第26話
額にひやりと心地良さを覚えて目が覚めた。
うっすらと目を開けると見慣れた天井が見える。
「あれ……」
「目が覚めたか」
ふっと視界に入ってきたのは相原だった。
「お前、いきなり動かなくなるから驚いた」
いつもの自信たっぷりな顔の相原にほっと息を吐く。そんな俺を見た相原が苦笑した。
「夏ばてか?」
「多分」
額の濡れタオルを取って起き上がると、シャツのボタンが元通りかけられていて、タオルケットが身体にそっとかけられているのが目に入った。部屋の二ヶ所の窓も風通しをよくするためだろう、大きく開けられている。
「面倒かけたみたいで悪いな」
気絶する前のことを考えるとばつが悪いやら、元はといえば相原が悪いんじゃないかという気持ちがあるやらで、落ち着かない。
「気にすんな。どうせこの暑い中、就職関係とかでがんばりすぎたんだろ?」
「……まぁ、そうなるかな」
なまじ当たっているだけに強くは言えない。そんな微妙な感情を読み取ったのか、相原はため息をついた。
「智也の受験が終わったら、今度はお前の就職か。大変なのはわかるけど、だからこそもうちょっと肩の力抜いていけよ。ただでさえ今年の夏は暑いんだから、身体壊すぞ」
「わかってるよ」
少しむっとして返すと、わかってないだろと睨まれる。綺麗な顔立ちだからこそ凄みがあって、見慣れていなければ本気で恐いだろうと思う。
「大体、顔色が悪い。ちゃんと寝てんのか? 人の面倒ばっか見てないで、たまには自分を労れ。どうせ夏休みなのに根詰めてたんだろ。ばればれなんだよ」
そこまで言われるとぐうの音も出ない。付き合いが長いせいなのか、相原は俺のことをわかりすぎている。こういうときには扱いづらくてしようがない。
「で、今年のバイトはどうだった」
「夏休みの前半にしぼったけど、夏特のときもやってたから五万くらいかな」
「シフトは」
「……週五」
なんとなく後ろめたさを感じて小さな声で答えると、相原は大袈裟に眉を跳ね上げた。
「馬鹿か。金銭面はどうにもしようがないから仕方ないけど、周りにいるだろ。各務さんとことか、俺とか。たまには甘えろよ」
「桜ちゃんはともかく、いつもは甘やかされてる側のお前に?」
仕返しと言わんばかりに、にやりと笑いながら言い返すと、今度は相原が言葉に詰まる番だった。
「確かに俺は甘やかされてるさ。でもいつもそうされてるやつの方が、余裕があるってことだよ。何年付き合ってると思ってるんだ。そろそろ甘えたっていいだろ」
「そんなもんかな」
「そんなもんだろ」
そう言う相原は、俺が色々なところで助けられてるのを知らない。個人的には充分甘えさせてもらってるように思うのだけれど、もっと甘えてしまってもいいのだろうか。
黙ってしまった俺に相原は珍しく照れがきたらしい。
「とにかく、もう少し寝てろ。智也が帰ってきたら伝えてやるから」
そう言いながら相原は俺の額を押してベッドに戻らせた。
なんだか今日は珍しい相原をやたら見ているような気がする。実は相原の頭も受験勉強と夏の暑さにやられているんじゃないだろうか。そんな馬鹿なことを考えて思わず口元がにやけた。
相原はそれには気付かなかったのか、タオルケットをかけ直しながら続けた。
「つーか、やっぱりお前ら携帯持てよ。生徒会の方でも智也と連絡取りづらくて困ってる」
「高校生が携帯を持つ必要はない、それがうちの家訓だ」
「とってつけたような言い訳をするな」
「本当のことだろ。家の電話があれば十分だ。ところで智也は生徒会ちゃんとやってるか?」
智也は相原に興味があったらしく――たぶん悪い意味ではないと思う――、庶務というか半雑用で生徒会役員として活動している。俺のところにはなかなか情報は来ないが、前生徒会長で今も顔を出したりしている相原にならなんらかの話が行っているはずだった。
「がんばってるみたいだ。北岡が褒めてたよ」
「そうか、よかった。それ聞いて安心した」
そう言うと相原はため息をついて、俺の頭に手を置いた。
「そんなことはいいから、ほら、寝ろ」
「ん」
そのまま髪を撫でられるとくすぐったくてたまらない。相原にそんなことをされるのは初めてだ。
いつもの自分なら間違いなく手を跳ね退けてでも止めさせる。けれど夏ばてで弱っていてどこか人恋しくなっているからなのか、そうする気にはなれない。むしろくすぐったい中にも気持ち良さがあって、続けてほしいと思ってしまう。
相原の手が髪の上を滑る気持ち良さに目をつむると、妙な安心感が生まれた。
今までに感じたことのない感覚に戸惑いを覚えつつも、それにつられるように俺は眠りについた。
□ □ □ □
目を覚ますと相原の姿は見えなかった。
起き上がると、タイミングよく開いたドアから智也が顔をのぞかせる。
「ああ……、相原は?」
「相原さんなら帰ったよ。俺が帰ってきてからしばらくは玲一の様子とか見てたけど、七時前になったら夕飯の時間だからって。あの人も意外なところで律義だよな」
部屋に入らず廊下に立ったまま、智也はまだぼうっとしている俺に苦笑しながら説明してくれた。
「あ、洗濯物」
ふとその手に、昼間干していた洗濯物があることに気付く。夕方に取り込もうと思っていたのに、眠ってしまったのだ。どうやら代わりに取り込んでくれたらしい。
「ああ、取り込んどいたよ。これ、玲一の分」
そう言って思い出したように智也は部屋に入ってきて、椅子の上に洗濯物を置いた。それをぼけた頭で見ていると、智也が心配そうな顔を向けてくる。
「玲一、夏ばてだって?」
「っぽい。なんか朝からだるかったんだよなー」
「だよなーって……」
ぱさぱさと目にかかる前髪をかきあげて言うと、智也は呆れたように肩を落とす。
「だるかったんなら大人しくしてろよ」
智也の言うことはもっともだが、何も始めから大人しくしてなかったわけではない。
そもそも相原がわけのわからないことをしたのがいけない。そのせいでちょっと気分が高揚してしまって、だからこんなことになってしまったに違いないのだ。
だからといって相原が何をしたかなんて智也に話せるわけもなく、結局は自分が悪いと不本意ながらも認めなければならない。
「あー、まー、そうなんだけどな。相原とやり合うと血圧が上がるんだよ」
「またやり合ったの? わざわざ夏休みにうちに来てまで? 一体何話してたんだよ」
「えーと……」
智也に言われてぎくりとした。
寝起きの頭が一気に覚める。何か良い言い訳をしないとと頭をフル回転させる。
「まぁ、その、進路の話とか」
あまりにもお粗末な言い訳だと思いながらも、一番現実味があるものといったらそれしか思い付かなかったのだから仕方がない。
「進路ねぇ。そういえば相原さんと玲一ってクラス分かれるの初めて?」
「ああ、初めてなんだよな。よく考えてみると、相原と付き合い出してようやく五年目なんだよな。なんかもっと長い気がしてた」
「もうそんなになるんだ。意外に早いもんだね、五年なんて」
感心したような口調の智也は、けれど俺がもっと驚くようなことを口にした。
「でもそれだけ長く一緒にいたんだったら、いくら相原さんでも寂しいんじゃない? いきなり別々の進路になってさ。あの人、なんか、ずっと一緒にいたそうだったもん」
「は?!」
思わず間抜けな声を出すと、智也の方が驚いたようだった。
「なに、玲一知らなかったの?」
「知らなかったって、何を」
「相原さんはさ、玲一が大学行くもんだと思ってたんだよ。玲一が進学しないって、教えた後かなり驚いてたし。多分、ずっと友達として一緒にいられると思ってたやつが、知らないうちに全然違った進路を決めてるもんだから、ショック受けたんじゃないかな」
一気に言うと、智也はもう一度本当に知らなかったのと確認してきた。
「あいつがそんな繊細な奴かよ」
「……それは、俺も知らないけど。というか俺の推論だけど。そういう玲一はどうなんだよ」
「なにが」
「相原さんとクラス分かれて寂しいとか思わなかった?」
そう言われると昼間に考えていた気持ちが蘇りそうで、咄嗟にいい答えが見つけられない。
「それよりも、振り回されなくなってホッとした」
「まぁ、それは言えるよね」
苦し紛れの言葉だったけれどそれに智也は納得したようだ。
智也は相原が生徒会長だった頃、俺が引っ張り回されていたのを知っている。それを思い出したのかくすくすと笑い出した。
そんなに笑うこともないだろうと思っていると、いきなり真顔になる。
「なにはともあれ今日倒れたんだから、せめて明日くらいはゆっくり休めよ」
「そうするよ。バイトももう明けたし、あと二、三日はゆっくりするつもりだ」
俺の返答に智也が複雑そうな顔をした。
「俺に遠慮するなよ? いくらうちが楽じゃないからって、俺のせいで玲一が夢を諦めたりとかされても嬉しくないんだからな」
「別に諦めたりなんかしてないさ。昔から高校出たら働こうって思ってたんだ。智也が気にすることはない」
「ならいいけど……」
まだ引き下がろうとしない智也を制するように、俺は話題を無理矢理に変えた。
「そういや智也、夕飯は?」
そう言って立ち上がろうとすると阻止される。智也もそれ以上は追及せずに、夕飯が出来たら呼ぶからと言って、ちゃんと休むように釘を刺してから階段を降りていった。
そして一人になってふと、昼間いつになくよく眠れたことに俺は気付いたのだった。
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