第6話
藤田との別れ際、駅近くの交差点の赤信号で足を止めた。
「今日はごめんね……。せっかくの休みだったのに」
彼女が謝ったのは、何を隠そう俺が今日の待ち合わせに遅れたからだ。
夏休み初日から昨日まで一ヶ月に渡って一日四時間の労働を日曜以外週六でこなしていた疲れが出たのか、朝起きられなかったのだ。目覚まし時計も途中で止めてしまったらしく、智也が友達と出かけるからと言いに来たときにようやく目を醒ました。
寝ぼけた頭で、そういえば今日約束があったような……というとこまで考えて、はっと飛び起きた。ベッドヘッドに置いてある時計を掴んで時間を見ると、既に待ち合わせ時間の十一時半をまわっていた。
やばい、ととっさに思って、まずしたのは藤田に携帯電話に連絡することだった。電話に出た彼女は当然既に待ち合わせ場所に来ていた。
申し訳なくて謝り倒した後、待ち合わせている駅の近くにあるファストフード店に入っているように伝えた。
電話を切った後に、急いで着替えて、顔を洗って、幸いなことに寝癖は付いていなかった髪を整えて、まさしく転がるように家を出たのだった。待ち合わせ場所に着いたのは十二時半近くになってしまい、その場でも謝り倒して彼女に笑われてしまった。
その後、混雑した昼時の店で朝昼兼用の食事をしながら、彼女の話を聞くこととなったから、いつもよりも一緒にいた時間が長かった。話す彼女の姿にいつものように違和感を覚えていたが、いつものように相談にのって今に至る。
信号が青に変わるのに合わせて横断歩道を渡った。
「いや、謝らないでよ。遅刻したのは俺なんだからさ」
「でも、バイトで疲れてるのに呼び出したりしたから」
そう言って見上げてくる顔に胸がどくんと弾んだ。瞳にどこか熱っぽさのようなものが宿っている気がして、ぎくりとする。
藤田の顔を見ていられなくてとっさに顔を前方に戻した。
横断歩道を渡り切って少し行ったところで、どちらからともなく足を止めた。目の前には駅がある。
「ごめんね」
そう言って彼女が再び顔を上げたときには、既に普通の瞳に戻っていてほっとした。何を見間違えたんだか、と自分に悪態をついて気を取り直す。
「いや、本当に悪いのは俺だから。だから、ね? そういうことにしておいて?」
頼み込むようにすると、くすくすと笑う彼女がようやく折れた。
そうして笑っている彼女を見て、ふと思い出す。
『私なんか……敵わない』
初めて会ったときの言葉。好きな人の周りには綺麗な人がいて、とても敵わないと言っていた。
でも、そうかなぁと思うのだ。にこやかな表情を浮かべる小柄な藤田は、そのままでも十分かわいい。肩より少し長いくらいの髪は綺麗な茶色に染められていて、ギャルほどきつい化粧をしていない顔によく似合っている。
もう少し自分に自信を持ってもいいと思うのだが。
そんなことを考えていると、声をかけられた。
「梶君?どうかした?」
「あ、別に。ちょっとぼうっとしてただけ」
「そう?」
「うん。……あのさ、藤田さん」
「何?」
俺と藤田は電車が逆方向だから、何か話そうとするとそのまま立ち話をするしかない。そうして話を切り出そうとしたとき、駅の方から声をかけられた。
「あれ、梶」
「相原」
声の主は相原だった。
近づいてくる相原に、言いかけた言葉を飲み込んで藤田を見るとなんとなく辛そうな顔をしていた。「……もしかして」と小声で話しかけると、彼女は頷くともつかない動きをして顔を俯けた。
嘘だろう?
冷や汗が吹き出してくるような気がした。出会って四年目にしてこんな日が来るとは思わなかった。
「何してんだ?」
「相原こそ」
「俺はちょっと洋書を買いに。……と」
近くまでやって来た相原は、そこで俺に連れがいることに気付いたようだ。
「あれ、藤田?」
それがあまりにも驚いた感じだったのと、相原が彼女の名前を知っていたことに、俺の胸がまた一跳ねした。
どうやら、そういうことらしい。
事情を悟った俺は藤田に「自信持って」と耳打ちして、不安なような何とも言えない自分の気持ちを押し隠すようにしてその場を離れた。
背後から「あ? おいっ梶?!」という相原の声が聞こえたけれど、振り返らなかった。そのまま駅へと行き、ちょうど来た電車に飛び乗った。
□ □ □ □
その翌日、智也が友達の家に勉強しに行ってしまったので、広い家で一人本を読んでいたらインターフォンが鳴った。玄関側にある窓から外を見ると、そこにいたのは相原だ。向こうもこちらに気付いて顔を上げる。
「今開ける」
階段を降りてそのまま玄関のドアを開けると、相原は「よう」と言いながら入って来た。
夏休みだからか、眼鏡はかけていない。綺麗な顔がさらけ出されていて、もう見慣れてしまった普段の姿と違うように思える。
「どうしたんだよ? いきなり来るなんて珍しいな。何飲む?」
「あー、麦茶で」
「麦茶な。先に俺の部屋行ってろよ」
「わかった」
相原に入れるついでに自分の分も入れて部屋に入ると、相原は椅子に座っていた。その側の勉強机に相原の分を、ベッド脇の簡易テーブルに自分の分を置いて、相原に対面するようにベッドに腰掛けた。
「知ってたのか?」
いきなり切り出されて、何のことかさっぱりわからなかった。
「何を?」
「あの女だよ。藤田早紀」
「藤田さんがどうかしたのか?」
あの後何かあったのだろうか。自分としては二人をうまくいかせようと気を使ったつもりだったのだけれど。
「知らなかったのか」
はぁ、と相原はため息をついた。
それに緊張してしまう。
なんとなく相原が怒っているような気がした。表情や態度にはそれらしき様子はないのだけれど、少し冷や汗が出るのを感じた。喉がやたらと渇く気がして、麦茶に口を付ける。
「あの女、お前のこと狙ってたんだよ」
今度は明らかに不機嫌そうな声だった。綺麗な顔の眉がひそめられている。
「は?」
一方の俺はまぬけにもそんなことしか言えなかった。
「藤田さんが俺を?」
「そうだよ。おかしいと思って昨日問い詰めたら、白状した」
「おかしいと思ったって……」
「藤田の友達の横矢<よこや>って子が俺のファンなんだよ。だから藤田も俺の周りによくいたし、横矢から藤田はお前のことが好きだってことも前から聞いてて、知ってた」
自分にファンがいることをあっさりと言ってしまうとこや、こんな場合でも自分のファンは「子」で、そうじゃない藤田には「女」と使い分けているところに、むしろ毒気を抜かれてしまう。
「でもお前が女といるときは相談されてるときだし、彼女が出来たって話も聞いてなかったから。だからおかしいと思ったんだよ」
そこで相原も麦茶に口を付けた。
「そしたらあの女『好きだったから、なんでも利用したかったのよ』って言ったよ」
苦笑する相原の言葉に俺はほっと息を吐き出した。
「なんだそうだったのか。よかったよ。俺は、藤田さんは相原のこと」
「よかったのか?」
俺の言葉を遮るようにして、相原が聞いてきた。
「藤田さんが相原のこと好きなんじゃって思ったときは、さすがにひやっとしたけど」
「藤田を好きだったからか?」
核心に触れられるような切り込み方にどきっとしたけれど静かに答えた。
「違うよ」
確かに初めは苦しんでいる姿に惹かれた。それは本当だったが、どこかで歯止めがかかったのも事実だった。
「彼女のことは本気で好きなわけじゃなかった。さすがに藤田の好きな人が相原だって思ったときは、どきっとしたよ。そんなことになるなんて全然考えてなかったから。だってお前と俺の間に一人の女の子が入るんだぞ? だからひやっとしたけど特別な感情は持ってなかった。……だから別に俺は傷ついてないよ」
「どうせまともな恋愛も出来ないのに?」
どこか吐き捨てるような言いように驚いたが、相原の顔には後悔の色が滲み出ていて、俺は薄く笑った。常々自分が思っていることは、自分のことをよく知っている相原に言われても傷つきはしない。
「まともな恋愛はしたことがない。それでも好きな人を応援できるから、俺は……そういう意味では傷つかないよ」
そう言うと相原ははっとした顔をしたが、複雑な感情が入り交じって攻めぎあってるようで、次に発された言葉もどこか投げやりな言い方だった。
「お前キスもセックスもしたことないんだろ? 教えてやろうか」
「え?」
何を言われたのか一瞬わからず固まってしまった俺に、相原が椅子から立ち上がって近づいてきた。
相原とは違ってほんの少し茶色味を帯びた俺の長めの猫っ毛に、手がかかる。避ける間もなく相原の顔が近づいてきて、柔らかな感触が唇にあった。ほんの一瞬だけ触れてそれは離れていく。
そのまま相原は何も言わずに部屋を出ていった。
俺はやっぱり何が起きたのかわからず、ベッドに腰掛けたまま固まっていた。
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