波の穏やかな海は、何にも代え難い程、素晴らしい。

他所から来た者は、ささやかな楽園を見つけた気持ちがするだろう。

赤間悠人は、東京からこの金青島にやって来た。

住み着いて半年になる。

旅路にあった悠人は、この島を訪れた際に、この島の諸々の魅力にやられてしまい、腰を落ち着けることにした。

悠人はまだ20歳。

大学は辞めてしまった。

それからずっと旅をしていた。貯金が無くなるまで続けるつもりだったが、金青島で小さな職を得て、下宿を借りている。

悠人は若いので、島の老人達からは何かと都合よく使われるが、そういうのも悪くない。今まで、悠人に対して優しい声をかける者など誰も居なかったのだ。


「ゆうちゃん!」

悠人をそう呼ぶのは、下宿している家の娘である浜枝美咲。

金青島に唯一ある、高等教育が受けられる中高一貫教育校、八代学園に通う17歳の女子高生だ。

「起きンとお仕事に遅れるで!早う支度しんさい!」

悠人が被った掛け布団を引き剥がして、母親の様に叫ぶ。セーラー服が朝日に眩しい。

天然の日焼けで小麦色の肌をした、健康的な少女である。顔も超可愛い。

悠人は若く、顔も悪くないし、サッカーが得意だ。オマケに都会育ち。

そんな田舎の美少女と恋に落ちるのに時間は要らなかった。

島の同年代の男子達のやっかみこそあったものの、この半年は、それはもうクリスチャン・ラッセンが描いた様な時間だったと言える。

浜辺で、口の中が砂でジャリジャリになるくらい熱烈な性行為も、既に経験済みだ。

性体験なら東京で幾度もあったが、島の浜辺で島の娘と致すと言うのは何とも良いものである。

美咲は彼女と言うより、この通り女房気取りだが、快活で朗らかな性格は大変好ましい。

「おはよう、みさき」

「はい、おはよ。お母さんが、ご飯出来とるって」

「みさきはもう食べたの?」

「うん。今日は日直じゃけん、少し早く行くんよ」

「ああ、そうだっけ」

「ほら、起きて顔洗い」

田舎の女の子は初心なイメージがあったが、なかなかどうして、これで助平なのだから堪えられない。

昨夜も、学校まで迎えに行き、帰り道に藪で立ったまま、致した。

悠人の腰が怠いのはその所為だろう。

美咲は先に部屋を出て行く。

悠人は布団で軽く伸びをして体を起こす。開け放した窓からは潮の香り。

シャツとズボンとパーカーに着替えて、4畳半を出る。階下からは味噌汁の香りと、ニュース番組の音がしている。

美咲の父親は本土の造船所へ出稼ぎに出ているので、不在だ。

母親と弟の2人と、焼き魚の朝食を摂っていると、美咲がスクールバッグを担いで降りて来た。

「いってきます」

「いってらっしゃい」

こうしたやり取りは毎朝だ。当初、悠人には新鮮だったが、最近はすっかりこの朝の光景に溶け込んでいる。

洗い物を手伝って、仕事へ出掛ける。

小学校へ行く弟君と一緒出て、途中で別れる。

今日も、空と海が青かった。


悠人の仕事は、釣り船の修理工場の庶務だ。

自前のノートパソコンで管理用のエクセルを作って、売上進捗や出納記録も管理しているので、経理も兼ねている。

工場長もこれには大変喜んでいる。未だに帳簿にボールペンで書き込む管理方法だったことを思えば、どれほどこれが画期的なことか。

悠人は、1年で辞めたとは言え、大学では経営学を専攻していたので、こうしたことは得意だ。

今日もパタパタと数字を書き込み、書面を画像PDFとして取り込み、その文字を専用アプリでテキスト化する。近頃はもうコピー不可の特殊インクなど意味が無い。何でもデジタル化できるのだ。

昼休憩には、工場に隣接したボートハウスから海を眺めながら、浜枝家の奥様が拵えたお弁当を食べる。今頃は美咲も学校で、同じ弁当を食べている頃だろう。

「ゆーちゃんよぉ、どねーじゃ?だいぶん島にゃ慣れたろ?」

親方はこの島の生まれで、怒ると瀬戸内海も煮える程の烈火の憤激を見せるが、普段は優しい親父さんだ。

「はい、最近は」

「東京とは勝手が違うけんのぉ。まあ、えかったわ」

方言にも漸く慣れ始めたここ最近である。

この島に住む東京出身者は、他には島の反対側に住む富永さんという家のおじさんで、戦争中に疎開して来てそのまま居着いて、この島の生まれのおばさんと所帯を持ったという話だ。今では2人の子供が居て、上の子は美咲の弟と同級だ。

地方に行くと、そういう人間が多く居る。戦災を逃れて疎開した人間達だ。

しかし、この島では富永というおじさん1人だけらしい。この島がそれだけ田舎だということだ。

外から来る人間は殆どいない。時折、フェリーで行商がやって来るくらいだ。

はじめの3ヶ月は、悠人も怪訝な目で見られたものだ。都会からわざわざこんな島にやって来て住み着くなど、脛に傷持つ人間に違いない。そういう風に思われていた。戦中に疎開した人間に混じって、大陸移民や半島移民が大量に雪崩れ込んで来た事実もある。

しかし、悠人の人柄やコミュニティへの献身的な態度から、ここ最近は近所の人間らと打ち解けて来た。

外様の人間は姿勢が低くなければならない。悠人は若いが、それくらいは心得ている。

この島では、外から来た人間は目立つ。

早く溶け込むに限る。


その頃、金青島と海を隔てた港町に、1人の男が現れた。

ボーンホワイトに近いベージュのメルセデス・ベンツSクラスという、趣味が良いのか悪いのか分からない車に乗って、北のインターチェンジから降りて来た男は、コインパーキングに駐車して、卸売り市場へ向かう。

そこで商売している人間らに、色々と尋いて回る。男には尋人があった。

目立たないカジュアルな服装こそしていて手ぶらなものの、明らかに地元の人間ではないし、かと言って旅行者でもない。

腕時計や靴は上等な品だが、シャツは安そうだ。無理をして安っぽい格好をしているようにも見える。

尋常でないのは服装だけではない。腕周りや腿周り、胸板がある。決して太い体躯をしているわけではないが、日常的に体を鍛えている人間の体つきだ。

総合的に見て中肉中背だが、歩き方にそこはかとない暴力の匂いがしている。チンピラ風のガニ股ではなく、空手や柔道の心得がある人間のそれだ。

拳は丸い。河原の石の様だ。

シューティンググラスの奥にある眼は、常に周囲を伺う。誰かを探す意味もあるのだろうが、何かを警戒している様にも見える。

男は尋人に関する情報の確証を得ると、翌日にフェリーに乗ることを決めた。


更にその頃。

昼休み。校舎裏。

信田千香子は購買(の裏に来るトラック)で買ったお気に入りのパンを、カフェオレと一緒に楽しんでいた。

一緒に居るのは、多々良莉乃と鈴木蓮水だ。莉乃はコンビニのおにぎりと唐揚げ、蓮水は持参の弁当だ。

それに、猫が一匹。名前はサンダンス。と、千香子が名付けた。

「なんでサンダンス?」

と莉乃。

「ブチならブッチって付けたから」

「え?」

「でもブチじゃないから、ならまぁ、サンダンスかなーって」

サンダンスは明るい茶色の毛並みをした猫だ。

「ちかちーの話すことの元ネタは、辿るだけで大変だ」

「『明日に向かって撃て!』だよ。まあ、サンダンスってのは元々は-」

猫のサンダンスは3人から分けてもらうお零れをムシャムシャと食べている。野良猫らしい健啖ぶりだ。

蓮水は、いつも千香子に擦り寄っているが、今日はサンダンスに夢中で餌をやり、隙あらば撫でるというプレイに興じている。端から見る分には、猫に遊ばれているのは蓮水の方だ。

3人一緒に昼を食べる日は、千香子が部活に出られない日だ。

「ちかちー、今日は弁当じゃないんだね」

莉乃はおにぎりをふた口で食べ、麦茶で流し込む。

「昨日からにぃちゃん居ないんだ」

と、千香子は答える。

「あー、だから部活も出れないわけだ」

「うん、家事しなきゃ」

蓮水がサンダンスの耳の下を掻いてやりながら、顔を上げた。

「お兄さんが居ないから、ちょっと元気が無いの?」

蓮水は千香子の専門家だ。

「え、あー、うん、そう」

「はすみん、よく分かるな」

莉乃が感心する。

「えっへん」

「ちかちーのことによく気づくよなぁ。キモいくらい」

「一言余計」

千香子はオニオンサラミパンをかじりつつ、サラミを一枚サンダンスに投げてやる。サンダンスの見事なキャッチ。

「まあ、にぃちゃんが居ないから、映画見たりゲームしたりして夜更かししただけなんだけど」

パンと一緒に欠伸も噛み殺す千香子。

「なぁんだ、そういうことか」

「夜更かしも良いけど、今日はよく寝ないと」

「ふぁーい」

蓮水はまたサンダンスに向き直りつつ、

「お兄さん、いつまで居ないの?」

と問う。

「さあ?何日か留守にするって言ってたけど、いつまでだろ」

「仕事?」

「うん。出張なんだってさ」

「外国?」

「いや、んーと、四国?の方だって」

「へえ、魚が美味しいらしいね」

「うん、だから、美味しいお魚のお土産をクール便で送ってって頼んだ」

千香子はウキウキと体を揺する。8ビートだ。

すると莉乃が、

「ならさ、今日の夜、ちかちーの家に泊まりに行っていい?」

と米粒を飛ばして言った。

「え?」

「だって、お兄さん居ないンしょ?パーティーやろう!明日は土曜だし!」

すると蓮水は莉乃を箸で差しつつ、

「ちょっと!今私が寝不足の信田さんを気遣ったところ……」

と言いかけたところで、

「いいね!やろやろ!」

と千香子がカットイン。

「じゃあ、部活が終わったらうちに来てよっ。夕飯作って待ってるからっ」

「やったね!お金は後で渡すからっ」

「そんなのいいよいいよーっ。にぃちゃんからお金貰ってるしっ」

「そお?悪いなぁーっ」

「パーティーやってみたかったんだよねっ」

「うんっ、楽しみっ」

「夢だったんだよねー。広い家でさ、そこに友達呼んでさ」

「うんうん」

「みんなで『ロッキー・ホラー・ショー』観ながら、ハロウィン・パーティーをね」

「うん待て待て」

「え?」

「今5月だし。それに何?ホラーショー?血が出る映画はいいけど、怖いのはダメ」

「細かいことはいいじゃーんっ。それにロッキーは怖くないよ?楽しいミュージカル映画だから」

「えー?本当にー?」

「あ、そういうことならお菓子も用意しなきゃ!」

「お菓子なら私らが買っていくよ」

莉乃と千香子の話が弾んでいる中、サンダンスに2個目の唐揚げをあげていた蓮水が、

「私ら?」

と耳をそば立てた。

「私も、行っていいの?」

「何言ってんだよハスミン。私らで行くって話じゃんか」

莉乃が呆れる。

「そうなの?私も、いいの?」

「もちろん!2人に来て欲しいな!」

千香子は笑っている。

信田千香子は、蓮水にとって憧れの女の子。

明るく朗らかで人の誕生日を忘れない優しい子であるが、誰彼構わず良い顔をするわけでないし、さりとて嫌いな人間でも蔑ろにしたりしない。

育ちは不幸だが斜に構えたりせず、いつも笑顔だ。

まァ何より顔が好み。

蓮水にとって千香子はベアトリーチェだ。

そんな千香子から家に泊まりに来いと誘われたのだ。

蓮水の中で、この太陽系が位置する大銀河の光の渦の、その端から端までが見えた気がした。

光の速度が一定であるこの宇宙。

光を基軸に時間と空間が伸びたり縮んだりする。

しかし、その光も熱や重力で簡単に曲がってしまう。

この宇宙には絶対的な物など無いのだ。

全てを超越する普遍的な存在。

もしそれがあり得るとするなば、きっとそれは「愛」と呼ばれるものだ。

「愛」こそ、時空を超え、光を追い越し、無から有を生み出す、絶対不変の存在に違いない。

「愛ね。愛」

蓮水が宙に目を彷徨わせつつ、地面から1センチほど浮かんでいるのを尻目に、千香子と莉乃はお泊まり会の相談に興じる。

蓮水が大宇宙と千香子を自らの愛で救うビジョンを確かに見た時には、チャイムが鳴り、サンダンスは居なくなり、弁当箱から唐揚げが消え失せ、千香子と莉乃は教室に戻っていた。


金青島の夜は早い。

商店は日暮れと共に閉まるからだ。

夜でも灯りが点いている店は、赤提灯くらいのものである。その居酒屋にしても島に2軒しかない。

瀬戸内の海は暗く沈み、金青島は宵闇の中で海に溶けている様だ。

浜枝家の夕食は質素だが実に美味い。

魚醤を使った干物は特に絶品だ。

この点は悠人も大変気に入っているところである。

浜枝のおっ母の飯は美味い。近所の人間もそう言っている。

民宿でもやれば流行るのではないだろうか。

お母さん、美咲、弟君、悠人の4人で夕餉を食べつつテレビを見る、団欒の時間。

クイズ番組は悠人が強く、音楽番組は美咲が強い。アニメは弟君で、ドラマはお母さん。広くない畳張りの居間で、寝そべったり胡座をかいたり、座椅子に座ったりして、互いにアレコレ言い合いながらテレビを見る楽しさ。

テレビとは本来こういうものだったのだ。家族の輪を保つツールなのだ。

悠人は、手元で全て済むスマートフォンやタブレットの方が情報の選択肢が広いし、便利で楽しいものだと思ってきた。

テレビなどつまらない。そう思って来たし、周りの同年代の人間もそう思っているに違いない。

ネットの普及ですっかり先細ってしまったテレビの業界。

テレビ番組には過激な内容や極端な意見も見られないが、それは家族が、凡ゆる層の人間が、皆んなで1つのものを一緒に楽しむ為に、そうなっているのだ。

テンプレートで良い。当たり障りが無くて良い。

それがテレビであり、それが家族なのだ。

悠人はすっかり浜枝家の人間であった。

洗い物を片付けるのは悠人の役目だし、風呂掃除だってやる。

風呂掃除をして、湯を溜める。

ツッカケで勝手口から出て、覚えたてのタバコをふかす。

洗剤の匂いを嗅いでから外に出ると、改めて潮風が香る。島は海の真ん中にあるので、当たり前のことだ。しかし、悠人にはそれが新鮮だった。故郷から遠く離れていることを思い出させてくれる。

望郷ではない。家には良い思い出が無い。

ここが心地よかった。この島が。

ゆっくりと時間が流れるこの島こそ、悠人の本当の故郷なのかも知れない。

生まれる場所を間違えた人間、という者がいる。

いつも場違いで、周囲から、家族からすら、浮いてしまう。

そういう人間は、まだ見ぬ故郷を探すしか無いのだ。

悠人にとって、金青島こそが故郷なのだろう。

「ゆうちゃん、お風呂沸いたで」

美咲の声が、悠人を呼んだ。

「ありがと」

美咲の居るこの島こそが、悠人の帰る場所だったのだ。


次の日も、晴れていた。

この辺りは本州で最も降雨量が少ない一帯である。

内海なので波も穏やかな為、夏にはちょっとしたリゾート地だ。しかし、それも海を渡った辺りの話。

この島は観光には向かない。金青島は地べたで生きている人間の住む島だ。

早朝には家々から朝餉を用意する気配がハッキリと分かる。島全体が朝ぼらけの中で生活の匂いを立ち昇らせ始める。家々の換気扇や煙突からふんわりと煙が立つ様が、島全体が生気を帯びている様だ。

ここでは当たり前の光景だが、都会から来た悠人には珍しい光景であった。皆が朝食を作って食べている。それが面白い。そして、記憶の原初にある何処とない懐かしさを思い起こさせる。

「なんじゃ、起きとったんか」

美咲が起こしにやって来たらしいが、悠人は既に着替えを済ませて、窓からボーッと隣家の屋根越しに見える海を眺めていた。

「おはよう、美咲」

「おはよ。感心なこっちゃ。一人で起きよるとは」

軽く口づけする。美咲の唇からは歯磨き粉のミントの残り香がした。

朝食は夕餉の残りの筑前煮と、黄ニラのニラ玉。たらふく食べれば、それだけ元気が出る。朝飯は食べるに限る。

しかる後、今日も元気に浜枝の子供達は出動すした。

その日の昼、悠人が工場の外で海を見ながら弁当を食べていると、来客があった。

富永さんだ。

島の反対の方に住んでいる、この島で悠人以外では唯一東京出身のおじさんだ。

薄くなりかけた頭を坊主にしていて、ガタイが良い。これでしっかりと鍛えればプロレスラーの様になるだろう。背は低いが。

話したことは、あまり無い。挨拶くらいだ。

「君も、東京から来たってね」

そんな言葉から始まり、東京の話になった。

富永の仕事は乾物の卸業らしい。メインの案件は、東京を中心にした「干物出汁」のラーメン屋チェーンをしている友人に、瀬戸内の質の良いあごの干物を卸すこと。あごはトビウオのことだ。

要は、悠人にこの仕事の手伝いを頼みたいということだった。

「いずれは東京に帰られるんでしょう?」

富永の問いに、悠人は、

「いえ、当分そのつもりは無いので。残念ですが」

と断った。

仕事柄たまに東京に出向く際には、ついでに親や友人に顔を見せられるので都合が良いだろう、という提案だが、悠人にはそのつもりは無かった。

「そうですか。この島が気に入ったんですね」

「はい」

「浜枝さんとこの美咲ちゃんは可愛いですしね」

富永はカラカラと笑った。

悠人と富永は、また東京の話を肴に酒でもと約束し、互いの仕事に戻った。

東京には帰らない。帰れない。


その頃、波間を行く昼の定期連絡船の、舳先に立つ男のシューティンググラスには金青島が映っていた。

潮風の向こうから香る獲物のニオイを辿ってやって来た猟犬とでも言うか。そんな佇まいだ。

いや、男はかつてアフリカで飼育されたブチハイエナを見たことがあったが、どちらかと言うと男自身はあれに近い。

その強い顎で骨すら嚙み砕いて食べるので、糞が白い。

犬や狼の狩りの成功率は20%程だが、それは諦めが良いからだ。リカオンは頭が良く挟み討ちや囲み込みをする為、80%を誇る。

ハイエナは奴らの様に行儀良く狩りもできないが、執念深く追い60%の確率で獲物を仕留める。

携帯が鳴った。出るとボスだった。

「よう、私だ。どうだ?船には乗ったのか?」

イザドラ・ハッチェン。服飾業ならいざ知らず、この世界で女ボスは珍しい。

ハイエナの群れのリーダーはメスだという。

ハッチェン女史こそ、ハイエナの群れの長だ。

「そんな辺鄙な島に隠れてちゃ、見つからんわな」

イザドラは何か食べているのか、モゴモゴと喋っている。

「何食ってる」

「ランチタイムだ、許せ。タコス食ってる」

「タコベルか」

「飯は?食ったのか?」

「働く前は食わん」

彼はオフィスで仕事をすることを「働く」と言わない。外で荒っぽいことをすることを「働く」と言う。

「腹を撃たれる心配か。相変わらずだな」

「内臓に未消化物があると、痛いし、死ぬ確率も上がる」

「そんな心配をしないように、神は防弾チョッキを創られた」

「ケブラーじゃライフル弾は止まらん」

「ターゲットが長物を持ってるとは思えんがなぁ」

「用心に越したことはない」

「そうだな。ま、相手は素人とはいえ、気をつけろよ」

「ああ、有難う。もう島に着く」

「わかった。じゃあな、ボンベイ」

電話が切れると、金青島はもう眼前であった。


ボンベイこと馬場貞人が金青島に入った。

そうイザドラに報告された秘書の森山海は、日報に、時間と一緒にそのメモを付けた。

「何でまたそんな遠くの案件を、ボンベイさんに?」

森山は尋ねた。別に興味があるわけではないが、こうして仕事に興味があるふりをしておけば上司は喜ぶし、こういう真似が出来ないほど森山は不器用ではない。

森山はそういうOLだ。

「松山オフィスの方が近いのにー」

「まあな」

社長のイザドラ・ハッチェンは紙ナプキンでタコスで汚れた口元と手を拭いつつ、同意する。

「私もそう言ったんだが」

「じゃあ、なぜ?」

「元々あいつがこっちで追っかけてた案件だしな」

「そうみたいですねぇ」

「それに…」

イザドラはナプキンを丸めてゴミ箱に投げ込む。

「何故かあいつは、親殺しってやつを徹底的に追うんだ」

溜息混じりの小さいゲップをかまして、ストローを斜めにカットした楊枝で歯間を穿る。

「親殺し……」

森山は、半ばどうでも良かったのに話が長くなりそうな様子に、自分も早くランチに行きたいのになーと少し演技の精度が落ちそうになる。

イザドラはプリントアウトした書類を眺めた。若い男の写真も載っている。

「戸田悠人……。殺人か」

「通常、殺人って、保釈にならないんじゃ?」

「場合による。父親の暴力にあい、これに抵抗し、挙句、刺殺」

「正当防衛ですか」

「どうだかな。それでも裁判所は保釈を認めちまってるからな。馬鹿だよ」

「そして、逃亡、と」

「うん。で、私らのお仕事ってわけよ」

「ボンベイさんは、どうしてこれに拘るんですか?」

「知らん。だが昔から、親を捨てたり傷つけたりした対象は、捜査日数無視で追い続けるところがある。赤字にしちまうこともあったな」

「はあ」

「前にも母親をバットで殴って殺しちまったガキが逃げてな。あの時のあいつはちょっと異常だった」

「異常?」

「ああ。ヨハネスブルグを思い出したよ。おっかねぇ」

「知りませんよぉ」

「話してやろう。あれは今から7年前。奴と私は原隊を離れてジンバブエの……」

森山はランチに行くタイミングを完全に失っていた。


夜。

既に、日が暮れても半袖で過ごせる時期だ。

信田千香子の自宅は高層マンションの最上階。ペントハウスだ。キャッチボールが出来るくらい広いリビングフロアの天井は吹き抜けで、窓の向こうはこれもミニバスケが出来そうな広さのテラスになっている。

信田千香子、多々良莉乃、鈴木蓮水の女子高校生3人組は、お泊まり会と称した酒池肉林に興じていた。

部活が終わった莉乃と蓮水が、空腹を堪えながらここへ着いたのは18時45分。

千香子お手製の焼きチーズカレーと、リンゴとレタスのサラダ、わかめ入りコンソメスープで夕飯となったのが18時46分だった。

「そんなにがっつかなくても」

と、千香子はエプロンを外しながら笑った。

その後は、3人で入っても余るくらいの風呂に浸かりながらそれぞれ好きなアイスを食べるという贅沢をし、風呂上がりは吹き抜けのリビングフロアの壁にプロジェクターで「セックス&ザ・シティ」を映して鑑賞会だ。ジュースとお菓子も広げている。

おしゃべりの内容は、嫌な先生のことや、嫌な男子のことや、なかなか膨らまない胸のことなどだ。

22時30分頃、家の電話が鳴った。

広い家なので、リビングだけでも2箇所に受話器がある。

一番近い受話器を取った千香子の表情が更に増してパッと明るくなった。

「あ、にぃちゃん?」

貞人からの電話だった。

『メールを見た。お友達が来てるって?』

「うん、そう」

『男じゃあるまいな』

「うわ、何それ父親みたい」

『茶化すな』

「この前も来た、莉乃ちゃんと蓮水ちゃんだよ。女子会なのだ」

『そうか。火の元と戸締りしっかり頼む。セキュリティもな』

「はいはい、いつもそれだねー。わかってるって」

まったく。保護者だったらもっと、学校はどうだった?とか、お友達と何してるんだ?とか、色々とあるだろう。千香子は貞人のこういう事務的な連絡が嫌いだ。親っぽいことを言えば親が務まると思っている。

『で、楽しかったか?』

貞人が問うた。

「え?」

『女子会は楽しかったのか?』

「あ、うん、楽しいよ!絶賛開催中」

『どうせまた映画やドラマばかり観てるんだろう』

「当ったりー!」

『あまり夜更かしするなよ』

「はいはーい」

『切るぞ。おやすみ』

「おやすみっ。にぃちゃん?」

『何だ』

「お仕事頑張ってね!」

『……有難う』

「帰る時わかったらメールしてよ?」

『わかってる』

「うん。じゃね!」

電話を切ると、いつの間にか千香子の背後に忍び寄っていた莉乃と蓮水が、

「お兄さん?」

とニコやかに訊いて来た。

「わ、何2人ともー。そうだよ」

「や、ちかちーの声が1オクターブ高いなーってさ。きっとお兄さんなんだろうなーと」

莉乃が可笑しそうに言う。

「なにそれー、いつも通りだし」

「私から見ても、今日一番の笑顔だったかと」

という蓮水による莉乃援護。

「もぉ。いいじゃーん」

3人は引き続きケラケラと笑い合って、ビデオ鑑賞会に戻った。


金青島の夜は早い。

18時には各商店が閉まり、島民はそれぞれの家で夕餉となる。

悠人は工場を出て、浜枝家に向かって帰りつつ、タバコ屋に寄る。

タバコ屋は、小さなブースで売るタイプだが、家の客間の窓を利用しているだけで、奥を覗くと居間でテレビを見ているババアの足が見えていたりする。

「ください」

と声をかけると、奥から「あいよー」と声がして、億劫そうにババアがやって来た。

タバコを買って、家路に着く。

日が暮れようとしていた。

夕焼けがピークを過ぎて、乳白色の帯を残し、藍色の空が深く沈んでいく。

そこに匂う、家々から漂って来る煮物や味噌汁の香り。

いつもの風景。

この時間にここを歩いている時は、いつも空腹だが、とても満たされた気持ちになる。

果たして浜枝家まで今日も辿り着いた。

戸を開こうとして、戸に鍵がかかっていることに気付いた悠人は、妙に思った。

この島の人間で、わざわざ錠前をかける人間は居ない。人口が少なく、泥棒など居ないからだ。だから普通は家鍵を持ち歩く習慣も無い。

チャイムを鳴らすと、暫くして奥から弟君が戸を開けてくれた。

「おかえり」

俯いている。何かして母上か姉上に叱られたのだろうか。

「ただいま。どうした?」

「んーん。鍵かけといて」

「え?うん」

問うても、何でもない、というふうに悠人の視線を避け、居間の方へ駆けて行ってしまった。

「なんだ?」

そもそも何故今夜に限って鍵をかけているのか。

悠人も奥へ続く。着替える前に弁当箱を台所へ持って行くつもりだ。

居間からはテレビの音がしているが、いつもより音量が小さい。それに、この時間なら弟君がアニメを見ている時間だ。

いや、金曜日なら、お母さんが地元ローカルのウィークリー情報番組を見つつ、夕飯の支度をしているはずだ。夕飯の用意は、いつもなら19時前に整う。あと15分ほどだろうか。

それにしては台所から、母親の気配がしない。と言うより、何の料理の匂いもしない。

台所へ抜けようと居間へ。玉簾を掻いて入って見れば、弟君と母親が居間のちゃぶ台を挟んで向かい合っていた。

母親はテレビの方を見もせず、俯いていたが、悠人が入って来るとその膝辺りをチラリと見やり、やがて恐る恐る視線を上げると、悠人と目を合わせた。

怯えている。一体何に。

夕飯の準備もせず、どうしたのか。

弟君も黙っている。

そろそろ美咲も帰って来る時間だが、美咲に何かあったのだろうか。

いや、この狭い島だ。

浜枝の人間に何かあれば、それが悠人の耳に入らないのはおかしい。

そもそも2人が黙りこくっているのが不自然だ。

「どうしたんです?何かあったんですか?」

悠人は2人と一緒にちゃぶ台を囲む形で、座る。

ピンポーン、とチャイムが鳴った。

「ただいま〜!ちょっと〜、鍵がかかっとるで〜」

と美咲の声がする。

「あ、美咲だ」

悠人は不審な2人を一旦差し置き、玄関へ。

戸を開くと、

「どしたんよ?鍵なんてかけて」

と美咲が膨れている。

「わからない。お母さん達が何か変なんだ」

「変?」

2人で居間へ向かう。

母親も弟も、変わらぬ様子で座っている。おかえりも言わない。

居間の只ならぬ雰囲気に、美咲も気圧されて問い正せない。

「なんよ、どしたんで」

「俺もわからない、2人とも喋ってくれなくて」

すると、ガチャン、と玄関の方で音がした。

鍵がかかる音だ。

普段から鍵をかける習慣が無いとは言え、自分の家の鍵の音だ。聴き違えるわけもない。

悠人と美咲は、玄関の方を見やる。

まだ揺れている玉簾の向こうは廊下で、玄関の磨りガラスが見えている。

玉簾越しに、磨りガラスがくっきりと黒い人型に切り取られていた。

磨りガラスの向こう側なら、人型はボヤけて見えるはずだ。

つまり、家の中に、廊下に、人が立っていることになる。

「だ、だれだ!」

悠人が、声が出ない美咲を抱き寄せ、影に向かって言った。

すると、人影がゆっくりと居間に向かって来た。そして、問う。

「戸田悠人か?」

男の声。その問いは確信に満ちた断定の気色がある。

「なんだっ、誰だよっ。俺は赤間だ。赤間悠人だ」

悠人は察した。影の正体を。

「俺は保釈金協会代理だ」

影が名乗る。

ピストルが玉簾を掻いて現れ、悠人の方を向いた。

「逃げたり暴れたりすると、この家の者も死ぬ」

玉簾の向こうから、悠人の眼を見据えた2つの目玉。

賞金稼ぎが浜枝家に自己紹介したのは、18時45分だった。


楽しい時間は束の間である。

金曜夜の女子高校生女子会の宴もたけなわ。気付けば時計はてっぺんを迎えようとしていた。

「凄い家だよなぁ、しかし」

莉乃はゴロリと大の字になる。体育館に寝ている様な高さと広さを感じる。恐らく床は全面に床下暖房が走っているだろう。

「マンション全部、お兄さんのものなんでしょう」

蓮水は揚げパスタをカリカリと食べつつ、千香子にもアーンを誘う様に揚げパスタを差し出す。

千香子は差し出された揚げパスタを端から食べながら、

「うん、そうらしいよ。凄いお金持ちみたい」

揚げパスタごと自分の指をしゃぶらせようとする蓮水の左手を払って、答える。

「戦争の時に外国でお金いっぱい稼いでたんだって」

「へえ。株?」

莉乃が思いつく精一杯のマネーメイキングが株だ。

「よく分からないけど、色々だってさ。悪いこともしてたんじゃないかなって思うけど」

「昔は大変だったものね」

「私は家族みんな亡くしたけど、悪いことしなかったよ」

千香子はエッヘンと胸を張る。

莉乃と蓮水はリアクションを取り難そうに頷く。

「でも、にぃちゃんに逢えて良かったよ。じゃなかったら、今こうしてリノちゃんにもハスミンにも逢えてないし」

莉乃と蓮水は2人で千香子に飛びかかるともみくちゃにしてやる。

そんな調子で夜が更ける。

客間である和室に布団を敷いて、3人で川の字になったのは深夜2時過ぎだった。

「今日2人に作ったカレーはね、にぃちゃんに最初に作ってあげたご飯だったんだ」

真ん中で天井の豆球を見上げているのは千香子だ。

「旨かった」

「美味しかった」

莉乃と蓮水の口中にまた唾が出てきそうだった。

「ありがとう」

千香子は礼を言う。

「今日のはチーズ乗っけてバーナーで炙ったの。これは初めてやったけど」

「キッチンにバーナーあるの?」

「んーん。正確には、にぃちゃんの作業部屋にある溶接機」

「……」

2人は黙るしかない。

「さ、作業部屋になんて、入っていいの?」蓮水が話題を変える。

「本当はダメって言われてるし、そもそもロックされてて入室番号を教えてもらってないけど……」

「けど?」

「にぃちゃん、『攻殻機動隊』が好きらしくて、特に劇場2作目の『イノセンス』が。それでピーンと来てさ。2501って打ったら、入れた」

「何の話?」

「誕生日並みに単純な番号ってこと」

千香子は続ける。

「にぃちゃんの作業部屋って、趣味で色々作れる工作室みたいになってるんだけど、筋トレの設備とかもあって、最初はちょっと怖かったな。でもカッコいい部屋だからいつか使わせてもらいたいな」

「筋トレねぇ、あたしは嫌いだな」

「私も」

「私もだけど、にぃちゃん見てると、なんかああゆうの良いなって思う」

「ああゆうの?」

「あのストイックな感じ、かな。それがちゃんと見た目に現れるしさ」

「なるほど」

「あ、そうそう、にぃちゃんって私が来るまで晩ご飯と言えば、無添加ツナ缶と低脂肪乳と無塩のトマトジュースだけだったみたい。人間の食事じゃないよね」

「そりゃストイックだなぁ」

「ボディビルダーみたいね」

「でしょー?だから、それ聞いてカレー作ってあげたんだ」

千香子は布団の中で両手の指を絡ませた。お腹のあたりが温かい感じがした。

こちらの腹の内を読もうと警戒していた険しい顔が、カレーを食べて僅かに緩んだあの時、千香子はこの朴念仁の為に一緒に居てやりたいと思ったのだ。

会いたい、一緒に居たいという思いが一転し、この男のために一緒に居てやろうという、母性に似た感情が湧いたのだった。

「胃袋を掴めばこっちのもんよ」

得意げな台詞だが、ニヤニヤしながらなので何となく間延びした調子になってしまう。

すると莉乃が、少し喉の調子を整え、

「ちかちーのお兄さん、カッコいいよな。あたし結構タイプかも」

と言った。

それがいけなかった。

沈黙の後、やおら、ゆらりと立ち上がった千香子が電気を点けた。その背中に朧に歪んだ鬼神の姿をしっかりと見た莉乃の顔に、枕が振り下ろされたのは、直後のことだった。柔らかい枕は何度も振り下ろされた。

「やめっ、なんだよっ、怒ったのかっ?」

「にぃちゃんはダメー!リノちゃんには渡さないんだから!」

「わかったよ!冗談だから!」

「ウソ!今のは冗談じゃなかったもん!」

蓮水は布団の中に避難しつつ、

『私も、と言わなくて良かった』

と胸をなで下ろす。

『あ、でも、私も千香子さんに枕でぶたれたいかも』

とも思い、布団から顔を出した蓮水の顔に流れ枕がめり込んだ。

いよいよ夜は朝に向かって白んで行った。


浜枝家の面々は一晩中まんじりともしなかった。

翌日のフェリーの時間まで島を出られない為、この場で悠人の身柄を確保していたい貞人は、浜枝家に居座ることにした。

「派出所ではダメなんですか?」

母親が言うも、賞金稼ぎは、

「交番か。島にべったりの巡査1人では、信用できんし任せられん」

と答えた。

夕飯は遅めだった。

いつもの浜枝家の夕食の献立だが、それは異様な光景だった。

居間の隅にはハンドカフを後ろ手にかけられた悠人が転がり、いつも悠人が着いている席には賞金稼ぎが居て拳銃を握っている。

賞金稼ぎは席で食事をしなかったが、水道水と、炊いたばかりの白飯だけ、台所で口にした。

母親が作った魚の煮付けやひじきは食べない。そもそも母親も勧めるつもりは無いらしい。

美咲達は料理の味を感じる事無く、食事を終えた。

悠人は床に転がったまま、犬の様に口を使って味噌汁をかけた飯を食った。汚れた口の周りを美咲が拭ってやる。

「こんな扱い、許されるんですか?」

美咲が凄い目つきで、賞金稼ぎを睨む。今まで悠人は美咲のこんな目を見た事が無かった。

賞金稼ぎはそれを真正面から見つめ返してやる。まるでプラスチックの様な眼だ。駄目だ。美咲のことをゴミや小虫程度にしか見ていない。話が通じる相手ではない。

美咲はすぐに眼を伏せる。

賞金稼ぎの指示で、誰も眠ることは許されなかった。その場で雑魚寝。それだけだ。トイレは申告制で、行く時は声を出して数を数えながら、ドアを開けっ放しで用を足す。

22時30分頃、賞金稼ぎは左手で携帯を取り出し、電話をかけた。

話の内容からして、家族と話している様だった。こんな仕事中でも家族に電話をするのだから、余程豪胆な性格をしているか、そもそも人に銃を向けることを何とも思っていないのだろう。

「あなたにも、家族がおるんね?」

母親が、電話を切った賞金稼ぎに尋ねた。電話をしている様子から、人並みの感情があると希望を持つ様な問いだ。

「……」

賞金稼ぎは答えず、携帯をポケットに仕舞う。表情も変えない。

「ゆうちゃん……、悠人君は何をしたんじゃろか?少なくともウチでは良い子で……」

母親が続けると、

「その男は、戸田悠人」

賞金稼ぎはボソリと呟いた。誰に向けた訳でもない、独り言の様に。

「昨年1月に父親を殺害し、一審で有罪判決が下ってる。正当防衛だったこと、犯行当時未成年だったことから、保釈が認められ、保釈金は800万円。母親がうちから500万を借りた。残りの300万は貯金と、あとは親族から借りたそうだ。だが、こいつはそれを踏み倒して逃亡。姿を晦ました。800万は没収。それが約半年前」

賞金稼ぎは続ける。

「だが、俺から言わせればその正当防衛だって怪しいもんだ。大学にまで行かせてくれた親が、どうして家庭内暴力に走る。裁判記録にあるが、大学の休学届けに、留学の申込申請からして、進路の意見の食い違いも有ったんだろうが、それにしたって妙だ。妹が時を同じくして産婦人科にかかってる。その折に処方されてるのが……」

「やめろ!」

黙っていた悠人が声を荒げる。

「やめろやめろ!黙れ!勝手なことばかり!お前なんかに何がわかる!」

賞金稼ぎは、床に突っ伏して喚く飯のタネに目をやる。

「何がきっかけとかそういうことじゃない!ずっと、積み重ねられてきたんだ!毎朝毎晩、毎日続く小言、プレッシャーに耐えて耐えて耐え抜いていた!正しい事ばかり並べ立てられて、反論も許されない!こっちは好きで子供やってるんじゃないって、そう思ってきた!妹も同じだ!俺たちはどうすればよかったんだよ!」

浜枝家の3人は俯いて聞いているしか無い。

賞金稼ぎが口を開く。

「お前みたいなのを山ほど見て来た。声が大きいだけのことなら、お前を抑圧して来た親や学校と何ら変わらん。同じ存在なんだよ。お前も、親も、先公も」

悠人に何があったかは知らない。

だが、想像はつく。彼らはいつも声が大きいばかりで、その言葉には説得力が無い。だから誰とも議論出来ないし、説き伏せられない。プライドが高いせいで逃げ道も見えず、結局、凶行に及ぶ。

賞金稼ぎ自身にも経験がある。

「お前の家庭内で何があったかは知らん。だが、人を、親を殺して逃げたのは事実だ」

賞金稼ぎはピストルを悠人に向ける。

リボルバー。.357口径。暗い銃口マズルの奥に潜むホローポイントのマグナム弾が舌舐めずりしている。

照門リアサイトの向こうの賞金稼ぎの瞳も、その銃口の様に暗い。

「とは言え、父親を殺したのは仕方なかったのかも知れん。お前が妹をレイプしたのも、俺の知ったことじゃない」

部屋の温度が下がっている気がしたのは、悠人だけではなかった。

「しかし、母親に借金を負わせて逃げたのは、許されることじゃない」

撃鉄ハンマーを親指の第一関節で起こす。ぎちん、と不気味なほど精妙な音がする。

「そもそもお前に人を殺す資格があるか?お前、ここから先、平穏無事な人生が送れると思うなよ」

悠人は背中に冷汗が噴き出るのを感じ、ねこまんまを吐きそうになった。それでも、賞金稼ぎに食ってかかる。言いたいことを言ってやる。それが悠人に許された最後の自由だ。

「か、勝手なことぬかすな!何様だ!お前なんか銃が無きゃただのクズじゃないか!大体お前らみたいな人間が居るから……」

耳を劈く銃声一発。

美咲が座った姿勢のまま壁まで飛んだ。

背中に空いた大きな穴から血が噴く。温かい血が悠人の頬に降り注ぐ。

「なっ……!」

美咲の手から、果物ナイフが落ちた。

悠人に梨やリンゴを剥いてくれた、キッチンナイフ。美咲の柔らかい手から、それが落ちた。

美咲は、悠人の正体が知れても尚、悠人を助けようとしていたのだろう。銃を持った相手でも、不意を突けば、そう考えたのだろうが、甘かった。

「美咲!」

そう叫んだのは母親だった。

震える手で畳を掻き毟って血塗れの娘の所へ這い寄り、縋りつく。

母親は泣くことも喚くことも、呼吸することすらも忘れ、目を見開いて震えた。

そして、徐ろに落ちたナイフを手に取ったと思ったら、賞金稼ぎに向かってそれを振り上げていた。

もう一度、銃声がした。

母親も同じ様に即死だった。

テレビの音がやたら大きく聴こえるくらいの、沈黙。

硝煙の臭い。

血の臭い。

「おい、子供」

紫煙を上げるピストルを手にしたまま、賞金稼ぎが声をかける。悠人に言ったのではない。美咲の弟だ。彼は呆然と、何事が起きたのか分からないまま、姉と母親の死体を眺めている。

「2人とも、武器を手にした。仕方なかった。わかるな?」

親が自分の子供に諭す様に、丁寧な口調だ。

「それでも許せないだろう。それも仕方がない。大人になっても未だ許せなかったら、殺しに来るがいい。俺は馬場貞人だ。名刺を渡しておく」

馬場貞人は名乗り、左手で名刺を投げた。

「名前は?」

貞人が問う。

「……浜枝恭也」

小学生の頭でどれくらい理解出来たのだろうか。悠人は思う。目の前で家族が殺され、仇が眼の前に居る。ついさっきまで、学校と家の往復、あとは海で遊ぶだけの毎日だった子供だ。

「浜枝恭也。俺を恨むか?」

貞人が言う。

末っ子の恭也は、貞人を睨んでいた。やっと目から涙が零れて来ていた。しかし、その目付きは鋭い。ふしゅう、と鼻水の垂らすが、まるで獣がヨダレを垂らしている様にも見える。

恭也は名刺を手に取ると、くしゃりと握り潰す。そして、姉と母親が手にして、そして命を落としたナイフに手を伸ばした。

「や、やめろ!恭也くん!」

悠人が叫んでいた。

貞人は冷静にそれを眺めている。

小さな手でナイフを掴んだ恭也は。真っ赤な目を更に吊り上げた。

子供でも大人でも、最初に人を殺す時の目は同じだ。貞人は、拳銃をホルスターに仕舞う。

無防備になった貞人を認め、悠人は、

「……い、今だ!」

と恭也に声をかけていた。

しかし、恭也は黙って踵を返した。悠人の方へ。

「え?恭也くん……?」

恭也は、悠人の上に屈み込むと、砂場にスコップを刺す様にナイフを悠人の腹に滑り込ませる。2回、3回、4回と、刺す。

悠人はみっともない叫び声を上げ、泣き叫ぶ。何回か刺すうちに、叫び声に力が無くなっていく。10回目には啜り泣きに変わっていた。

出刃なら、太い血管や主要な臓器に届いて直ぐに絶命しただろうが、ナイフは刃渡りがあまり無いので致命傷になり難い。

それでもそれから更に何回も刺すうちに、悠人の体から血液とともに力が完全に失われていた。

赤間悠人こと、戸田悠人は、死んでいた。


あるラーメン屋から、仕入先のこの島に不審な若い男が来ているとタレコミがあった。

干物出汁ラーメンの美味い店が都内に幾つかあり、そこから聞こえてきた話だ。

最初は何でもない世間話だったに違いない。干物の上等さを話す過程で、仕入先の島の辺鄙さ加減の話が出、そこで若い男の話が出た。という具合だ。

噂千里を走る。そういうことだ。

戸田悠人は死亡。遺体は後日親族が確認し、この件はそれで確定となる。

浜枝恭也は交番で身柄を保護された。出稼ぎに出ている父親が戻るのは明日だそうだ。

娘と母親の射殺対応については、身分証バッジの提示と事情聴取、現場の検分も済ませたことで、責任を果たしている。正当防衛で不起訴だろう。いつものことだ。

あの娘、千香子と同い年くらいだろう。日焼けした感じも良く似ていた。

千香子にも好きな男が出来れば、あの娘の様に好きな男の為命を懸けるのだろうか?

それならば、本物の馬場貞人を殺して成り代わったこの自分を、千香子はどうするだろうか?

そんなことを思う。

貞人はイザドラへの完了報告をフェリー上で済ませ、本土を見つめる。

消費した時間や旅費を考えると、あまり美味しい案件ではなかったが、貞人には虚しい満足感があった。

空虚だが、何かをやったという充足。

大海からスプーン一杯の水を汲み出した。

それだけだ。

1つの家族を崩壊させ、善良な人間を2人殺し、1人の少年にトラウマと重罪を負わせた。

その上で、死ぬべき人間が1人、死んだ。

いや、死ぬべきだったか否かは分からないが、少なくとも逃亡犯が1人、苦しんで死んだ。

それで良い。それで十分だ。

世の中は素晴らしくもなく、美しくもない。

生き物が居て、そこで生きて死ぬという現象。それの繰り返しが行われているに過ぎない。

あの時、悠人に言った言葉を反芻した。

『そもそもお前に人を殺す資格があるか?』

それに一言付け加えるなら、

『その資格があるのは、それは野山で生きる獣だけだ』

だろう。

だから貞人は、極力他人の世話にはならない様に生きていたいと思う。だから、自分の世話は自分でする。料理も自分で作る。

それでもやはり、誰かが作った作物や肉を食い、誰かが作った車や銃を使い、誰かが作った映画や音楽を享受する。誰かが作った爪切りを使うし、誰かが作った歯ブラシも使う。矛盾だった。

貞人は歩く矛盾だ。

本来なら人を殺す資格は、貞人にも無い。保釈金協会代理のバッジは持っていても、それは賞金稼ぎのライセンスがあると言うだけで、裏のアルバイト資格までは保証しない。

恐喝、殺人、誘拐、強奪。違法なことばかりだ。

法律に守られながら、法律を破る矛盾。

貞人は、獣になりたかった。

誰からも守られず、誰も守らない、ただの獣に。

悠人というあの青年も、そうなるべきだった。それを目指すべきだった。

10年前、貞人がそうした様に。

さて、フェリーが本土に近づいて来た。

気持ちを切り替える。

この切り替えが大事だ。そうでなければ仕事は出来ない。

殺す前に心を切り離し、殺した後に取り戻す。これをやらなければならない。

家のことを考えよう。

しまった。

千香子に土産を頼まれていたのを忘れていた。港に着いたら卸団地で何か買わねばなるまい。


貞人が後にした金青島は、今日も穏やかな海に浮かんでいた。

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