第2話 はらから

真田遥は23歳。

大学卒業後、警察官採用試験を受け合格し、半年間、警察学校へ入った。

しかし、集団生活に馴染めないことや、刑事法の勉強に根を上げ、リタイア。

真田遥の望みは悪人を撃ち殺すこと。ワイアット・アープの様に。

かくして遥は、この春からある事務所に勤めることになった。

遥の選んだ仕事は、賞金稼ぎだ。


ニコマル保釈金代行の看板を掲げた、この事務所。

定例案件として抱えるのは、取立て業務だ。

「金返せ!」と叫んでやって来る人達が働く、非常に元気な会社である。

日本保釈金協会が被告人に貸した保釈金を、その被告人が逃亡し踏み倒した場合、ニコマル金融などの会社にその捜索と身体確保の依頼が降りて来るわけだ。

要するに、凶悪犯を捕まえるか殺すかすれば、報酬が貰える、というわけだ。

極東戦争後、巷に銃火器が溢れ治安が悪くなったことを受け、内務省主導で制定された新治安維持法案の一環で、保釈金取立業務従事者への逮捕権付与、訓練と武装の義務化が成された。彼らは準警察職員としての権利を有している。

平たく言えば、賞金稼ぎという職業は銃を持てるし、撃てる仕事だということだ。

遥はそういう仕事を選んだわけである。

実に胸が高鳴るというものだ。

今も、ワクワクしている。

週4箱の拳銃射撃訓練のノルマも何のその。むしろ200発程度では足りず、もっと撃たせて下さいというものだ。

だがしかし、弾という物は、当たらない。

手元の数㎜の狂いは、7m先で数十㎝になる。

引き金が落ちるタイミングを憶えても、反動に備えて無意識に体がビクついて、つけた狙いが外れてしまう。数㎜狂う。すると、的を外す。

顔に火薬がピチピチと飛んでくるのも、痛い。

全くもって可愛くないのが、鉄砲という物だ。

さて、それでも遥がワクワクしているのは、これから撃ち合いになるという局面を迎えているからだ。

捕縛対象が潜伏すると思われる、とある暴力団事務所に、これから踏み込むのだ。

遥の教育係を務めている郷崎と、遥をオチョくるのが好きな金山の二人が一緒だ。

三人は、事務所が入っている雑居ビルの、通りを挟んだ向かいの立体駐車場で、駐車したハイエースの中で打ち合わせをしていた。

車内にはコンビニ食のゴミとタバコの臭いが充満していた。遥としては息が詰まりそうだったが、一晩過ごせば慣れるものだ。

「真田さんは、これが2回目か」

郷崎が言う。体が大きいのでハイエースが軽に思える。

「はい」

前に郷崎とドアを蹴破ったのは小さいアパートで、相手もヤク中のチンピラだったが、今回は違う。筋金入りの極道者で、場所は連中の巣窟だ。機関銃の1丁や2丁くらいは相見えよう。

只ならぬ緊張感がゾクゾクと背中を駆け上がる。恐いのに、楽しみですらある。言い知れぬ感情が遥の中を吹き荒れていた。

「落ち着けよ、新米」

金山が愉快そうに言う。

「落ち着いてます」

遥は冷静なつもりだが、瞬きを忘れた目が薄暗い車内で炯炯と光っていた。

「目つきだきゃ一丁前だな」

「金山さんは一言多いんですよ」

3人は短機関銃と防弾ベストを用意する。弾は30連発マガジンに28発込めてある。ゆとりを持たせた装弾の方がマガジンへのストレスが少ない。予備のマガジンをベストのポーチに差して、拳銃はサイホルスターで腿に差す。

「ブリーチは?」

金山が郷崎に問う。ブリーチングとはドアを破ることだ。

「もう一人呼んである」

その時、郷崎の携帯が鳴った。

「おう、来たか。4階だ」

階下からスキール音を立てて上がってきたのは、シルバーのフォルクスワーゲンだ。

ハイエースの横に止まったワーゲンから、中肉中背の若い男が降りた。

ハイエースから降りた遥は、

「真田です。宜しくお願いします」

と挨拶した。入社して1ヶ月経つが、初めて会う先輩だ。若く見えるが、長年強い風に吹き曝しになっていた様に厳しい顔つきをしている。指が太く、胸板も厚い。社会人野球の選手の様だ。

「馬場です」

馬場貞人は無愛想に名乗りつつ、トランクを開ける。

「わざわざすまんな、ボンベイ」

郷崎が声をかける。

「いいよ。これが楽しくてやってる仕事だ」

貞人はトランクからベネリの自動散弾銃を取り出し、あっという間に8発の散弾を込めると、1発を口に咥えてトランクを閉める。

防弾ベストを肩に引っ掛け、自動散弾銃のボルトを引くと、咥えた散弾を装填する。

釣竿でも扱う様に自動散弾銃をヒョイと担ぎ、ボンベイと呼ばれた男は3人に、

「行こう」

と促した。


4人は完全武装で道路を駆け足に渡り、目標の雑居ビルに入る。

「ヘマしたら、社長にドヤされるだけじゃ済まねぇな」

金山がボヤく。そういう厳しい現場だということだ。

「ベルファストは、たとえ俺たちが死体になろうとブン殴るぞ」

貞人がおかしそうに言う。こんな時に冗談を言って笑っている。ベルファストとは社長のことだろうか。遥にはそんなことを気にかけている余裕が無かった。自分の鼓動を、指先やこめかみで感じるくらいに緊張が高まっていた。

4人は階段を駆け上がり、ドアを前にする。

ドアの上には監視カメラがある。中からこちらの出立は見て取れることだろう。直ぐ様突入することにする。貞人が先頭で、金山、郷崎、遥の順。

貞人がドアを破ったら、金山、郷崎、遥、貞人の順で入る段取りになっている。

最後尾の貞人は、最初にドアブリーチングをした後は露払いの役だ。

「ローレディに構えて、俺の後ろにくっ付いてろ」

郷崎は遥に指示する。銃口を下に向けて何もするな、という意味だ。

貞人の自動散弾銃が蝶番を吹き飛ばし、ドアを破る。

そこからはあっという間だった。

「保釈金協会代理だ!」

という名乗りと、捕縛対象者の名前と引き渡し要求を叫ぶも、警告無しに銃が火を噴いた。

金山と郷崎の9㎜口径の短機関銃は、遠慮無く中の人間を撃ち倒す。

遥の背後を散歩でもする様に着いて来る貞人は、自動散弾銃をスリングで背中に担ぎ、両手それぞれに.22口径の拳銃を握って、それで撃ち漏らした奴に止めを刺す。

死に損ないを次々に銃口で指差し確認する。すると銃口から、止めの鉛が飛び出す。簡単な作業の様にすら見える。

2丁拳銃とは映画の中だけで見られるものと思っていたが、実戦ではこの様に使うのだな、と遥は感心した。

怒号と銃声があった後、血と硝煙の臭いが室内に立ち込めた。

「撃つな!」

奥の倉庫らしき部屋から丸腰の捕縛対象が出て来たので、遥がナイロンのハンドカフで縛り上げ、現場終了となった。

アドレナリン溢れる現場は、あっと言う間だった。


しかし、そこからが長かった。

警察を呼んで現場検分、聴取。

警察署へ場所を移して、更に聴取。

4人は身分証と指紋を確認され、捕縛対象の引渡証明書を発行してもらう。

それからオフィスへ戻り、色々な書類を用意して、保釈金協会にそれらを送る。

この案件を売上確定処理し終わる頃には、夜中だった。

「疲れたぁー」

1人で残業していた遥はPCの電源を落とす。

ふと、冷めたコーヒーを流し込んでいて、昼間嗅いだ血の臭いを思い出す。

この事務所と、昼間踏み込んだ事務所も、よく似ている。

今こうしていて、逆に踏み込まれて自分が撃ち殺されたら。

自分の腸からも同じ臭いがするのだろうか。

もしそうなると、床を拝みながら、今朝起きた時にはそんなことは夢にも思わなかった顛末に、涙の一つも流すだろうか。

昼間死んだヤクザ者達も、そうだったのだろうか。

アドレナリンやその後の忙しさで、余計なことは考えなかったが、今は違った。

考えなくて良いことを考えてしまう。

気分が悪い。

何故だ。

人の内臓が傷口から飛び出ている様子を見ても、アドレナリンのおかげかどうとも思わなかったが、今にして吐き気を覚える。

気が滅入りそうになるので、遥はバッグを引っつかんだ。カードキーでオフィスの施錠をし、帰ることにする。

駐車場の原付バイクへ向かう途中、地下の射撃レンジから音が聴こえた。防音こそしてあるが、深夜の静けさの中なら銃声も聴こえる。

熱心な先輩も居るものだ。

遥は地下へ降りてみる。

カードキーで二重扉を開けて中へ入ると、轟々と発砲音が鳴っていた。

見れば、社長がレギンスとパーカー姿で、ガンガンと的を撃っている。

15mの距離でマンターゲットの中心を目がけて、小気味良く撃ち込んでいく。

撃ち終わるとマガジンを抜き、薬室を確認するその所作は手慣れた物だ。

イザドラ・ハッチェン大社長はイヤーマフを外して首にかけると、

「真田か」

と背中で声をかけて来た。

「あ、はい。お疲れ様です」

イザドラとは、面接の時以来まともに話していない。

「残業ご苦労様」

向き直ったイザドラはスッピンだったが、弩が付く美人だ。遥は、イザドラの銃の腕や物腰、顔立ちやカラダを比べて、物怖じしそうになる。

「有難うございます。社長も、遅くまで大変ですね」

「私は趣味だ」

黒光りするベレッタM84Fを少し掲げて見せる。今では時代遅れなモデルだが、よく手入れされており、銃身が8㎜ほど延長されるなどカスタムも施されている。

「いいですね。そのベレッタ」

「わかるか?」

「はい」

「真田は何を使ってる?」

「グロックです」

「優等生だな」

愛銃には性格が出る。衣服や車に現れる様に。

「郷崎もグロックだが、奴のは45口径。金山はシグの9㎜に趣味の悪いグリップを付けてたな」

イザドラはベレッタの銃身をブラシで掃除しながら、言う。

「ボンベイは、あいつは何でも使うな。何でもいいってタイプだ」

馬場貞人のことだ。昼間も郷崎はそう呼んでいた。

「馬場さんはボンベイってアダ名で呼ばれてるんですね」

「ああ、そうだな。昼間、神保町の現場で一緒だったんだっけ?」

「はい」

「援護に回ったろ?あいつ」

「はい、そうです。どうしてそれを?」

報告書は先程上げたところだ。イザドラが読んでいるとは思えない。

「初めて組む奴が居る時は、いつもそうだ」

「え?」

「初対面の人間には背中を任せないんだよ」

そんなに用心深い人間が居るものなのか。遥は感心する。

「ゴルゴ13みたい」

「そんな立派な奴じゃないが。だが、腕は悪くない」

「へえ、やっぱり」

「んー、まあ、射撃なら私が上だし、腕っ節なら郷崎だし、度胸なら金山だがな」

「はあ。よく分かりません」

「そのうち分かる」

「ボンベイの由来は?何ですか?」

「それも、そのうち話してやる」

イザドラは面白がっている様だが、どこか気怠げだ。それを話すと長くなるのだろう。

「そう言えば、社長もベルファストって呼ばれてますよね?」

「ああ、そうだな」

「なんか、かっこいいですね」

「しょーもねぇよ」

「由来は?」

「しつこい」

「馬場さんとはいつからの知り合いですか?」

「10年になる」

イザドラことベルファストは愛銃を腰のホルスターに差すと、帰り支度を始める。

「ボンベイとベルファスト。出身地とか?あ、でも、ボンベイってムンバイのことだから、インド?馬場さんインド人には見えないし。社長はアメリカ人ですよね?ベルファストってイギリスだから違うし」

「今度な、今度」

イザドラは悟った。真田遥は、噂好きの女子としての一面が大いにある、と。

「帰るぞ」

「待ってくださいよ」

イザドラは自転車通勤だ。元々トライアスロンの選手だったこともあり、日常の中で体を鍛えることを好む。社屋にシャワーを設置してあるのは、半ば自分用だ。

極限まで贅肉をそぎ落とされたカーボンフレームの競技用自転車は、イザドラが跨がればそれこそナナハンにも劣らない走りを見せてくれる。

だから、遥の原付バイクを振り切るのも容易かった。と言いたいが、なかなかどうして遥もしつこく、イザドラは久しぶりに本気でペダルを踏み込むこととなった。


同時刻。

ボンベイこと馬場貞人は、自宅であるペントハウスのキッチンで、ヒヨコのイラストが入ったエプロン姿で、少々困っていた。

「にぃちゃんの仕事って、どんな仕事なの?」

夜中に夜食が食べたいとせがんで来た千香子の為に、ジャージャー麺を作らされていた貞人は、菜箸を宙に彷徨わせながら、逡巡した。

何と答えて良いものか。

育ち盛りの千香子は、よく腹を空かしている。時折こうして夜食をせがまれることがあるので、買い置きは常にストックしておかねばならない。このひと月と少しで、貞人は冷蔵庫の中身の管理が上手くなった気がする。

それは良いとして、千香子の質問のことだ。さっきまでプレスリーの「Such A Night」をパジャマで踊りながら待っていた千香子が、時折、曲のキメどころで貞人をドツく度に、手元の湯が跳ねて「アチっ!」となっていた貞人は、完全に油断していた。

千香子には多くの嘘をついている。不意の質問には備えなければならない。

今は、完成しかけのジャージャー麺と、プレスリーと、女子高生のツイストに気を取られていた。

「仕事?」

オウム返ししておく。

「うん、お仕事」

「シスターに聞かなかったのか?」

千香子を引き取った施設の人間には、キチンと書類を提出してある。マンション経営と、保釈金協会代行員業務が、表向きの収入源だ。

どちらも実入りがあるのは確かだし、嘘ではない。マンション住人の家賃や共益費、捕縛対象の確保報酬は、マンションの維持費その他を鑑みると、そこまで多くない。課長クラスの給料に毛が生えた程度だ。

貞人の本業は、恐喝、誘拐、殺人。

だが、そんなことはこの娘には言えない。

「シスター大野は、にぃちゃんはマンションの管理と、賞金稼ぎをしてるって言ってた」

千香子は、キッチンカウンターのスツールに腰掛け、両手で頬杖をついた。

大きな目をキョロリと動かし、下から貞人の眼を覗き込む。この角度から見ると、まだ歯磨き粉の匂いをさせる唇の先がツンと前に出て、餌をねだる雛鳥の様だ。

「賞金稼ぎって、なんかカッコいいかも。フランコ・ネロみたいで」

「その言い方は良くない。『保釈金協会代行員』だ」

「ふーん」

「何だ」

「銃、持ってるの?」

千香子は、何でもない様な様子で、しかし何処か緊張した面持ちで、問うた。

「会社に置いてある。探しても無駄だぞ」

これは嘘だ。

「なんだ。つまんない」

「家にあったとしても、鍵付きのロッカーで管理しないといけないって法律がある」

「ぶー」

「テッポーに興味があるのか?」

「その物より、持ってる人がカッコいいと思う」

「何も持たずに済むのが一番だ」

「銃は嫌い?」

「好きじゃないな」

「ふぅん」

千香子は何処か間合いを取る様に、言葉を遊ばせている。少し深めに、息を吸っている。これから本題に入ろうとしているのが、見て取れる。

「人を殺したこと、ある?」

来た。

「みんな悪者だよ」

間髪入れずに答えてやる。これも、嘘だ。

「何人くらい?」

「憶えてないが、そんなに多くはないよ」

これも嘘。人数を憶えてないのは事実だが。

「そっか」

「出来たぞ」

ジャージャー麺を器に移して、カウンターにヘイお待ち!とばかりに置いてやる。

「いただきます」

千香子は、実に美味そうにそいつを平らげると、安心した様に寝室へ向かった。

「有難う」

そう言って階段を上がった千香子の足取りは、何となく軽かった。

嘘も半分本当ならバレにくいというものだ。

人に嘘をつくことなど何とも思わないが、一緒に暮らしている人間に嘘をつくと言うのは、家の中の居心地が悪くなる。

家族に隠し事や嘘は良くないとは言うが、その通りだ。

面倒臭ぇ。

何故あんな小娘に嘘をつき、それがバレるのを恐れねばならないのか。

ウォークイン・クローゼットの中のパーソナル・スペースに戻り、悶々とする。

誰かと過ごすのは良い。

だが、嘘で塗り固めた生活というのは、良くない。

不健康だ。

とても面倒だ。

ふいに、貞人は靴箱に置いた手金庫から、22口径のピストルを取り出し、一緒にサプレッサーも取り出す。

クローゼットを出、部屋を出る。

銃身にサプレッサーをねじ込みながら、千香子の寝室へ。

もう寝ている頃だろう。

千香子の部屋は、貞人の部屋ほどでないが、それなりに広い。勉強机とベッドがある。貞人が買い与えた物だ。

その他、コルクボード上に小学校や中学校の頃の写真で作ったコラージュ、ブルース・リーのピンナップ、映画「ファニー・ガール」のポスター、折りたたみのミニテーブルとラグ。これらは千香子が引越しの時に持参した物だ。

千香子の部屋に入るのは引越しの時以来だ。

いつに無く緊張している。

忍足。

ベッドに近づく。

しかし、次の瞬間、貞人の背中に冷たい汗が噴き出した。

ベッドが空だ。

千香子が居ない。

振り向く。

部屋を見回す。何処にも居ない。

外に出たとは思えない。それならば玄関の音で分かる。

貞人は神経を研ぎ澄ます。

音を聴け。千香子が起きているなら物音を立てるはず。

ふと、クローゼットから気配がした。

千香子の部屋のクローゼットは、やはり貞人の部屋の物程ではないが、中は四畳半ほどある。

そっと、クローゼットを開いて中を見ると、簡易マットレスの上でタオルケットに包まった千香子が寝息を立てていた。

胎児の様に丸くなって眠っている千香子は、ひどく小さく見えた。まるで、みかん箱の中の捨て猫だ。

その小さな耳に弾を撃ち込むかわりに、思わずタオルケットを爪先までかけ直してやりそうになる。

何故クローゼットで寝ているのか。

貞人がクローゼットで眠るのは、あんな広い部屋で眠る様に育っていないから、というのもあるが、不意の夜襲に備える為でもある。

千香子が夜襲に備えていたとは思えない。

千香子が育った児童施設では、8畳間を2人1部屋共同で使っていた。パーソナルスペースは4畳程度。このクローゼットは、ちょうどそれくらいの広さだ。恐らく、千香子には居心地が良いのだろう。

このクローゼットの壁の向こうは、隣室のウォークイン・クローゼットだ。つまり、貞人と千香子は、太極図の様になって眠っていたことになる。

何処か自分と似た所がある娘だとは思っていた。

気の毒な娘である。

家族を失い、慕った人間を知らないうちに殺され、その慕った人間に成り代わった悪党の家に転がり込み、今夜こうして悪党の手で殺されようとしている。

馬場貞人という人間は、とっくに死んでいる。

幼い千香子が「にいちゃん」と呼んだ青年は、7年前に死んでいるのだ。

警察用語では、「背乗り」と言う。要は戸籍の乗っ取りだ。

北アフリカの某国まで井戸を掘りに来ていた青年を、背格好や目鼻立ちが似ていた上に身寄りが無いとのことから、渡りに船とばかりに、彼自身が掘った井戸に放り込み、パスポートを奪った。

ちょうど極東動乱が激化していた時期で、それに乗じて商売をする為に、新しい身分証が必要だったのだ。

そのまま俺は馬場貞人として生きている。

俺は本来なら、この娘に仇討ちされても仕方ない人間だ。

そんな奴がこうして、その娘の頭に直径6mmの鉛を撃ち込もうとしているのだから、世の中はどうかしている。

引き金を引くべきか、引かざるべきか。

抱えた問題は、ほんの数mmの板バネのテンションにかかっていた。


翌日。

教室に千香子の姿が無いことを不審に思った多々良莉乃は、携帯端末からのメッセージにも応えない千香子をいよいよ案じた。

多々良莉乃は、見た目こそ男子然とした精悍な顔立ちとショートカットだが、化粧っ気の無い二重瞼とよく笑いそうな口元は、人好きのする人相と言える。

莉乃は千香子と背格好が似ているが、水泳歴が長い分、筋肉質だ。千香子は、よくこの二の腕を揉む。理由は無い。

そんな千香子から、音沙汰が無い。風邪でも引いているのだろうか。「馬鹿は風邪引かない」と昔から言うのに。

莉乃は、千香子の担任から彼女の住所を聞き出し、放課後訪ねてみることにした。

まさかこういう形で家を訪ねることになるとは思わなかったが、致し方あるまい。

部活動の欠席連絡をすると、同じ水泳部の同級生、鈴木蓮水が声をかけて来た。

「信田さんのお見舞いに行くの?」

莉乃は少し驚きつつ、振り向いた。

「そだよー」

「私も、行っていいかな?」

「いいけど」

鈴木蓮水は人の目を見て話をしない上、そもそも口数が少ないイメージがある子だ。

それが珍しく口を開いたかと思えば、キチンと莉乃の目を見ている。

蓮水は水泳部員ながら、どちらかと言うとトウシューズに画鋲を入れられるタイプのバレリーナ然とした容姿だ。か弱い、群舞の1人。肌も白い。

「鈴木さんって、ちかちーと仲良かったの?」

「そういうわけではないんだけど、なんだか、信田さんが休むなんて、只事じゃない気がして」

「うん、意見が一致したね、スズキちゃん」

「それに」

「それに?」

「信田さんって、どんな家に住んでるのかなーって」

普段は暗い蓮水の瞳が、僅かに艶っぽい。

「スズキさんってさ」

「え?」

「ちかちーのこと、好きなの?」

「だって可愛いじゃない」

「うわ」

この鈴木という女は全く悪びれない。

「うわぁ」

「2回も引かないで」

「さて、そういうことなら、行こう」

「切り替え早いんだね」

「あたし方向音痴でさ。助かる」

「当てにされても困るよ」

2人は信田千香子の家に向かうこととなった。


「変だな」

イザドラ・ハッチェンは、何時になってもオフィスに現れない貞人に業を煮やしていた。

「昨日の報告書が出てないのはアイツだけだってのに」

イザドラは秘書の森山を呼び出して愚痴っていた。

「はぁ」

森山海は、タイプは速いがイマイチ舌が回らない、優秀なのか阿呆なのか掴みどころが無い女だ。

「どーも今まで甘やかし過ぎたか」

「どうでしょうねぇ」

「それとも、何処ぞでられたか」

イザドラは冷めたコーヒーを啜ると、苦々しげにデスクに置く。

「物騒ですねえ」

「休みの日でも連絡が取れるヤツだってのに」

「心配なら、家に人をやりますか?」

「住所通りの場所に住んでないと思うぞ」

「はぁ」

「隠れ家を何軒も持ってるからな」

ちなみに森山は堅気だ。事務所にはこうした人間も居る。

「でも、もしかしたら住所通りの家に居るかも知れませんよ?」

「書類だと、高層マンションのペントハウスに住んでることになってる。アイツはそんな所で寝起きしない」

「えー?もったいなーい」

「誰かがアイツを狙うとしたら、まずそのペントハウスを当たる。そんな危ない所に居着いてるとは思えん」

「じゃあ、そのペントハウスで死んでるのかも知れませんね!」

森山の発言には何時だって悪意は無い。

「そ、そうだな」

「じゃあ、早速誰か遣りましょう」

そういうことになった。

「うむ、ちょうど暇そうなのが居る」

イザドラはブラインドからオフィスを見、標的を定めた。


目抜き通りから何本か奥まった所にニョッキリ生えた高層マンション。

その足元には、昔からある傘屋に履物屋、浪人生が店番をしている駄菓子屋に、奥から煮物の匂いをさせるタバコ屋が並んでいるという、妙な趣がある眺めだった。

近所には小学校もあるので、文房具屋もある。

多々良莉乃と鈴木蓮水は、文房具屋でピンクのレターセットを買い、駄菓子屋の前のベンチでお見舞いのメッセージを書き、備えた。ピンポンを鳴らしても返答が無かった場合は、これを郵便受けに投函しておこうというわけだ。

「ふぁんへひ」

「何?」

莉乃は、さっき買ったガリガリくんを口から放して、

「完璧」

と言直す。

「で、信田さんはここに住んでるの?」

蓮水はマンションを見上げる。仰け反った蓮水のノドに、莉乃がガリガリくんを思わずピトっとやってしまうくらいに、高いマンションだ。

「行ふぃまひょ」

蓮水が先行する。

「あたしのガリガリくんがぁ」

未必の故意をやらかした莉乃は、アイスを没収されながらも、続く。

自動ドアを入る。

マンションの一階は、まるでホテルの様なロビーだった。

フロントらしきカウンターもある。

カウンターの中に、おじさんとお兄さんの境目で頑張っている男が、座っていた。

警備員の佐丸だ。制服である青い背広の胸にネームプレートを付けている。

蓮水は急に怖気が付いたのか、ガリガリくんを莉乃に返して、莉乃の後ろに回る。人見知りらしい。

莉乃は、残り僅かとなったガリガリくんをオッさんが焼き鳥をそうする様に前歯で、棒をヒョイと咥えて、カウンターに向かう。

「たのもう」

「ご入用ですか?」

「はい、信田千香子さんを訪ねて来ました」

「信田様。ああ、馬場様ですね」

「え?あ、あー、そっか」

信田千香子は、馬場貞人の養子になった時に苗字が「馬場」に変わっている。しかし、学校では「信田」で通している。入学手続きをした時にはまだ信田姓だったこともあるし、「信田」の方が響きや字面も良い。と、千香子は思っているらしい。

「馬場もいいじゃん!」

と、いつだか莉乃は言ったことがある。

「だって『悪魔のいけにえ』のレザーフェイスの名前だよ?ババって!」

と力説したが、千香子にはイマイチピンと来なかった様子だった。スプラッタ映画は観ないらしい。

「はい、その馬場千香子さんです。何号室ですか?」

莉乃は佐丸に問うた。

「馬場様は最上階のペントハウスにお住まいです」

「へぇー」

「へぇー」






「え?」

莉乃と蓮水は耳を疑った。

あの、短いお下げ髪の、水着焼けしている、痩せっぽちで、サインコサインタンジェントが苦手な、大口を開けてフィレオフィッシュにかぶりつく、千香子が。

ペントハウスに住んでいると言うのか。

「ペントハウスって、何?」

蓮水が問うた。ペントハウスとは何か?と尋ねているのではない。ペントハウスとは、私やみんなが思うあのペントハウスで良いのか?そして千香子は何故そんな所で暮らしているのか?という尋き方だ。

「スゲェ」

莉乃は思わず感嘆する。

この一階のロビーですら、小さい家なら収まってしまう程の広さだ。そんなマンションのペントハウス。それは現代の城だ。

「しかし申し訳ございません。馬場様は今朝からお出かけになっております」

佐丸は腰から折って頭を下げて見せる。

「うえ?マジで?」

「はい、マジなのです」

「どこに行ったの?」

「おっしゃいませんでした」

「学校休んでまで、どこに行ったんだろ」

「存じませんが、今朝の暗い内に、お父様と車で出られましたねぇ」

「お父さん?お兄さんじゃなくて?」

「千香子様はお兄様とお呼びですね」

聞いていた蓮水が身を乗り出して、

「何それ?」

と鼻息荒くさせる。

「え?ちかちーのお兄さんの話?」

莉乃が応じようと、否、宥めようとした時、

「おい!最上階にはどのエレベーターから上がるんだ?」

とロビーに響く声があった。

「このエレベーター、一番上まで行かないんだもん」

イザドラ・ハッチェンと真田遥がエレベーターの前に並んで立っていた。

15の娘っ子二人は、突如現れた、シベリア育ちのハル・ベリーにプロテイン注射をした様な美人と、並の美人と言えなくもない女に、困惑した。

「ペントハウスだ。どう行く?」

イザドラはツカツカと歩いて来ると、莉乃と蓮水を無視して、佐丸に詰め寄る。

「馬場様をお訪ねですか?」

佐丸は動じず応じる。

「はい、そうです。連絡が取れなくて」

遥は特に心配もしてなさそうだ。

「今日は一日出ておいでです」

「どこへ?」

そこへ莉乃が割って入り、

「わからないってさ」

と、イザドラと遥を見上げる。

莉乃の背が低いわけではない。イザドラと遥の背が高いのだ。

「なんだ、ガキ」

イザドラはどこまでも無駄に高圧的だ。

「そっちこそ、なにその態度」

莉乃は気が強い。元々物怖じしないタイプだ。

「あいつの知り合いか?」

「いいえ」

「じゃあ何だ?」

「言う義理は無いかな」

「なんだこのガキ」

「なにこの高血圧」

「礼儀がなってねぇな」

「どっちがですか」

イザドラと莉乃の静かなる迫力は、遥と蓮水がブレイクさせに入らなければ胸ぐらの摑み合いになる寸前だった。

「私達は、千香子さんの友達です」

蓮水が代わりに対応する。人見知りなどと言っていられない。

「ちかこ?」

イザドラと遥は眉をひそめた。

何の話か分からない2人は蓮水を問い正したかったが、莉乃がイザドラにガリガリくんの棒を投げつけたので、ひとしきりワチャワチャすることになった。

4人が薄っすら汗をかき、無為なすったもんだがバカバカしくなった時、また1人、別の人物が現れた。

「何やってる」

イザドラはその人物を認めると、冷静に名を呼んだ。

「ボンベイ」

馬場貞人だ。疲れた様子で、溜息を吐いている。

「え?誰?」

今度は莉乃と蓮水が頭上にクエスチョンマークを浮かべる番だった。

「あ、リノっちとハスミンだ」

貞人の背後から現れたのは、千香子だった。

頭には某ネズミキャラクターの耳を模したカチューシャを付け、某夢の国ランドの袋を抱えている。

「なに?どしたの?」

千香子はすこぶる元気そうに駆け寄る。

「ボンベイ、このガキ共は?」

「ちかちー、この人ら何?」

様々な思いが交錯し混沌として来たところで、馬場の鶴の一声。

「この人数は、ピザだな」


夜になっていた。

ピザはラージサイズが4枚。フライドポテトやチキンナゲットも山盛りだ。

バングラデシュが養えるくらいの量を、6人で分けて食べる。

話しつつ、食う。食いながら、話す。

「つまり、ボンベイよう。お前、人の親になったってことか?」

メイプルシロップをかけた4種のチーズピザを齧りながら、イザドラが問う。メイプルシロップが、メイプルシロップ色の肌をした頬を伝う。

「そうだ」

「言えよ!」

「管理に保険証の申請出してたろ」

「管理本部の書類なんて見てねぇよ」

一方、海苔のかかった照り焼きチキンピザにかぶりつく莉乃が、

「何で返信くれなかったのさー」

と千香子にボヤく。

その莉乃の口の端に付いた海苔を、千香子は取ってやりながら、

「だって、生まれて初めてのディ○ニーランドだったんだもん。携帯の電源切ってた」

「信田さん、楽しかった?」

蓮水も頑張って輪に加わる。密かに、口の端に海苔がくっ付く様に食べているが、うまくくっ付いてくれない。

「凄く楽しかった!もーね、凄いよー!」

「親もグルで、学校ズル休みしてディ○ニーかぁ。いいなぁ」

と、漏らすのは、サラミピザとジャーマンピザを両手に持った遥だ。

「ボンベイ、お前も連絡くらいしろ。大人だろうが」

イザドラは、垂れるチーズを口で下から迎えに行きながら言う。実に説得力のある社長の言。

「勤怠なら全体チャットで飛ばしたよ」

「お前チャットワークなんて、この3年で1回も使ってねぇだろ」

「見てないのが悪い」

「にぃちゃん」

と、千香子がポテトをムシャこら食べつつ声をかけてくる。両サイドの莉乃と蓮水をポテトで指し、

「多々良莉乃ちゃんと、鈴木蓮水ちゃんです。お友達です」

と紹介した。

「どーもです」

「初めまして」

莉乃と蓮水は、家に入った時はその広さに圧倒され、次に騒ぎ、やがて落ち着き、今は少し萎縮している様子だ。

「はい、どうも初めまして。千香子がお世話になってます」

貞人は微笑を湛えて、柔らかいトーンで挨拶する。

「お前、本当に父親みたいに見えるな」

イザドラは感心している。

「父親だ」

イザドラを見やる時はいつもの仏頂面になる貞人は、まるで阿修羅だ。

「お兄さんなんですか?お父さんなんですか?どっちですか?」

と、貞人に尋いたのは、蓮水でなく遥だった。

「話すと長い」

「私には特に、ね」

貞人と千香子が答えて言う。


12年前。

極東動乱の端緒となった、関東同時多発テロ。

多くの死者を出したこの事件は、多くの孤児を生んだ。

信田千香子もその1人だった。当時2歳。

両親と姉が死に、生き残った千香子は、施設に入れられた。

当時、馬場貞人は施設でも年長者で、入って来る子供らの面倒を見ていたという。

千香子は、14歳上の貞人を兄の様に慕い、いつもくっついていたと言う。

月に一度の養子オーディションで、いつも膨れっ面をして、態と貰われることを拒んだのは、貞人の側に居たかったからだ。

しかし、2年後には貞人が18歳になり、施設を出て一人立ちすることになった。その時、千香子はひどく泣いたそうだ。

貞人は、いつか迎えに来ると言って、施設を去った。暫く手紙や電話はあったが、それが月に一度になり、三月に一度になり、半年に一度となって、不意にパッタリ来なくなった。

それでも、千香子は貞人を忘れなかった。

相変わらずオーディションでは悪ガキを演じていたが、それはいつか自分を迎えに来る貞人のことを信じていたからだ。

だが、貞人からの沙汰は無かった。

10年後、千香子は複数のラジオ番組に、自分と貞人の話を投稿し、取り上げられるに至った。

偶然それを聴いていたのが、佐丸だった。

自分の警備しているマンションに、確かに馬場貞人なる人物が住んでいる。クビを覚悟でそう便りを返した佐丸のおかげで、千香子は貞人を見つけたのだった。


「で、今に至る、と」

バルコニーで食後のタバコを吸うイザドラと、葉巻を咥えた貞人は、日光浴用のベンチに座って紫煙を燻らせていた。

「随分粘られた」

「そうだろうよ」

「何度も断ったが、ある雨の日にな。ずぶ濡れで座っててな、玄関の前に。佐丸、あの警備員が入れたんだろうが、ここまでやるのかって思って、情に絆されてな」

馬場は煙を苦そうに吸い、鼻から吹いた。

「らしくもない」

イザドラは惨めな人間を見る様に貞人を見、ロックグラスの中の、溶けきった氷にタバコの灰を落とす。

「だよな」

「お前が、その馬場貞人本人じゃないと知ったら、どう思うだろうな」

「殺されても仕方ない。昨夜、ハッキリそう思った」

「で、罪滅ぼしに遊園地に連れて行った、と」

「罪か。うん、罪だよな」

「今更何言ってんだ。因果応報を信じてるのか?」

イザドラが可笑しそうに尋ねる。

「俺が昔見た映画で、ジェームス・カーンが言ってたよ。因果は満足感の無い正義だって。正義なんて信じない、ってな」

貞人も同じ様に笑うが、吐く煙に力が無い。

「知ってる。あの映画は好きだな」

「ゲイカップルのゴロツキが、親子を引き裂くって話だった」

「で、最後はゴロツキ2人は、死ぬ」

「死ぬ所は映ってないぞ?」

「悪党は死ぬのさ。映画ってやつでは、大体」

イザドラはタバコをグラスに入れ、火を消す。

「俺は、映画は嫌だな」

「そうだな」

2人が見る夜景は何処までも美しかったが、そこから見える街の灯は、殆どが住宅地の物だ。温かい光だが、2人には遠い光でしかない。間に漂う、野良犬や野良猫が彷徨く闇こそが、2人の居場所だった。

「おーい!」

中から千香子が2人を呼んだ。

「リノちゃんとハスミン、そろそろ帰るって!」

貞人は、葉巻の中の煙を吹き出し、アルミの筒に仕舞うと、

「車で送るから少し待ってもらって!」

と答える。

千香子が奥に引っ込むと、イザドラは、

「それを見越して、飲まなかったのか?」

「うん」

「お前、父親みたいだな」

と、目を丸くする。

「父親だ」

貞人はまた夜景に目をやりながら、居住まいを正す。

「ドラマの中の父親を演じてるだけだが」

「ボンベイ、お前、家族の話とかしないよな。本当の家族の」

「お前だってしないだろ、ベルファスト」

言われたイザドラも、手すりの向こうを見る。

「私ら、みんなそうだったよな」

「うん」

「みんな、出身地名で呼ばれるのが嫌でさ。地元思い出しちゃうから。だから、取っ替えっこしたんだよな。アダ名を。私はイギリスに行きたかったんだ」

イザドラは腕を組む。まるでドーバーの白い崖を臨む様に。

「お前の元々の名前、何だっけ?ダラスだ。ダラスって名前、みんなが交換してくれって、人気だった。でも、リバプール出身が居なかったのは残念だったな」

「ああ。でも、ベルファストも気に入ってる。いつか行きたいね」

イザドラも立ち上がり、ズボンに溢れた灰を払う。

「オオサカ覚えてるか?」

ボンベイが問う。

「オオサカな。デカい黒人がオオサカって名乗ってるのは、面白かったな」

ベルファストが答える。

「俺ら下っ端だけ、生き残っちゃったよな」

「立ち回るのが上手かったからな」

2人は並んで、冷たい夜風に背を向けた。


莉乃と蓮水は、貞人が。

イザドラは、遥が、送ることになった。

高校生にオトナの恋愛話を穿り返されて草臥れていた遥は、イザドラの49年型マーキュリーのハンドルを握らされ、重いハンドルを必死に操りながら、道路を去った。

その直前、助手席のイザドラが指鉄砲で貞人を撃った。ばーん、と。

莉乃と蓮水を後部席に、千香子を助手席に乗せて、ワーゲンを出した。勿論、彼女らの家にはそれぞれから連絡がされている。

彼女らの家を回り送ると、夜も更けていた。

2人が乗ったワーゲンは帰路に着く。

バイパスに乗ると一本道だ。この時間は道も空いている。

千香子は静まり返った車内で、音楽をかけようと、ステレオに直結した携帯プレーヤーをスイスイやっていたが、やがて指を止め、膝に手を置く。

「にぃちゃん」

「ん?」

「今日は凄く楽しかった」

「そうか。良かった。思わぬ来客もあったしな」

「うん、閉園時間まで居ると混むからって、早めに切り上げて正解だったよね」

「多々良さんや鈴木さんだけなら、同意できるが」

「にぃちゃんの仕事先の人達ってさー」

「うん?」

「綺麗だよね」

千香子は貞人の左肩に軽いジャブを入れる。

「危ないから。事故るから」

「このこのー」

「見た目は良くても根性が悪いのは、いい女とは言わん」

「そんなもんですか」

「そんなもんです」

沈黙。

エンジン音は殆ど車内に聴こえない。静かな夜だ。

「あのさ」

千香子が真っ直ぐ前を向いて、口を開く。

「私を、施設に戻したい?」

貞人がもう少し気の弱い男だったら、ワーゲンは今頃ガードレールに突っ込むところだ。

「藪から棒だな」

「なにそれ」

「いきなり何だ、ってことだよ」

「いやさ、急にディ○ニーだなんて。しかも、朝暗いうちから連れ出して」

「いけなかったか?」

「ううん。スゴく嬉しかった。開園前から並んでくれるなんて、張り切ってるんだなって」

「それなら良かったじゃないか」

「ミッ○ーの耳まで付けてくれたし」

「それはおまえ、郷に入っては郷に従えと言うしな」

「嬉しかったよ」

「うん」

「ありがとう」

千香子はサイドミラーの方を向いて、頬を伝う物を隠した。

貞人の様な人間でも、千香子が向こうを向いた理由くらいは察しがついた。

「あんまり楽しいからさ、なんか、勘ぐっちゃって」

「……」

「私に悪いことでもしたのかなー、とか。それとも、これからするのかなー、とか」

こういう娘なのだ。

千香子はこれまでの人生が不幸過ぎた。

故に幸せに対して懐疑的で、薔薇園に居たとしても、薔薇の匂いは突き詰めれば糞の臭素と同じだなどと思ってしまう、そういう質なのだ。

彼女が臭素のことを知っているかはさて置き、彼女が抱く、斜に構えた心持ちは理解出来る。

それが不憫でならなかった。

その人生に対して、貞人は大いに責任があった。

凡そ責任などという物とは無縁の生き方をして来たからこそ、千香子に対して覚える引目は、吐き気を催すほどだ。

千香子の頭を撃って埋めてしまえば、気も楽になろう。だが、それで本当に気が晴れるのかは疑問だ。

恐らく、良心の呵責からは一生逃げられない。

自分に良心なる物が残っていたのは、幸か不幸か。

逃れられないのなら、最後まで付き合うしかないだろう。

「悪いが、一緒に暮らしてもらうぞ。嫁に行くまではな」

そういうぶっきらぼうな言い方しか出来なかったが、それは貞人の性格が捻くれているからではない。単に恥ずかしいからだ。

「今まで放ったらかして、すまなかった。俺のことなんか忘れてると思ってたんだ」

千香子は俯いて、膝を見つめている。もう目から溢れる粒は隠さない。

「今までの分、沢山甘やかしてやるつもりだ」

そういう覚悟を決めたのは、言った後だった。

千香子は顔を上げ、泣き顔で笑った。

長いバイパスを降りるワーゲン。家はすぐそこだ。

千香子のプレーヤーから、The Three Degreesの「Everybody Gets To Go The Moon」が流れ始めた。



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