受難
人生には無数の岐路が存在する。
人はそうした岐路に行き当たるたびに、いくつもの選択肢の中から一つを選ぶ。そしてそれを繰り返していくのだという。
――各務桜の十八年という短い人生の中で言えば、最大の岐路、いや転機は美原高校に転がっていた。
都立美原高校に入学したその日、俺は後に悪友となる男――三枝陽介と出会った。
たまたま同じクラスの隣の席同士になった三枝は、まだどこか子供っぽさを残した同級生とは一線を画したような澄ました顔をした少年だった。
背が低く女顔の俺は中学生の頃から女みたいだとからかわれていて、そうした同級生にはうんざりしていた。けれど三枝は、まだ身長が百六十センチメートルに届いていなかった当時の俺を見ても、不愉快になるようなことは口にしなかった。
「俺も中学入った頃まではけっこうチビだった」
ただ一言、そう言うだけだった。
特に同情されていたわけでも、見下されたわけでもない。彼がただ単に事実を口にしただけだとすぐにわかった。
三枝を好ましく思うにはそれだけで十分だった。
仲良くなるのにはそう時間はかからなかった。ふざけるところが人より多くてもスマートに物事を進める姿勢にはいっそ感心し、憧れもした。いささか頭に血の上りやすい俺にとってはいっそ羨ましい長所だった。
表面上は優等生面しておきながら、しれっとした顔で悪いことをするあたりも一緒にいて楽しかった。そんな三枝に誘われたから生徒会の活動にも参加してみた。
そうやって俺が三枝と行動することが多かったせいで、高校最初の夏休みを迎える頃にはクラスの違う双子の姉の椿も三枝とはすっかり打ち解けていた。
それが結果的に二人を結びつけることになるとは、まったく考えてもいなかったけれど。
――二人が付き合うようになったのは二学期の中間テストも目前という十月の頭の頃だった。
「さーくーらー、私たちもう行くよー?」
椿の呼ぶ声が聞こえたけれどそれに素直に応える気になれず、俺は机の上に頬杖をついたままそれを無視した。
椿は少しの間、様子をうかがっていたようだった。けれど反応を示さない俺を見て、待っても無駄だと思ったのだろう。
「先に帰るからね?」
それだけを溜息と一緒に零すように言って、教室から出て行った。
ここのところ俺の機嫌がいつになく悪いこともわかっているのだろう。
去年の秋に椿と三枝が付き合うようになってから、自分の態度が目に見えて悪くなったのはわかっている。別に二人のことを嫌いになったとか、付き合うことに反対しているというわけではないのだけれど、椿に報告されるまで二人の間にあったそんな雰囲気に気付かなかった間抜けな自分に腹が立っていた。
それに、子供っぽいけれど椿を取られたという衝撃の反動も大きい。椿とは今までずっとべったりだっだ。今まで自分がいたポジションを三枝に取られたことに対して、不安、焦り、寂しさ、怒りといったいろんな感情が湧いてきてしまう。
それらがごちゃまぜになって腹の中で渦巻いていて、自分でも制御できない状態なのだ。これでも半年以上が経ってだいぶましにはなった方なのだけれど、それでも椿と三枝と三人でいることは据わりが悪く、今はまだ避けていたかった。
いまだにそんな状態なので椿には不満そうな顔をされているが、三枝の方は何もかもわかった上で楽しんでいる節がある。本当に食えない男だ。面の皮が日増しに厚くなっているのではないかとさえ思う。
もっとも、三枝が楽しそうにしているのはそれとは別件のせいのような気もするけれど。
椿が出て行ってから少し時間を置いて、それから俺は鞄を持って教室を出た。
「あ、先輩」
途端にかかった声に俺はぴくりと肩を震わせた。
姿を見るまでもない。この声の持ち主は俺が今もっとも忌む少年――杉浦務のものだ。
「今帰りですか?」
話しかけられたものの応える気はさらさらない。話しかける声を無視して俺は背を向けて階段へと歩を進めた。
我ながら嫌な態度だと思うけれど、ついてくる気配がないことに心底ほっとする。
「くそ……っ、なんだっていうんだよ」
階段を降り切り、昇降口で靴へ履き替えながら腹の中の苛立ちを吐き出した。それでも気持ちはまったく晴れない。
杉浦は先月の生徒会長選出選挙後に生徒会に入ってきた一年生だった。高校一年生にしては身体がしっかりとしていて、大柄という印象はないけれど三枝よりも背が高い少年だった。
下手をすると俺よりも年上に見えるかもしれないほど落ち着いた雰囲気と、いささか表情に乏しいところが特徴の杉浦に、俺は付いてまわられていた。
事の発端は七月に入ったばかりの頃だった。たまたま生徒会室で二人きりになった際に突然、杉浦に好きだと告白されたのだ。
自分も相手も男で、しかも初めて顔を合わせてからひと月も経っていないのにそんなことを言われて、馬鹿にしているのか、ふざけるなとはねつけた。
女顔の俺に対するからかいは高校に入ってからむしろエスカレートしていたから――からかった奴らには片っぱしから制裁を加えてやっていたが――、余計に腹が立った。顔を合わせて間もない後輩にまでそんなことを言われるのかと、そこまで侮られているのかと悔しかったというのもある。
だがしかし、杉浦はそれで諦めはしなかったらしい。それ以来、何かと言えば寄ってくるし、生徒会の集まりのない日でもやたらと姿を見かけるようになった。学年が違うのだから、本来はそうそう視界に入るわけがないはずなのに。
それが精神的な負担になっていた。神経過敏とでもいうのか、気が休まらないことが多く、自然と機嫌が悪いことが多くなっていた。杉浦の存在を面白がっている三枝が、時折本当に心配してくれるほどだから、相当のものがあったのではないかと思う。
そのときの俺は本当に追い詰められていた。
だからもう、何もかも、俺のことは放っておいてほしかった――。
「……桜さん」
囁くような声が聞こえて、俺はうっすらと目を開いた。
目の前には心配そうな、だけれど取り乱してはいない杉浦の顔がある。
「お、れ……?」
状況がよくわからなくて口を開いても、掠れた声しか出ない。それにわずかに杉浦が笑う。
「少しの間眠っていたんですよ。水飲みますか」
杉浦の言葉に一瞬で自分がどういう状況にあるかを思い出した。
自分が裸のままだと気付いてベッドから跳び起きようとしたけれど、あらぬところの痛みに襲われ、身を起こすこともできなかった。ベッドに沈んだまま、これまでのいきさつを思い出してそのまま毛布に隠れてしまいたくなった。
けれど引き上げようとした毛布からは杉浦の匂いがして、どうしようもなくなった。自分が杉浦のベッドに横になっているのだと思えば、羞恥から顔が火を噴かんばかりに熱くなる。
顔を赤くしたまま固まってしまった俺を見た杉浦は苦笑しながら、起き上がるのに手を貸してくれた。
身体をベッドヘッドにもたれるようにして何とか体勢を維持する。暖房が入っているとはいえ何も身に纏わなくては寒いから、毛布を引き上げて包まるようにされた。
「身体、しばらくは無理出来ないと思いますよ」
そう言った杉浦は、睨み付けている俺には構わず口移しで水を飲ませてくる。からからに渇いていた喉が水分をすごい勢いで吸収していく。抗がう気にはなれず二度、三度と繰り返されるそれを素直に受け入れた。
杉浦の唇は優しく、最後に俺の唇を軽く吸ってから離れていく。
「お前の、せいだろ」
「それは、桜さんが素直に話してくれないから」
「でもっ、十八になるまでは最後まではしないって約束だっただろっ」
「だから、桜さんはもう十八で、何の問題もないでしょう」
「おま……っ」
いけしゃあしゃあと返されて二の句が継げない。
一体何をどうしてそうなったのかいまだに不思議だが、俺と杉浦は付き合ってそろそろ一年半になる。
年頃の少年二人はもちろん性に対する興味はあったが、さすがに最終的に自分の行動に責任を取れない年でセックスすることには抵抗があり、互いが十八歳になるまでは最後まではしないと約束していた。
もっともやはり興味と欲望には勝てず、これまでに寸前までの行為は何度かしていだけれど。それでもこれまではきちんと約束を守っていたのだ。
それなのに、ちょっと俺が意地を張っただけで杉浦はそれを破ったのだ。そのことに納得がいかないのに、杉浦は平然としている。
「俺だってあともう数ヶ月で十八ですから、いいでしょう?」
最終的には、甘えるように唇を落としてくる杉浦を許してしまうのだから俺もたいがいだ。
「そのことはもういい。……でも、玲のことはそう簡単に言えるわけないだろう。玲と相原が、……あんなことしてたなんて!」
「桜さんだって俺とこんなことしてるのに」
「!」
指先でさらりと頬を撫でられて、俺の顔は再び熱くなった。それを隠すように毛布に顔をうずめる。
「俺のことはいいんだよ。それより、その、玲のこと頼んだぞ」
もごもごと顔を隠したまま頼むと、杉浦が力付くで毛布から顔を引きはがした。そしてわかりましたと口づけてくる。
美原高校の入試の日に突然、杉浦の家に押しかけて――杉浦の両親は共働きで平日の昼間にはいない――、断る余地のない勢いで玲一の護衛を頼んだ俺に、杉浦は訝しげな顔をした。
どこか不機嫌そうな声色で理由を聞かれても、よもや従兄弟の梶玲一が生徒会室で相原に破廉恥な行為を受けていた、などと言えるわけもない。
頑として口を割らない俺に焦れたのか、杉浦は俺の服をはぎ取り、理由を言うまで俺を解放しようとはしなかった。おかげで最後までされた揚句に洗いざらい暴露させられる羽目になったのだった。
「はぁ……」
大事な従兄弟の玲一のことを話してしまったことに対する後ろめたさと、現状の恥ずかしさに俯いた俺の頭を杉浦が優しく撫でる。それを心地よく感じるなんて、相当ほだされてる。
「はぁ」
もう一度小さく息を吐くと、杉浦が感心したように声を出した。
「でも相原が梶を、ね」
言い方が気に食わなくて睨み付ける。
「言いふらすなよ」
「言いませんよ」
杉浦は小さく笑って返してきた。
杉浦の言うことは信用できる。玲一が学校で恥をかくことにはならないだろう。それだけでほっとする。
「とにかく頼んだぞ」
「わかりました。それより、もう少し休んだらどうです」
「寒いから服着たい」
「じゃあ」
そう言って自分はちゃっかりと服を着ている杉浦が布団の中に潜り込んできて、その腕の中に俺をすっぽりとおさめる。
杉浦の体温は心地よくて、心身ともに疲れていた俺はゆっくりと眠りに引き込まれていく。
こんなゆったりとした時間が続くのならば、この何を考えてるのかわかりづらいしつこい恋人といるのも心地よいのにと、眠りにつく直前にそう思った。
数ヶ月後その期待を裏切るように、何食わぬ顔で杉浦が玲一と相原が付き合いだしたことを言ってきたのは、また別の話。
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