第5話

テスト返却も終わり、後は夏期特別講習さえ終われば夏休みという時期。

 いつの間にか梅雨も明け、空からは焼けるような陽射しが降り注いでいる。半袖の夏服でも少しも涼しさを感じない夏本番の暑さの中、それはやってきた。

 一日頭をフル回転させるような夏特の初日が終わり開放感に喜ぶが、一番暑い時間に帰るのを嫌がって、炎天下よりは暑さがましな教室で俺は友人達と話をしていた。

「梶君…ちょっといい?」

 俺をそっと呼んだ女の子はひっそりと教室のドアの横に立っている。教室には他に人がいなかったからあまり大きくない声もはっきりと聞こえた。

 相原に巻き込まれて出来た友達との話を切って立ち上がる。居場所のないようなたたずまいが少し可哀相になって、早く別の場所に移動させてあげたいと思った。

「ちょっと行ってくるから」

 仲間たちは特に冷やかしもせず、手を降って「行ってこい行ってこい」と言う。背後で新しい話題に移るのを聞きながら、女の子の背に手を添えるようにして教室を出た。

「どうしたの?」

 教室移動のときに使われていて、皆が早く帰ってしまう夏特のこの時間帯にはあまり人が寄り付かない学習室を選んだ。

 恋に悩む子に惹かれるうちに、どういうわけかいつの間にか女の子の相談相手として名前が売れ始めてしまったらしく、何回か相談にのったときもこの部屋を使っていた。

 窓が閉めっぱなしでじっとりとした空気が部屋にこもっている。

 しんとした部屋に、開け放したままの二つのドアから運動部の掛け声が遠く響いてくる。日蔭になっていて少し薄暗い部屋からは、外からの光が差し込んでいる廊下がやたらと眩しかった。

 目の椅子に前に座る女の子は何も言わない。

 ゆっくり待つつもりで視線を近くの窓から外へやる。ほぼ真上にある太陽が校舎の北側にある地面を焼いていた。

 時間が止まってしまったような静かさに、だけれど背中を一筋の汗が滑り落ちるのを感じた。

「……好きな人がいるの」

「うん」

 ようやく放たれた言葉はどこか弱々しかった。それに視線を戻すと女の子は両手にハンカチを握って、口元に持って行った。

「だけど……彼の周りにはきれいな人がたくさんいて……」

 俯いたままの表情はわからない。

「わ……私なんかが、敵うような相手じゃなくて」

 小刻みに震える肩が苦しみを伝えてくる。

 苦しいんだ。苦しくて楽になりたいのに、そうできなくて、苦しがってる。

 勝手な想像かと思われるかもしれないけれど、痛いほど彼女の気持ちが伝わってくる。

 けれど俺は知っている。相談しに来る子たちが楽になれないことを。俺にできることは話を聞いてあげて、背中をほんの少し押してやることしかない。結局のところ苦しさを拭ってやることはできないのだ。

 結局のところ、その苦しさをどうにかするのは彼女たち本人にしかできないのだから。

「……どうすればいいの、か、わからない……っ」

 椅子に座りながら身を二つに折るようにした彼女の肩から長めの髪がするりと落ちて、細い首が露出する。それを見て切ない気持ちになった。みな一様に彼女たちはかわいい。かわいくて守ってあげたいような気になってしまう。

 そんな気持ちに後押しされるように座っていた机から降りて、震える肩に手をかけた。

「話を聞いてあげることしか出来ないよ? 俺には何かしてあげることはできない」

 恐る恐る顔を上げる彼女の目を捕らえて言うと、それでも彼女は頷いた。

「誰かに……話を聞いて、もらいたくて」

 切れ切れに言う様に胸が一跳ねした。

 それをごまかすように肩から手を離して話しかけた。

「それでもいいなら、話だけでも聞くよ」

 ズボンのポケットに両手を突っ込んで薄く笑うと、彼女も体を起こしてぎこちなく笑った。

「ありがとう」

 そんな言葉一つに心が温まる。

「そういえば名前は?」

「藤田早紀<ふじたさき>」

 それが藤田早紀との出会いだった。




 □ □ □ □ 




「やっと夏休みだー」

 体をうんと伸ばすとなんだか疲れが少しだけやわらぐ。

 一週間に及ぶ夏特が終わり、明日の終業式が終われば晴れて夏休みだ。夏の開放感に周りのみんなも嬉しそうな顔をしている。

「梶は休み中何するんだ?」

 さすがに夏休み直前に生徒会役員をこき使うのは嫌だったらしく、珍しく相原もホームルームが終わって集まって来た女の子たちを散らして、そのまま帰る支度をしている。

「俺? 俺は明後日から一ヶ月間バイト入れた。相原は?」

「こっちは十一月の文化祭に向けて生徒会の打ち合わせがちょこちょこ入るんだよなぁ」

 面倒臭そうな言い方なのにやりがいを感じているのか、どこかやる気を感じさせる口ぶりだ。

「そういえば文化祭なんてあったっけ」

「この間何出すか決めただろ」

 無責任な俺の発言に、けれど相原は笑った。

「お前らしいな」

 相原は相変わらず一匹狼的な俺を容認してくれるし、それとなくフォローしてくれる。我ながらいい友人を持ったものだ。

 そのまま話しながら教室を出る。校舎から出ると暑い陽射しに一瞬くらっとした。

 一番暑い時間に帰るのは自殺行為のような気もしたけれど、じりじりと肌を焼かれるのを感じながら俺は相原と歩き出した。



「れいいちー」

 夕飯の片付けも終わった頃になっても、夏の空気はほんの少し涼しくなっただけだ。その中でクーラーも入れずにベッドに腰掛けながら雑誌を読んでいると、階下から声がかかった。

 読んでいた雑誌から視線を外さないまま、開いたままの部屋のドアに向かって声を張り上げる。

「なんだ?」

「藤田さんから電話」

「今行く」

 雑誌を置いてベッドから降りる。階段を降りると、智也が保留にした子機を渡してくれる。それを手にそのまま階段に腰掛けた。

「もしもし」

『あっ梶君?』

 どこか弾んだ声に眉をひそめる。

「どうしたの? 今日は」

『また話を聞いてもらいたくて……』

「……うん」

『明後日の木曜日、都合いい? 会える?』

「構わないよ。明日でバイトは終わりだから、時間はいつでも空いてるよ」

『……どこで待ち合わせよう。いつものところでいい?』

「いいよ」

『じゃあ木曜にいつものところで待ってるね』

「うん、じゃあ」

 どことなく覚える違和感をそのままに、ごくごく短い約束を取り付けるだけの会話はそのまま打ち切られた。

 子機を所定の位置に返そうとリビングに入ると、テレビを見ていた智也が声をかけて来る。

「最近よくかかってくるね、藤田さんから。今度の人?」

 弟の智也もよく俺のことをわかっている。こうして比較的頻繁に女の子から電話がかかってきても、決して俺に彼女ができたなんて思わないのだ。

「そうだよ」

「ふーん。玲一って優しいよね」

 女の子の相談にのっていることがわかりきっている智也は、笑いながらそんなことを言うのだ。

「男が女の子に優しくするのは当たり前だろ?」

 当然のようなセリフを言うと智也はおかしそうに笑った。

「それ、相原さんみたいだよ」

「あいつと一緒にするな。俺の方が紳士だ」

「はいはい、そうだね」

 俺を軽くあしらうようにして智也は再びテレビ画面に視線を戻した。それを見て俺も部屋に戻るためにリビングを出た。

 夏休みに入ってから、一週間に一度か二度の頻度で藤田早紀から連絡が来るようになった。用件は相談したいから会えないかということで。会って何をするかと言えば相談自体は初めの方だけで、段々と世間話のようになってくる。

 何かが違う。

 その違和感は割と初めの方からあった。今までの女の子みたいな切なさを藤田には感じないのだ。

 それが何か危険信号のようなものを発していて、藤田と接すること自体をためらわせているようだ。けれどそんな不信感を抱きながらも、苦しんでいる女の子を放っておくことは義務感から出来なかった。

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