chocolate
「はい、梶君の分」
もうそろそろ会社を出ようかとしていたところで、同僚の女性に声をかけられた。振り向くと小さな袋が差し出される。
「え?」
差し出されたものを受け取っていいものかと考えていると、黒谷にほら受け取ってと促される。
彼女に何かをもらう理由が思い当たらないけれど、袋をずいと押し出してくるので気圧されるようにして受け取ってしまう。
「えーと、これ……?」
一体何だろうと首を傾げながらまじまじと袋を眺めていると、黒谷が目を大きく瞠った。
「やーだ、梶君、忘れたの? 今日はバレンタインデーじゃない」
「あ!」
からからと笑いながら指摘されて、ようやくその事実を思い出す。
――やってしまった。大失態だ。
つくづく自分はイベント事への関心が薄いと実感する。毎日の仕事に気を取られていたからとはいえ、この失態は痛い。
もちろん、同僚の黒谷に対しての失態ではない。もっと厄介なやつに対しての、だ。
「安心してね、本命じゃないから」
自分の失敗に困った俺の顔を見て、本命が他にいると判断したのだろう。さりげなく明るいフォローを入れてくれるのは、気の利く女の子ならではなのかもしれない。
それでも気を使わせたのは申し訳なかった。
「もらえるとは思ってなかったから、驚いた。ありがとう。義理でも嬉しいよ」
「そんなこと言って、チョコをもらいたい本命がいるんでしょー? いいよ、わかってるから。梶君かっこよくてモテる割には浮いた話ないもんね。恋人?」
「……え、ああ、まぁ、一応そう、だけど」
俺はどぎまぎしながら歯切れ悪く答えた。
気が利いていいなどと思ってすぐ後に、女性は怖いなと認識を改める。
女性というのはどうも妙なところで観察力が優れていていけない。時折、何の気なしにいきなり核心に触れてこられると心臓に悪いことこの上ない。
もっとも、恋人の存在については特に隠しているわけではないから、指摘されてびくびくする必要はない。それでも突然話題に出されるとついつい身構えてしまう。
言葉を濁す形になった俺を気の毒に思ったのか、黒谷はさらにフォローの言葉をかけてくる。
「もう、そんな顔しないでよ。これは今流行りの友チョコ。彼女に見つかっちゃったらそう言えばいいのよー」
どうやら黒谷は、俺が困っているのが本命以外からチョコレートをもらったことだと思っているらしい。それはたしかにそうなのだが、それよりも、今日がバレンタインデーだという事実を忘れていたことが問題なのだ。大問題だ。
けれどそれを話せば、人を煙に巻くことがあまりうまくない俺としては墓穴を掘りかねない。下手なことは言わないのが得策だろう。
黒谷には申し訳ないがそのまま誤解していてもらおう。
「……うん、そうすることにするよ」
黒谷を安心させるように意図的に微笑んで、もう一度チョコレートの礼を言う。頷いた彼女は手を振りながら挨拶をして、軽やかな足取りで去っていった。
その場に残された俺はため息を一つだけついた。
この後の展開を考えると気が重い。けれどこのままぐずぐずしている方が状況を悪くするのだろうと、意を決して立ち上がる。
俺はもらった袋を鞄の中に入れて、まだ残っている人に挨拶をしてフロアを後にした。
「はぁ……」
会社を出て最寄りの駅に向かいながら、すでに何度目になるのかわからないため息が口からもれた。
今になって、先週末にかかってきた相原からの電話の意味がわかった。
『今度の月曜、お前の部屋に行くから』
唐突にかかってきた電話で相原に宣告された時には一体何事だと思ったが、その月曜日がバレンタインデーなのだとわかれば納得もいく。
……納得がいくのもどうかとは思うけれど。
曜日で指定されたので、その日が二月十四日のイベントデーだと咄嗟にはわからなかったのだ。
それでも仕事の関係で、今日が十四日だということは何回も確認していた。それなのに全く気がつかなかった自分に呆れてしまう。
帰宅する足取りは重いくせに気は急くという奇妙な芸当をしてのけながら、駅で電車を待つ間に携帯電話を操作する。
就職前に契約した携帯電話はいまだに最低限の機能しか使っていないが、電車の乗り継ぎを調べるときや、こういう非常時の連絡ツールとしては非常に便利だと実感している。
「うわ……」
表示された乗り継ぎ案内の結果に思わず声を上げてしまう。
こういうときに限って乗り継ぎが悪い。どう頑張っても相原が指定した時間には間に合わない。
「はあぁ~」
肩をがっくりと落としながらもう一度特大のため息をついて、今度はメール作成画面を呼び出した。
端的に遅刻することを伝えると、ほどなくして了解のメールが返ってきた。
文面を見る限り不機嫌ではなさそうだけれど、相原の場合は何がきっかけになるかわからない。さしずめびっくり箱のような男とでも言えばいいのか。どこで、何がきっかけで、何が起きるかわからない。
ひとまず大丈夫そうではあるけれど、相原を長く待たせない方がいいだろう。
そう判断した俺は途中で店に寄ってチョコレートを買うことを断念したのだった。
「ただいまー」
「おかえり」
玄関のドアを閉めながら声をかけると智也がリビングから顔を出した。
「相原さん、もう来てるよ。部屋に上がってもらってるから」
「ああ、ありがとう」
返事をしてそのまま階段へ向かう俺の背後から、笑いを含んだような意地の悪い声が投げ掛けられた。
「相原さん、イベント事には本当にまめだよね」
イシシ、とどこぞのキャラクターのような笑い声をさせた智也は、振り返った俺にごゆっくりとだけ言ってリビングに引っ込んだ。
……絶対に感づいている。
それも仕方ないと思う一方で、できれば知られたくなかったというのも本音だ。せめて父親には知られないようにしよう。
ひそかにそう誓いながら自分の部屋のドアをノックした。
返事も待たずにドアを開けると、相原は我がもの顔でベッドに腰掛けて雑誌を読んで寛いでいた。
「悪い、遅くなった」
「別にいいさ」
鞄を机の脇に置いてコートとジャケットを脱ぎ、ネクタイを外す。
「大分さまになってきたな」
相原が感心したように話しかけてくる。スーツ姿が馴染んできたとを言いたいのだろう。
高校を卒業してすぐの頃はまさにスーツに着られていたように見えたけれど、最近はそんなこともなくなってきた。毎日着ているうちにいつの間にかしっくりくるようになっている。
「ま、もう四年だしな」
答えて向きを変えた椅子に腰掛けると、ちょうど向かいのベッドに座る相原と対峙する形になった。
そこでようやく相原が今日来た理由を思い出す。
相原があまりに普通に出迎えてくれたので、肝心なことが頭から飛んでしまっていた。
だからと言ってこのまま忘れたふりをすることもできない。何しろ相手は相原なのだ。万に一つも俺に勝ち目はない。そんなことは嫌というほど分かっている。
「あー、相原、あのな」
後手に回ったのでは分が悪い。自分から白状してしまった方がいくらかましだろう。
「実は俺、今日、チョコレート用意してないんだわ……」
極めて深刻でない口調で申告したにも関わらず、いやそうしたからなのか、相原の眉間に皺が刻まれる。
綺麗な顔立ちなだけに妙な迫力があって、俺の心拍数が俄かに上がる。
はっきり言って気まずい。
「……」
「あ、あのさ」
沈黙に耐えきれず、何を言ったらよいのかもわからないままとりあえず声をかけると、ぴくりと器用にも片方の眉だけが動く。
その後で盛大なため息がその口からもれた。
「……そんなことじゃないかと思ったんだよな」
「へ?」
そう言いながら頭をがしがしとかく相原の動きは脱力感にあふれている。
もっとこう、迫るように責められるかと思っていたので、予想外の相原の様子にこちらがどうしたものかと考えてしまう。
けれどこちらが何をするまでもなく、すぐに相原がベッド脇に置いてあった鞄を引き寄せた。中から何かを取り出してこちらに差し出してくる。
「ほら、これ」
「え?」
相原の手にあるのは大きさと色の違う水玉がプリントされた、なんとなくファンシーな印象のビニール製の小さな袋だ。
これが一体なんだというのだろう。
首を傾げて見ていると相原がもう一度大きく息を吐いた。
その態度はまるで、これだからお前は……と呆れているようだ。
「受け取れよ、お前にやるんだから」
「ええ? 誰から?」
「阿呆っ、俺に決まってるだろ!」
怒るような勢いで言われて初めて、その可能性に思い至る。
顔に出ていたのか、相原は不機嫌そうな、けれどどこか照れくさそうな顔をしてうなだれた。相原にしては珍しい仕草だ。
「どうせ忘れてると思ったんだよ。だから俺が用意してやったんだ」
「え、お前が? 自分で? ……本当に?」
息巻く女の子たちに混ざって、相原がチョコレートを買っている光景を思い浮かべてみるものの、うまく想像できない。どうにも面白い展開すぎて問い返さずにはいられなかった。
「お前、お前が女の子に混ざって買ったの?」
たしかに相原は綺麗な顔立ちをしているので、違和感はないのかもしれない。
それでもまさか相原がそんな行動に出るとは、思いもしなかった。これまでの付き合いの中でも五指に入る珍事だ。
あまりの俺の驚きように顔を上げた相原は眉間の皺を深くした。
「そもそもだな、女が男にチョコレートを渡すっていうのは日本の製菓会社の陰謀であって、その口車に日本人が乗せられたに過ぎないんだ。今オリンピックが行われているトリノでは男が女に渡すのが習慣らしいし、本来は男女の区別なんかない行事なんだぞ」
そこで一度切って、智也が用意したのであろうサイドテーブルの上のグラスに手を伸ばす。喉を湿らせた相原は、つまり、と言って話を続ける。
「俺がお前に渡しても何の問題もないわけだ」
「……ぶっ」
さも当然と言わんばかりの態度に、ついに俺は吹き出してしまった。
だってこんなに恥ずかしそうに言い訳する相原なんて珍しい。それに、いつもとは違って今は俺の方が優位な立場にいるのだ。
――面白過ぎる。
「いいから受け取れ」
いつまでも肩を揺らしている俺にふてくされた顔をして、相原はチョコレートの入った袋を押し付けてくる。
「サンキュ。ありがたくもらっておく」
手を伸ばして受け取ると、相原はもう一度グラスに口を付ける。
それを横目にいかにもプレゼント用というラッピングをされた袋を開けた。五センチメートル四方程度の大きさの箱の中に、角型の小さなチョコレートが六つ並んでいる。
「うまそうだな」
会社帰りの疲れた身体にとって甘いチョコレートはとても魅力的で、すぐにも食べたい気持ちに駆られる。
とりあえず床に置いていた鞄から飲みかけのペットボトルを取り出して、急いで帰ってきたせいで渇いている口を潤わせる。
俺の方をそれとなくうかがっている相原に、いただきますと言ってから長方形の厚みのあるチョコレートを一つだけ口に運んだ。
「うまい」
上にふるわれているココアの苦みの後に、チョコレート特有の甘さと強いアルコールの香りが口内に広がる。
思わず顔を綻ばせると相原もようやくひそめていた眉を戻した。
「それはよかった」
「もう一つ」
今度は一口だけ齧って断面を見てから、残りを口に放りこむ。中にクッキーのようなものが入っているらしく、サクサクとした音を立てる。
小さいチョコレートだけれど夢中になって噛んでいると、そんな俺の様子に少しだけ笑った相原がベッドから立ち上がった。
いつか見た光景だな。
そう思いながらのほほんとその様子を見ていた俺は、相原の少しふっくらとしている唇が自分のそれに重なったことにはっとなった。
「あっ、あいは……」
すっと離れた唇に、抗議と驚きを込めて名前を呼ぼうとしたが、最後までは言わせてもらえなかった。
初めは軽く触れただけだった口づけは次第に深くなり、顎をすくい上げられてしまえば口を開かずにはいられない。まだチョコレートが残る口内に相原が進入してきて舌を絡めとっていく。
「んっ……」
相原が俺の脚の間に膝を置いて椅子に乗り上げる。そうして与えられる口づけは息苦しくて、相原を離そうとして服を掴んだ。けれどもすぐに力を無くして縋り付くような形になってしまう。
その上、相原の手がうなじの辺りを行き来する。ただでさえ弱いそこを意図的にくすぐるように触られると身体が震える。
奪われた声が鼻から抜けた。
「……っ」
受け止めきれなかった唾液が唇の端から零れた。
相原の口づけと指のせいで鈍り、痺れてしまった思考回路でも、さすがにシャツを汚すのがまずいということくらいはわかる。智也に何を付けたのかと聞かれることは避けたい。
それを伝えようと弱く顔をそらすと、相原は意外にもあっさりと顔を離した。
「……はぁ」
恥ずかしいほどに熱くなってしまった息を吐いて口元を手で拭う。
指に茶色く色がついた。チョコレートの色だ。
うわあぁぁ……。なんかよくわかんないけど、すごくやらしい気がする。
家族がいる場所で隠れて相原とキスした罪悪感と、それでもなお冷めない軽い興奮。どうしようもなく動揺してしまった。
ひとまず指についた汚れをティッシュで拭って気持ちを落ち着ける。
一方の相原もベッドに腰掛け直して濡れた唇を拭っている。
「まあこんなもんか」
「……何の話だよ」
相原がぽつりと満足そうにこぼした言葉の意味がわからず、自分でもおとなげないと思いつつも少しばかり恨みがましい声が出た。
「チョコレート味」
相原が一言だけ言ってにやりと笑う。
俺はぴんとこずに手元のティッシュをいじった。そこにうっすらとついた茶色に、ようやく相原の言葉の意味を理解した。
「!」
「ごちそうさま」
頬を熱くする俺に声をかけてくる。
「ま、これで平等だな」
相原の綺麗な顔が見事に笑みの形になり、ますます恥ずかしくなる。
ていうか、恥ずかしいよ。お前が。
相原のやることが恥ずかし過ぎてまともに顔を見ることが出来ない。思わず目を伏せると今度は相原が笑い出す。
「恥ずかしいことするなよな……」
口から出る言葉がどこかすねた調子なのは仕方がないと思う。すべて相原が悪い。
「悪い悪い。それにしても相変わらず同じ手に引っ掛かるんだな」
「成長しなくて悪かったな」
じろりと睨みつけてやると、ようやく笑いをおさめた相原がまあまあと再び立ち上がって近づいてくる。
「いいじゃないか」
そうしてさっと唇を掠め取っていく。
「相原!」
顔を赤くして言えば、からかうようにまた触れてくる。今度は軽く触れるだけの口づけを繰り返されて、次第に気持ちがないでいく。
「俺にもバレンタインのプレゼントってことだよ」
「……馬鹿」
自分の甘い声もどうかと思うが、相原のサプライズ企画にほだされたということにしておこう。
こういうのもたまになら悪くない。
「馬鹿はないだろう」
憎まれ口をたたきながらも浅いキスをしていると、部屋のドアがノックされた。
「はっ、はい!」
どきっとして思わず相原を突き飛ばす。
慌てすぎて返す声が裏返ってしまった。智也に変に思われてないかと心配になる。
「玲一、開けるよ」
「……ああ、いいよ」
すぐにドアを開けられなくてよかった。きちんとノックをするようにしつけておいた甲斐があった。
突き飛ばされた相原はベッドには戻らずに机に寄り掛かるようにして、椅子に座っている俺の隣に立った。
それと同時にドアが開けられる。
「そろそろ夕飯にしようと思うんだけど」
そう言って智也は俺たちを見て意味ありげな視線を送ってくる。
「相原さんは食べてく?」
大学生になったのを機に智也が夕飯当番になっていた。仕事で帰りが遅くなることもある俺を気遣ってか智也が言い出したことで、有り難い申し出だったので甘えることにしたのだった。
相原は智也の視線を受け止めてにっこりと笑った。
「そうだな、ご馳走になろうか」
「わかった。あと少ししたらご飯になるから、その頃には二人とも降りてきてよ」
智也は相原の笑みとは対照的に少し皮肉っぽく笑ってドアを閉めた。
小さく階段を降りていく音が聞こえる。それが途切れてからようやく、俺は身体から力を抜いた。
「はぁ……」
「あの目は完全に疑ってるな」
楽しそうに言う相原は言葉とは裏腹に大して気にもしていないようだ。
「お前、楽しんでるだろ」
「まあな」
「……どうやらほとんどばれてるみたいだけどな」
そう呟くと視線をドアから俺に向けた相原が笑う。
「智也ならばれても問題ないさ。隠すよりよっぽど楽だぞ」
「ずいぶんポジティブだな」
「人生楽しい方がいいだろ」
「そうだろうけど……」
そう言ってため息をついた俺に苦笑して、そろそろ行くかと立つように促してくる。それに頷いて立ち上がると、相原に腕を掴まれて引き寄せられる。
「わっ」
「そんなに気にするな」
そのまま軽く抱きしめてしっとりと唇をあわせてくる。相原の気持ちが流れ込んでくるような甘い口づけだった。
「ん……」
「行くぞ」
すっと体を離した相原が手を引いた。
――まあ、こんなバレンタインもたまにはいいかな。
そんなことを思いながら笑うと、相原が何を笑っているんだと覗き込んでくる。
今度は自分から素早く口づけた。
恥ずかしいものの、たまには自分からするのもいいだろう。
「なんだよ」
相原は文句を言いながらも嬉しそうに笑う。つられるように笑って、二人でじゃれあいながら部屋を出た。
たまにはいいよな。
なんとなく温かい気持ちを抱えて階段を降りる。
「何二人とも嬉しそうにしてんの」
智也にそう突っ込まれたけれど悪い気はしない。
こんな日々が続くのも悪くないと思ったのだった。
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