七夕 side 智也

――俺にとっての大切な人って、誰だろう。



「智也!」

 呼びかけに振り向くと視線の先に見慣れた顔の親友――小坂<こさか>が現れた。

 三年棟の屋上にのさばっている智也のもとへ駆け寄ってくる。

「ここにいたのか」

「昼はいつもここだって言っただろ」

「まだ昼休み始まったばっかだぜ。教室見回してもいないからどこに行ったかと思った」

「ああ……、今日は二限がやたら早く終わったんだ」

「なるほど」

 小坂は納得というより呆れたようにため息をついて智也の隣に腰を下ろした。

「今日は晴れてて気持ちいいな」

「うん」

 秋晴れの日は屋上でのランチタイムが本当に心地良い。兄の玲一からこの場所を教えてもらっていた智也は雨の日以外はここに通い詰めている。わずかに冬の気配を漂わせている秋風は受験勉強で沸騰しそうな頭にちょうどよい。

「ところでさー、智也。相原さん元気?」

 高い空を見上げていた智也はぎくりとして、小坂の視線からわずかに目を逸らす形で向き直った。

「元気、……なんじゃないかな」

(そもそもあの人が弱ってるところなんて想像できないよ……)

 唐突な小坂の質問に動揺した自分を隠そうと平静を装うものの、それがどこまで成功しているのか。そえ以前に、頼むから相原のことを自分に聞かないでくれ、と思ってしまうのは仕方がない。

 話題に上った相原とは、智也の通う都立美原高校に伝説的逸話を残していった生徒会長のことだ。智也よりも二つ年上で、小坂や智也が入学した年に高校三年生に進級し、生徒会長を引退した人物だ。

 どこか人を引き付ける魅力を持った相原は全校生徒のアイドル的存在で、引退した後も強い影響力を持ち、今の智也たちの学年でも人気は根強い――らしい。

 皆が憧れる気持ちはわからなくもない。それくらい相原慎という人物は強烈な個性を持っている。けれど智也にはそうそう簡単になびけない。

 理由は、兄の玲一だ。

 玲一は相原とは中学時代からの友人で、高校在学中も仲が良かったと思われている。それもあって小坂などが相原の様子を智也に聞いてくるのだ。

 ――それが智也にとって心臓に悪いことなどとは知らないで。

 そもそもは玲一は相原と仲がいいというよりは、どこか天才肌的な部分を持つ相原に振り回されていた。生徒会役員でもないのに生徒会の仕事を手伝わされたり、相原の思いつきの提案に付き合わされたりといった具合だ。

 それでも二人は相性がいいのか、付かず離れずの距離を保った、バランスの取れたコンビだった。

 ――だった。

 あくまで過去形だ。

 そんな二人の関係が変わり出したのは、玲一が高校三年生に上がる前辺りからじゃないかと思う。その頃、智也はまだ中学生で、学校での二人がどんな状態だったのかは知らなかった。ただ、なんとなく二人の雰囲気が今までと違うような気がしていた。

 そして智也が高校に進学して初めての夏休み。そこで決定的な何かがあったのだろう。

 はっきりと何があったのかはわからない。けれど智也には二人の間の距離が縮まったように思えた。

 どうやらそれは当たっていたようで、この間ついに確信を持つだけの証拠を手に入れてしまったのだった。

 二人はどうも、同性という枠を越えて恋人という関係になったらしい。

 前々から二人の間の、どこか秘めやかな空気を不思議に思っていたけれど、その答えがまさか恋人だったとは。現場を押さえるまで――もちろん本当の意味じゃない。もしそうだったら玲一は寝込んでいたかもしれない――考えもしなかった。

 あの日はたしか七夕の日で、相原が玲一に会うために家に来ていた。玲一は高校卒業後すぐに就職していたので、自然と相原が玲一の帰りを待つことになった。別にそのこと自体はおかしくはなくて、以前から相原はよく遊びに来ていたので、智也も特に変には思わなかった。

 その日、玲一は珍しく早く帰ってきて、部屋で相原と話をしているようだった。

 料理当番だった智也は時間になったので、そろそろ夕飯を作ろうと自分の部屋を出た。そして玲一の部屋の前を通り掛かった、その時だった。

『――あ……っ』

 ドア越しに小さく、くぐもった声が聞こえた。

 盗み聞きなんて良くないとわかっていたけれど、智也の足は部屋の前に縫い止められてしまった。

『ちょっと……待てよっ。智也が』

『声出さなきゃばれない』

『そういう問題じゃないだろっ』

『いいから触らせろ。口塞いでてやるから』

『んっ……』

 次いで密度の濃い空気が伝わってきて、智也ははっとしてその場を急いで立ち去った。

(何だ、今のっ)

 どう聞いても、あの何とも言えない声は玲一のもので、口を塞いでやると言っていたのは相原だ。

(てか触るって……触るって……どこをだよっ)

 何がどうなっているんだと問い質したくても、そんな恐いことはできない。

 けれど今聞いたことから考えれば、どうやら玲一と相原は触るような仲らしい。しかも玲一は智也にばれることが嫌なだけで、相原にされる――一体何をされたのだろう――ことは嫌じゃないようだ。

(つまり、だから、要するに、二人はそういう仲なわけーっ)

 ようやく結論に至った智也は、結局、真偽を確かめることはできなかった。もちろん、現在もうやむやのままだ。

 さすがに玲一に、相原と付き合ってるのかとすばり聞くことはできなかったし、他の人は気付いていないようだからとりあえずはまあいいかと思ったのだ。

(あれ? でも……)

 あの時のことを思い返していて、ふと、従兄弟の各務桜が相原を毛嫌いしていることを思い出した。

(それって、もしかして……)

 そこから先を考えるのが恐くなって、智也は思考を閉ざした。

 触らぬ神に祟り無し。わざわざ確かめて桜の逆鱗に触れることもないだろう。穏やかな日々を自分から壊すほど智也も馬鹿ではない。

(まあ……自分の兄貴が……その……男色?の道に入ったってのは正直微妙だけど。だって……なぁ……)

 とまあ、そんな複雑な気持ちを抱えているせいで、小坂みたいなやつらに相原のことを聞かれるとどうしてもどきりとしてしまう。

 そんなはずもないのに、玲一と相原のことを知っているから聞いてくるんじゃないか、なんて疑ってしまう。どう考えても、そんなこと知りようがないとわかってるのに。

(わかってても冷や冷やするのが秘めたる仲のせいってもんかね)

 何とはなしに空に広がる鰯雲を見上げていた智也は、少し残念そうな小坂の声で現実に引き戻された。

「なんだ、智也も知らないのか」

「俺が相原さんと仲いいわけじゃないからな」

「それもそうか」

 動揺していることを隠して、うまくごまかせただろうか。

 もっとも、相原も最近は忙しいのか前ほど頻繁に顔を出していない。今元気かどうかは本当に知らないのだ。――でも。

(弟の心労も考えてくれよ。卒業してもまだまだ有名だからたちが悪いよなぁ)

 そう思わずにはいられない。本当は智也がそんなに身構える必要はないはずなのだけれど。

(でもやっぱ、ばれたらいやじゃん)

 それもまた事実で、どうあっても智也一人が気を揉む羽目になるのだろう。その結論には納得いかないが、それでいいかと思う気持ちもある。

 たぶんこれから先も、玲一と相原は喧嘩したり反発しあったりしても、なんだかんだ言いながらずっと一緒にいる。そんな気がするのだ。たとえそれが、恋愛感情を伴わないものになったとしても、そうだと思う。

 二人の関係は少なくとも智也にそう思わせる。

 それが、とても良いと思う。何があっても気がつけば隣にいる。それはとても得難いもので、だからこそ智也は羨ましいと思う。

(俺もそう思える人、欲しいな)

 それが無二の親友でも恋人でも、どんな形でもいい。そう思うくらいには、智也は玲一と相原の関係に憧れていた。

「はー、満腹満腹」

 目の前に座っていた小坂が黙々と食事をしている間に、さっきまで空に浮かんでいた雲たちはなくなっていた。どこを見ていたということもなかった智也は、小坂の前に散乱している弁当やらパンの袋やらに視線を戻した。

「つーかお前食いすぎじゃねえ? 腹八分って言うだろ」

「細かいこと言うなよ。受験勉強に糖分持ってかれてんだって」

「そんなに食ったら午後の授業で寝るぞ。摂取した糖分の半分も消化しないで終わるな」

「だから言うなって。と、そろそろ予鈴鳴るな」

 小坂に促されて腕の時計に目をやると、確かにそろそろ教室に戻った方がいい時間だ。

「戻ろーぜ」

 がさがさと目の前のごみをまとめて立ち上がった小坂につられて、慌てて智也も戻る準備を始めた。荷物をまとめて、急いでドアをくぐったところで予鈴が鳴った。

「うおっ、やべっ」

 前を行く小坂は次が移動だからと駆けていく。教室の移動のない智也はドアノブから離した手を意識して見た。

(この手が繋がる先はどこだろう)

 できればその先には、智也が憧れているような関係があって欲しい。それが誰とどういう風につながるものかは、まだわからないけれど。

 智也の背後で重い音を立ててドアが閉まる。それを合図に智也も授業に遅れないように走り出した。



 ――この手の先には何があるのだろう。

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