気持ち

「杉浦……、一体何のつもりなんだ」

 講義が終わってざわつく教室の中、桜さんは立ち上がりながら俺を睨みつけた。

「この間から授業のたび、ほとんど毎回のようにお前に会うのは何でだ」

「しようがないじゃないですか。同じ学部なんだから、講義がかぶるのは別に変なことじゃないですよ」

 しれっとそう言うと、一瞬言葉に詰まった後で桜さんは顔を背けてしまった。

「だから、なんでお前もうちに来たんだよ」

「相原が来たからって俺まで邪険にしないでください。俺は桜さんと同じ大学に来たかったから、ここにしたんです。学部がかぶったのは、それこそ仕方ないです。興味があったんだから」

「……」

 まだ納得のいかなさそうな横顔を無視して、立ち上がった俺は桜さんの肩を軽く叩いた。

「とにかく昼飯食いに行きましょう」

 桜さんは渋々といった感じで、けれど文句は言わずに教室を後にする俺について来た。



 俺が各務桜という人を初めて認識したのは高校一年の五月初頭のことだった。

「ああ、そうだ。相原くん、立候補者のプロフィールとコメントが欲しいって新聞部が言ってたから、協力してあげてね」

 ふとそんな爽やかな声が耳に入って、帰宅しようとしていた俺は昇降口の手前で足を止めた。

 気になって半身で振り返ると、やや後ろの廊下にすらりとしたそこそこ長身の少年と、それよりやや背の低い小奇麗な顔立ちの少年がいるのが目に入った。

 背の高い方は生徒会長の三枝だ。新入生の入学オリエンテーリングで壇上に上がっていたので印象に残っている。

「わかりました。でも、どうすればいいですか。直接、新聞部の部室に行けばいいんですか?」

 小奇麗な顔の少年が三枝に対して答えた。

 どうやらこの小奇麗な顔の少年が『相原』らしい。

 あれが相原か。

 たしかに綺麗な顔だと半ば感心するようにそう思った。

 同じ学年に相原という若干変わり者の、妙な美少年がいるという話は耳にしていた。けれどクラスが遠く、わざわざ顔を拝みに行くほどの興味もなかったので、相原がどんな顔なのかは知らなかったのだ。

 たしかにあれだけ綺麗だったら、女子がきゃあきゃあ騒ぐのもわからなくもない。まるで身近にいるアイドルのようだ。

 そういえば、相原が来月の生徒会役員を選出する選挙に出るという話を誰かがしていた気がする。副会長に立候補するとかなんとか。

 だから三枝と話しているのかと納得して身体を前に戻そうとしたところで、ふと三枝が背後を振り返った。

「桜、新聞部って誰に連絡すればいいんだっけ」

 呼びかけに、背後で別の人間と話していた小柄な人物が三枝を振り返る。

「新聞部?」

「ほら、例の立候補者のプロフィールとコメントのやつ」

「ああ、あれか。あれなら、所定の用紙に必要事項を書いてほしいって言ってたけど」

「そういえばそうだったっけ。その用紙ってどこにあるかわかる?」

「ひとまず俺が預かってる」

 そう答えた小柄な人に一瞬、視線が吸い寄せられた。

 ――随分、綺麗な人だな。

 咄嗟にそう思った。

 顔立ちだけで言えば相原の方が整っているし、綺麗だ。けれど振り返った彼は立ち姿が美しかった。何か武道でも嗜んでいるのか、すっと伸びた背筋がいっそ潔いよいほどの印象を与えている。

 かわいらしいといった方がいい顔立ちと背の低さのせいで、相原のような派手に目立つ要素はない。それでも身に纏う空気が違って見える。まるで彼の周りだけ澄んだ空気が流れているようだ。

「生徒会室に置いてあるから、取りに来てもらえれば渡せる」

「そうか。じゃあ、相原くん。明日の放課後にでも取りに来てもらっていいかな」

「わかりました」

「じゃあ用紙は用意しておく。俺がいなかったら三枝か、他の誰かに声をかけてくれれば渡せるようにしておくから」

「わかりました。じゃあまずは各務先輩あてで行くようにしますね」

「ああ」

 そこで事務的な会話は終わったのか、彼らの話題が雑談に移ったのをきっかけに俺は背を向けて昇降口へと足を進めた。

 ――各務先輩、か。

 初めて認識した印象的な人の名前を、意識しないままに心の中で呟きながら。

 これをきっかけに俺は各務桜という人物に興味を抱くようになり、接点のない彼に近づきたいがために生徒会メンバーに応募することになったのだった。

 そうして生徒会に出入りするようになってひと月が経ち、気がつけばいつも桜さんを見てしまう自分がいることに気がついた。何がそんなに自分を引きつけるのか。理由はよく分からなかったけれど、とにかく彼が気になって仕方がないのだ。

 まるで吸い寄せられるように視線で彼を追ってしまう。自分ではまったく意識していないのに。

 そしてある日突然、それは恋なのだと気がついた。

 もともと感情の起伏があまり大きくないタイプだ。今までこんな風に心が騒いだことがなかったからすぐにはわからなかったのだ。

 けれど恋なのだと気付いて、逆に納得してしまった。だからこんなにも彼を意識しているのだと。

 そこからは我ながらどうかと思うほど積極的にアプローチをかけた。真正面から気持ちを伝えてはねつけられて、嫌がられて、避けられて、それでもどうしても諦められなかった。

 結局、二学期に入ってから桜さんの周囲で色々とあって、それをきっかけに俺の気持ちは桜さんに受け入れてもらえたのだった。

 自分でも呆れるくらい粘った結果、想いは実を結んだわけだけれど、一つ間違えれば生徒会に身を置けなくなっていただろう。

 なぜか当時の生徒会の主である三枝には陰で発破をかけられていたが。

 表面上は『各務先輩』から『各務さん』へと呼び方が変わり、二人だけのときは『桜さん』と呼ぶことを許してもらえる。そんな立場を与えられ、時に桜さんに甘えられ――滅多にないことだったけれど、それだけで十分だった。

 ただ、桜さんの『特別』である梶玲一の存在だけが気掛かりだった。

 俺に対してとはまるで違って、桜さんが特別可愛がって、心を許している従兄弟。それが梶だった。

 梶を優先し、大事にしている素振りを見せることに嫉妬しなかったと言えば嘘になる。面白くない気持ちもあった。

 だから目論見通り副会長の座を掴んだ相原に引っ張り込まれてちょくちょく生徒会に顔を出す梶は、俺にとって桜さんとは別の意味で気になる存在だった。どんな人間なのか興味があった。

 幸いにも感情があまり表に出ない性質のおかげで、桜さんにはそれを気取られはしなかったようだった。それをいいことに梶を見かけるたびにひっそりと観察していた。どんな人物なのか、と。

 もし桜さんがそれに気付いていたら、俺が梶に近づくのを快く思わなかっただろう。俺との関係を従兄弟の梶には知られたくなかっただろうから。

 もっとも、これまたなぜか三枝には全部気付かれていて、大人びた顔してるくせに子供っぽいと盛大に面白がられたが。

 そうして観察するうちに、相原が生徒会に入った理由もうっすらと見えてきた。そう、最終的な目標地点は違えど、そのために『各務桜に近付きたい』という目的は一緒だったから。

 それについても三枝はとっくに気付いていたらしく、その上で素知らぬ顔をしていたようだ。

 ――俺たちの周囲の人間では、実は三枝が一番性格が悪いのではないだろうかと思わざるを得ない。

 それはさておき、桜さんと付き合い始めて一年半近くが経ち、俺たちもそろそろ三年に進級かという時期になって、俺は梶に直接的に近付くチャンスを手にした。皮肉にも桜さん自身が俺と梶を接触させたのだった。

 原因は相原と梶との間にあったいざこざだ。……いざこざというには少々色気があったようだが、桜さんからその経緯を聞き出し、梶への嫉妬心半分、同情半分で、梶の護衛を引き受けた。

 実際には護衛の意味はなかったわけだけれど、梶と親しくなれたのは収穫だった。

 梶の人となりを知ることで、桜との異常なまでの仲のよさに対して抱えていたもやもやとした気持ちを晴らすことはできた。同時に桜さんが梶を構いたくなる気持ちも理解できた。

 そのことについては既に三枝と椿から杞憂であると言い含められてはいたけれど、どうしても自分なりの実感が欲しかったのだ。

 それに梶は結局のところ相原に奪い去られていったのだから、そういう意味での心配は無用になったのだ。相原の気持ちには薄々気付いていたし、三年生の夏あたりから二人の間の空気がなんとなくそれまでと違ってきているのもわかっていた。

 高校卒業が間近になった頃に、梶から相原との関係について気付いているのかどうか直球で聞かれたので、大体のことは知っていると伝えた。その際にはっきりと梶から二人のことを聞いてもいる。

 ギブアンドテイクではないが、秘密を教えてもらった代わりにこちら側の秘密も話しておいた。相当の覚悟をもって聞いてきた梶に黙っているのもフェアじゃないと思ったのだ。

 梶はさすがに驚いたようだったが、同時に納得もしたようだった。いつかの卒業祝いの席での俺と桜さんのやりとりを見て、なんとなく違和感を覚えていたのだろう。

 自分が相原とどうこうなっていることもあって、俺たちのことにとやかく言うつもりはないらしい。それでもしきりに『あの桜ちゃんがねぇ……』と複雑なような、感心するような声音で繰り返していた。

 しばらくしてから桜さんにその話をしたら、ものすごく嫌そうな顔をしていたけれど、特には文句は言われなかった。なんだかんだと言いつつ、桜さんは恋人には甘い人だった。



「で、なんで秋になって急に同じ講義取り始めたんだよ」

 目の前の蕎麦に息を吹きかけながら、桜さんが唐突に切り出した。

 場所は学食だ。窓際の席に陣取り、向かい合って食事をしている最中だった。

 蕎麦が熱いのか桜さんはなかなか口に入れようとしない。それを眺めていると不機嫌そうな声で、何見てんだと睨み付けてくる。

「いえ、別に」

「で、なんでだよ」

「夏は学部の必修とか基礎科目が多くて、発展科目は取れなかったんです。桜さんと一緒に講義を受けたかったから、秋はそういう時間割にしようかと思って」

 そう言うと桜さんは心なしか頬を染めたようだ。それが口を付けたばかりの蕎麦のせいばかりではないと思うと、かなり嬉しい。

 こういうところが本当にかわいいのだ。ちょっとばかり素直になりきれない部分が愛おしい。人前では俺に対してつっけんどんな態度を取ることが多いが、彼の気持ちを疑ったことは一度もない。

 そういう意味でも桜さんはとても潔い。そんな部分を含めて桜さんが好きだ。同じ大学へ追いかけてくるくらいに、真剣に。

「桜さん、今日は二限で終わりですよね」

「そうだけど」

「この後、うちに来ませんか」

 さりげなく言うと、桜さんは初めは意味がわからなかったのか蕎麦を啜りながら小首を傾げた。けれど一瞬後には顔をこれ以上ないほどに赤くして、盛大にむせた。

 そんな桜さんを宥めつつ、恥ずかしがりな恋人に思わず幸せの笑みがこぼれた。

 ずっと大事にするからと思いながら。

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