お兄ちゃんは殺人マシーン
@sodom_vs_godzilla
第1話 兄妹
朝食はエビとサーモンとアボカドのホットサンドと、スクランブルエッグ、オレンジジュース。スクランブルエッグは生クリーム仕立てでチーズ入りの、ふわとろ仕様。オレンジジュースはジューサーで作った、ホンモノ。
どれもあっという間に胃に収まってしまった。
信田千香子は朝食を欠かさない。特にこの家に来てからは、毎朝だ。
15歳、成長期。まだまだ背も伸びるし、アチコチ出てくる、はずである。
朝食を作ってくれたのは、養父の肩書きを持つ「にぃちゃん」こと、馬場貞人。
今朝も、徹夜仕事を終えたばかりであるにもかかわらず、この朝食を用意してくれた。
親を知らない千香子にとって、こんな優しく頼りになる兄は理想と言うべきか、拝め奉り、愛でさすりしたくなると言うものだ。
倍近く歳が離れた2人は親子の様でもあり、兄妹の様でもあり、別なカンケイに見えなくもない。
「なーんて」
千香子は食器を台所に下げつつ、片付けたアイランドでコーヒーを飲んでいる貞人を見やる。
「何か言ったか?」
「何もっ。ごちそーさまでした!」
「うん」
貞人はTシャツとジーパン姿で、健康スリッパを爪先で玩びながら、眠そうな目でマグカップに視線を落とす。マグカップを持つ右手の腕にテーピングがしてある。確か、腱鞘炎らしい。その下に、体の線の割に太い筋肉と、血管が走っている。男らしい腕だ。
この男の人と間近に暮らすことになったのが一月前。千香子にはまだまだ新鮮だ。
そして、馬場貞人にとってもまた、千香子という存在はそれなりに新鮮らしい。
しかし、この間まで千香子のセーラー服を珍しそうにチラチラ見ていたのに、最近は見慣れて来たのか、そこまで見てくれない。
もうすぐ夏服になるので、そうなればまたチラ見してくれるだろうか。
「いってきます!」
カバンを掴んで、玄関へ。
男の一人暮らしには広い家だ。むしろ広過ぎる。吹き抜けのリビングはまるで体育館だ。南側の窓は、巨大な一面のガラス。それだけでいくらするのか。ゆくゆくは私立大学にいってやろう、そうしよう。
少し小さくなった、履き古しのスニーカーに足を突っ込んで台所を振り返るが、見送りは無い。
今朝も見送りは無しか。朝食は作ってくれても、そういう所が抜けている。バカなヤツだ。バーカ。
「いってくるねーっ!」
軽トラでぶつかってもビクともしなそうな玄関のドアを開いたところで、
「おい」
と、ノラ猫が散歩する様に貞人がやって来た。
身のこなしは猫っぽいが、顔はどちらかと言うと犬顔だ。シベリアン・ハスキーだ。やっと娘を、いや、妹を学校に見送る気になったか。親犬よ、子犬はこの時を待っていたぞ。心の尻尾が千切れんばかりに振れている。
「弁当、忘れてる」
貞人がTSUTAYAの袋っぽい物を渡して来た。
元々何に使っていたのか分からないが、貞人が千香子に作る弁当の袋だ。
ちなみに、弁当箱はただのタッパーだ。レンジ温めに対応している点は褒めて遣わして良いが、可愛げが無い。
「う、あ、ありがとう」
「うん」
色々と惜しい兄だ。いや、養父ではあるが。
そもそも、ご飯や弁当を作ってもらっておいて文句など言えない言わない言いたくない。信田千香子もそれくらいの心掛けは出来る娘だ。
「じゃ、いってきます!」
「ん」
ドアを閉めて、専用エレベーターに乗り込む。家鍵であるカードキーをシャッとやると、自動的に一階へ。一階と最上階にしか止まらないエレベーターだ。
「『ん』だけかよ」
いってらっしゃい、だろう、普通は。
いやいや、朝食に弁当に専用エレベーターだ。文句を言ってはバチが当たる。
一階のホールがまた広い。天井が高い。まるでナカトミビルのエントランスだ。
「お、いってらっしゃい!」
警備の早番、佐丸。千香子はこの男に恩がある。
「いってきます!」
この男が勤務中にラジオを聴いていなかったら。千香子の便りが読まれるのを聴いていなかったら。千香子はこうしてここに居なかっただろう。きっとまだ施設で暮らしていたに違いない。馬場貞人という男がここに住んでいることが分かったのは、佐丸のおかげだ。
今日を、この日を、感謝しよう。アーメン。
駅までの道を急ぐ。この道にも慣れてきた。
環境の全てが新しくなって一ヶ月。まだ慣れなければならない事が山盛りだ。
「にぃちゃんめ」
千香子の五月病の半分は、あの貞人のせいだ。
馬場貞人はその3時間前に帰宅していた。まだ辺りは暗かった。
忙しい夜だった。
珍しく海外の案件が入り、クライアントの用意したチャーター機で現地入りしたのが昨日の昼。道具一式は貞人の私物で持ち込んだ。クライアントの取り計らいで、荷物の中身はお咎め無しだった。
極東戦争で主権が曖昧になった、とある東南アジアの小島を根城にしている特定の集団が、今回の相手だった。
こんな大変な仕事は滅多に無い。年に一度あるか無いかだ。
大勢を相手に立ち回るのは、骨が折れる。文字通り骨折をしたこともある。
彼らから
賑やかな水上パレードを引き連れて、本土の桟橋へと戻り、エンジンをかけっぱなしで待っていたバンに駆け込み、通訳と
チャーター機の中で出されたミネラルウォーターも飲まず、最後まで油断することなく日本へ帰り着いた。朝に近い深夜。
シャワーを浴びながら柔軟体操をして、体をよく解し、洗濯も済ます。
仕事道具を作業部屋に仕舞い、千香子の目に入らない様にする。
既に22時間覚醒しているが、まだ目は冴えている。まだアドレナリンが残っているのかも知れない。
チーズオムレツと濃いめのコーヒーを朝食にし、千香子の弁当と朝食を用意した頃には、太陽が昇っていた。
千香子が朝食を頬張る姿を眺めつつ、台所の壁掛けテレビでニュースを観る。
昨日は、海の向こうであれだけ沢山の花火が上がっていたと言うのに、芸能トピックや占いのコーナーは今日も下らない内容や嘘を垂れ流している。
「わっ、射手座1位!やりぃー!」
千香子は何やら喜んでいる。射手座だったのか。
貞人は何座だ?戸籍上は?そして、自分の本当の誕生日は?
どちらも忘れかけていた。危ないところだった。
「にぃちゃん何座?」
心が読めるかの様に、千香子が尋ねて来た。
「占いや咒は信じてないよ」
「うわ、出たー。こんな下らないことにも付き合えない器の小さい自称オトナ」
的確な批評に、貞人はもう飲みたくもないコーヒーをマグカップに注ぐ。
「山羊座だ」
「だよね。知ってる」
知ってるのかよ。
そんなやり取りをした後、弁当を忘れかけた千香子に弁当を投げ渡し、見送った。
玄関を出て行く子供を見守る親の気持ちとは、かような物か。別に感想は湧かない。しかし、面白いとは思う。
暫くはこの家族ゲームに付き合ってやるのも、悪くない。すっかり痩せ細った己の良心が、ほんの少し、潤う様な気がした。
昼休みに入った途端に起こる、購買部の人気パン争奪戦というヤツは、どこの高校でも見られる現象である。
学園モノには必ず付き物だし、退屈な学校生活における派手なアクションを展開できるハイライトだ。どの主人公も必ず、チャイムと共に走り飛び押し除け転がってでもパン獲得に命をかける。
千香子の様な元気系キャラクターの真骨頂を披露できる機会でもあるので、特筆したいところではあるが、千香子は弁当を欠かさず持参する。そんな鯉の餌付けには縁が無い。
しかし、今日は違った。
二限に体育があったので、お腹が空いて早弁をしてしまったからだ。残りの弁当のオカズでは足りない。若さとは、溢れるエネルギーと比例した渇望との戦いだ。とかなんとか。
チャイムと共に足音が廊下を駆け抜けて行く。
同じクラスからも駆け出して行く生徒がチラホラ。
だが、千香子は焦らない。悠々と歩いて購買部へ向かう。
購買部への曲がり角まで、既に列が出来ていた。
昼になると購買部の横に長机が出て、そこで給食センター職員が出張でパンやオニギリを売ってくれるのだが、千香子はその横の階段を降りる。
下には教員用の通用口があり、その外に給食センターからエサを運んで来た軽トラが停まっている。
「こんにちは」
「お、来たね、ちかこちゃん」
運転手のおじさんが、未だ搬入していないパンを直売りしてくれるという裏技。
誰でも使える裏技ではない。
要は、おじさんが運転するこの軽トラのルームミラーに貼られた「一番星」ステッカーを見て、「菅原文太、私も大好きです!」と言えるかどうかだ。こちとら長年施設暮らしをしていない。人の出入りが激しかったので、決まった友達も居なかった。テレビや映画なら山ほど観た。
「どれにする?」
「メロンパンとタマゴパンをお願いします」
ニッコリ笑ってやれば、後は適当に話を合わせてやるだけで、目的のモノがすぐに手に入る。うっしっし。
こういうマネが出来る様になって来た千香子は、しっかり大人として成長しつつあった。
そんな五月の昼。
教室で弁当の残りを平らげてからメロンパンにむしゃぶりついていると、
「ちかちー」
他クラスの友人、多々良梨乃がやって来た。
「おー、らりらり。今日もラリってる?」
「人聞きが悪いからやめて」
多々良梨乃。らりの。だから、らりらり。
「今日、部活行く?」
と、ラリパッパ。
「んー、今日はどうかな。あたしが夕飯作る日だからさ」
「そっか」
千香子は梨乃と同じ水泳部の所属だ。
少人数の弱小部な上に、そもそも学校にプールが無いので消防署近くの市民プールで活動している体たらく。
しかし、それくらいの方が千香子には都合が良い。運動も良いが、ガチンコでやる程パッションがあるわけでもないし、帰って家事もせねばならない。
「お兄さんと暮らしてるんだよね?」
「そ。対等な関係でいるには、あたしも家事しないと」
「大変そうだなぁ、なんか」
「まー、前よりマシだけど」
「あ、そうだよね」
梨乃は小さい頃から水泳をやっているので、ただの泳ぎ好きの千香子にとっては先輩であり、聴いている音楽の趣味が同じソウルメイトでもある。今朝踏んだ犬のウンコの話から、未だ見ぬ世界平和まで、何でも話してしまう相手だ。
千香子は、この通りの率直な人となりで、早々と梨乃からの信頼を得、会って一月余りで数年来に匹敵する仲を作り上げてしまった。
千香子と合わない人間は本当に合わないが、合う人間はレゴブロックの様にガッチリとハマる。
「今度さ、ちかちーの家遊びに行くよ」
「いいともっ」
千香子は思わずにこにこしてしまう。
「施設に遊びに来る友達なんて居なかったから、嬉しい」
「私は、ちかちーがどこに住んでようが遊びに行くよ?」
梨乃は飄々と、しかし、ハッキリした口調で、そう言った。千香子はレズビアンではないが、梨乃を押し倒したくなった。
「ドクロを飾った洞窟でも?」
「それは遠慮する」
貞人は睡眠を取ってから、夕方、オフィスに顔を出すことにした。
報告だけ済ませたら、メールチェックをして、すぐに帰るつもりだ。
地下の車庫からシルバーのフォルクスワーゲンを出し、安全運転で国道を行く。
いつもならAMラジオを聴きながら運転するが、今日は音楽を聴くことにする。
運転にはラロ・シフリンが最高だ。一度かければ、このドイツ製大衆車もマスタングに変わるというものだ。
思わず踏み込みそうになるアクセルを程々に、制限速度プラス5キロ程度で走る。
オフィスは三階建てのカステラの様なビルだ。
一階が駐車スペースで、二階と三階がオフィススペースになっている。マスタングを乗り入れドアを閉めると、いつの間にかマスタングはワーゲンになっていた。
カードキー端末にカードを通し、暗証番号を入力してオフィスに入ると、人は疎らだった。
このフロアは外回りが多い性格上、これは平常通りの様子と言える。
三階はオフィスワーク専門の人員が詰めている。皆、数字と格闘していることだろう。
二階の奥には社長室がある。三階でなく、この汗臭い階にあるのが、あの社長らしい。ガラス張りの向こうから、フロアを睥睨している。
「よう、ベルファスト」
ドアを開けて挨拶する。
「おう、ボンベイ。生きてたか」
社長のイザドラ・ハッチェンは、29歳。貞人と同い年だ。
アングロサクソン、プエルトリコ、アフリカン・アメリカン、複数の混血。無国籍で多国籍な目鼻立ちは、何処か神秘的ですらある。
元々十代からトライアスロンのオリンピック選手だったが、ハタチ前でこの世界に飛び込んだ傾奇者である。体は今でも鍛えており、パンツスーツの尻や腿が張っている。
アメリカ人だが、アダ名はベルファストだ。所以は話せば長い。
ちなみに貞人のアダ名はボンベイ。同上。
「また稼ぎやがったな」
日本語が達者なのは、幼少期に日本に住んでいたからだという。しかし本当は、昔から時代劇が好きだからだろう。家に若山富三郎のポスターを貼っているくらいだ。
「楽しい案件だった。ありがとうよ」
皮肉たっぷりに貞人は言うと、マホガニーのデスクに片尻を乗っけて、半身でイザドラを見下ろす。椅子に深く腰掛けたイザドラは肘掛けで頬杖をつく。
「怪我は?」
「無いよ。そもそも労災は下りないだろ?」
「バカ。心配してやってんだ」
今回の件は非合法だったので、帳簿には残らない。会社的には存在しない案件だ。
「俺の取り分は?」
「お前が飛行機に乗った時点で、キャッシュで受け取ってる。私の紹介料を引いて、残りがこれ」
イザドラがキャビネットから取り出した包み紙は、レンガくらいの大きさがある。
「700万ってとこか?」
「惜しい。680万」
渡された包み紙の重みが、昨日の苦労を思うと軽く感じる。思わず、
「安いな」
と漏れてしまう。
「大仕事にしちゃあな。でも、経費は全部向こう持ちだったわけだし」
「まあ、な」
「ピンハネはしてないぞ」
「わかってる」
イザドラと貞人は十年近い付き合いになる。
素人同然で出会い、同じ釜の飯を食い、同じ弾の下を潜り、同じ女を共有したこともある。
「戦後の商売ほど美味くはないわな」
イザドラは笑う。ここは元々密輸ビジネスで成した財を元に作った会社だ。貞人が住むペントハウスも、その時の分け前で買った物だ。
「しばらく休んでいいぞ?」
「いや、いい」
包み紙の中を覗いてから懐に突っ込むと、ドアに向かう。
「明日は普通に出勤する」
「そんなに仕事が好きか?」
「嫌いじゃないってだけ」
貞人は溜息を吐くと会社を後にする。
夕飯の買い物をして、帰路に着く。買い物する場所は毎回変える。帰るルートも毎回違う。そういう癖がついている。
レストランに入る時は角の席につくし、出入口が一つしか無い建物には入らない。鼻をほじる時でも背後を気にする。
そうでないと、安心出来ない。
しかし、これだけやっても、防げない物は防げない。誰かが誰かを狙えば、それは即ち可能なのだ。
貞人は経験からそれを知っている。
貞人は、狙った相手がどこに隠れていようと見つける。会いたい相手は、捜して会いに行く。それが貞人の仕事だ。
学校帰り。
千香子がスーパーの前で待っていると、貞人のワーゲンが駐車場に入って来た。
車から降りてきた貞人は、仕事に行って来たのか、背広姿だ。
「すまん、待たせた」
「いいよ、夕飯の当番あたしだし。むしろ買い物付き合ってくれて有難う」
「カレーが食べたいんだが」
「早速リクエスト?いいけどさ」
二人で手分けして材料を買い込み、ワーゲンに乗り込む。千香子としては、もっと、赤い手拭いをマフラーにしている様な二人として買い物がしたいのだが、効率が優先の誰かがすぐ個人行動を取るから困ったものだ。
少しイラついたので、車中で音楽を爆音再生してやる。サウスセントラルのリンカーンコンチネンタルもかくやとばかりに、ドンツクドンツクと移民の歌を鳴らしてやった。
帰ったら直ぐ様、制服の上にエプロンを着けてキッチンに立つ。
貞人も、背広をシャツとジーパンに着替えてから降りて来ると、何も言わずジャガイモの皮を剥き始めた。
二人で台所に立つのは、良い。新婚さんの様だ。
「あたしのカレーの秘密、知らないでしょ?」
「秘密?」
「そ。あたしが初めてここに来た時、作ったじゃない?」
「あれは美味かった」
「あたしのカレーは、美味しさの秘密があるのですよ」
「ほう」
「横で見てれば、わかるよ」
手伝いに飽きると筋トレを始めてしまう貞人を、このまま台所に居させるにはこういうフックが要る。
壁に埋め込まれたUSBソケットに音楽プレーヤーをセットし、お料理のBGMをかける。天井のスピーカーからモータウン黄金期の名ナンバー達が流れ始める。
リズムに合わせて肩やお尻を揺すりながら、たっぷりの野菜を炒める。野菜の水分と、牛乳。水は使わない。それが千香子カレーの奥義だったりする。
「ほほう」
貞人は感心している。どんなものだ。
水を使わないことで、素材の旨みを活かしたカレーが出来る。
そのぶん、カレー粉の量は控えめにする。でないと塩辛くていけない。塩梅が難しいのが、この水無しカレーだ。
「言うは易し、行うは難し、なんだから」
「難しい言葉知ってるな」
「褒めてもこれ以上美味しくならないよーだ」
カレーは美味い。千香子のカレーは更に美味い。そして、誰かと一緒に食べると、これまた美味い。それが好きな人となるとゲフンゲフン。
その夜のカレーは、やたら美味かった。
貞人が用意したマンゴーラッシーの甘さが、少し辛過ぎたカレーを相殺してくれた。だからだろう。
その夜、宿題を終わらせた千香子と、筋力トレーニングを終えた貞人は、一緒にテレビを見、寝る前には「メリー・ポピンズ」を観た。
就寝は23時だった。
貞人の寝室は、吹き抜けの階段を上がった北東の角。
普通の家ならリビングにもなるであろう80畳はある広い部屋だが、ベッドの他は、ローイングマシンとチンニングスタンドが置いてあるだけだ。
家の中に家具は殆ど無いが、寝室は特に殺風景だ。
ベッドは新品同様で、シワひとつないシーツでメイクされている。しかし、トレーニングマシン達は、巻かれたテニスのグリップテープがボロボロになる程、使い込まれている。
この寝室はトレーニングにしか使われていない。貞人が眠るのはベッドではない。
貞人が眠るのはウォークインクローゼットの中だ。
クローゼットだが、広さは8畳程ある。
その空間だけは人間らしい空間になっていた。
万年床に、テーブルとパソコン。衣類が入るはずの棚や引き出しに本やビデオ、オーディオが並び、小さな冷蔵庫まで置いてある。
大型マンションのペントハウスに住む人間の寝床とは思えない。
貞人は布団から、モニターの中で叫ぶフェイ・レイを眺めていた。
この広い家に住んではいるが、落ち着くのはこのクローゼットの中で、ゆっくりしている時だけだ。予定が無い日はここから出ない事すらある。
深夜にこの寝床で本を読んだり、映画を観たりしている時が、貞人には幸せだった。
しかし、ここ最近はそういう時間も減った。
千香子という大きな娘が出来たことで、自由な時間が減ったのだ。
嫌なわけではないが、どうもしっくり来ない。今までずっと独りでやって来たからだ。誰かと一緒に暮らすというのは、居心地が悪い。
居心地は悪いが、楽しくはある。千香子を見ていると、楽しいのだ。
子犬を飼っている様なものだ。そこらにオシッコをション撒き、クソをプリ撒くのはイラつくが、その愛らしさで許せてしまう。
千香子はキチンとトイレに行くので、餌だけやっていれば良いし、多感な時期の女の子にしては従順だ。
人と話をするというのも悪いものではない。そうも思う。これまでの人生で、「おかえり」や「ただいま」を言ったり言われたりする相手というは、死んだ母以外に居なかった。
「おはよう」、「いってきます」、「いってらっしゃい」、「おかえり」、「ただいま」、「ウノ」。そういう言葉のやり取りが、少しずつ楽しめる様になって来た。ウノだって独りでは出来ない。
千香子は、貞人に残された最後の人間性を救える、最後の望みなのかも知れない。などと甘い考えが頭をよぎる。
「スーパーカリフラジリスティック・ エクスピアリドーシャス、か」
翌朝。
ふかふかのスクランブルエッグとパツンパツンのソーセージ、シャキシャキのサラダの朝食を瞬く間にペロリした千香子は、制服の襟を直し、玄関に向かった。
靴を履きながらイヤホンを耳に押し込んでいると、貞人が玄関までやって来た。
「お弁当なら持ったよ?」
怪訝な目で貞人を見る千香子。ハンカチとティッシュも持っている。忘れ物は無いはずだ。
「いや」
貞人は、おずおずと、しかしそう悟られない様に真顔を保ちつつ、右手を上げ、
「いってらっしゃい」
と、まるで生まれて初めて口にするかの様に、言った。
見送り。
初めてのことだ。
千香子は面食らったが、それを悟られない様に、思わず溢れた笑みを盾に、
「いってきますっ」
と応えた。
空は晴れていた。
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