処罰は下さなければならない
*
少女は一週間ほど前のことを思い出し、また涙を流した。何度思い返しても、溢れるものは絶えなかった。
少女の脳内に張り付いた記憶はそれであったが少年が最も強く想起する記憶はさらに昔、十年以上も前の物だった。
温かくなりつつある季節、少年は人目を避けて森の中を駆けていた。少年の家は森の中に隠れるように作られた《ファー》の集落から離れたところにあり、生活用品を取引するにはかなりの距離を移動しなければならなかった。まだ幼いとはいえ、すでに長距離移動するには十分な身体能力を手にしていた少年は親の手伝いとして《ファー》同士の交流に使われている規模の大きな集落に向かっていた。
そんな時、がさがさ、と草が揺れる音が鼓膜に伝わった。何らかの動物だろうか。物々交換に出せる肉になりうるだろうか。少年は音の方角に向かった。
音の主のもとにたどり着く。少し血の匂いがする。がさがさと草を揺らしていたのはウサギでもイノシシでもなく、自身の敵対している種族であるヒトの少女だった。道にでも迷ったのか目に涙をためてふらふらと彷徨っている。転んだのかボロボロの上下が一繋ぎになったスカートの服から露出した足は傷だらけだった。
唯一の肉親である母親から“人間は敵だ”と、“父親を殺し、仲間を狩り続ける悪魔だ”と教えられていた。もしも森の中で出会ったら背後から襲って殺し、集落に持っていけばかなりの高値で取引できるとも。しかし、少年には少女がどうしても、どうしても殺すべき悪魔に見えなかった。
「君、何してるの?」
少年は興味から少女に声をかけてみた。声をかけた瞬間、少女の体は硬直する。脅かしてしまったのだろうか。少年は少女に歩み寄る。少女はぎこちなく振り返ったが少年の姿を見ると怪訝な表情になる。
「人間じゃないの……?」
「《ファー》って種族、知らないの?」
「……初めて見た」
少女は物珍しげに少年の姿を見つめると彼の毛だらけの腕に手を伸ばした。少年は瞬時に手を引っ込めて少女の手を躱す。
「……あ、ごめんなさい」
「いや、違うんだ」
申し訳なさそうに目を伏せる少女に対して少年は取り繕うように言葉を続ける。
「君たち人間が俺たち《ファー》に自分から触れたことがばれたら穢れたって言われて殺されちゃうよ? 前にそんな人間がいたって話を聞いたことがあるんだ。俺たちは人間に嫌われてるから」
少女はきょとんとした表情で少年の言葉に耳を傾けた。
「でも、ここには私とあなたしかいないよ? だから触っても怒られないよ?」
確かにそうだ。笑みが込み上げる。こんな森の奥深くに来る人間はほとんどいない。いたとしても自分の聴覚なら相手に気づかれる前に察知することができる。少しだけ少女と話してみたいと思えた。
「君はどうしてこんなところにいるの? 道に迷ったの?」
「知らないおじさんたちに連れてこられたの。でも置いていかれて帰り道もわからなくて」
少年は少女の服を見る。衣服に興味を示さない《ファー》の目から見ても安っぽい素材で敗れているところ以外にもほつれが見える。おそらく人間の中でも身分が低いのだろう。
「多分あの人たち、お父さんが嫌いなんだと思う。お父さんと喧嘩してたから。それで私を引っ張って森まで連れてきたの。お父さんに意地悪したかったんだと思う……」
どうやら彼女の父親と敵対している人間による嫌がらせらしい。嫌がらせというよりは規律で罰せられてもおかしくない。人間の規律はわからないが。少年は少女を抱き上げる。
「俺が君の街の近くまで連れて行ってあげるよ。どこから来たの?」
少年は少女の話を聞くと、彼女を背に捕まらせて地を蹴った。少女の家は少し遠いが十分走れる距離だ。彼女を送り届けてから集落に行ったら帰りは遅くなる。母親にはどう言い訳しよう? 一瞬そう考えたが、すぐにどうでもよくなってしまった。母の説教よりも、人間の少女に対する興味が勝った結果だ。
「君の街に着くまででいい。よかったら人間の世界のことを教えてくれないか? 人間からしたら俺と話すことは嫌かもしれないけど」
「嫌じゃないよ? 私、あなたともっと話したい。お友達になりたい。また会いに来てもいい?」
少年はその言葉に耳を疑った。少女を送り届けるべく動かしていた足を止めるほどに驚いていた。
「何言ってるの? 君たち人間は本当は俺たちと関わっちゃいけないんだろ? 俺たちは敵だって親に聞いてるんだろ?」
「でも、あなたは私に何もしなかったよ? 《ファー》がみんな敵なんてことはないんでしょ? あ、他の人に見られるのを心配してるなら、誰もいないところでだけ会うから!」
少女の言葉に反論する術はない。少年はまた走り出した。獣道を、駆ける。
「ホントにいいんだね? 俺なんかと友達になっていいんだね?」
元気に肯定する少女の声が耳に入る。自分たちを否定しない人間に会えた。家族の言うように、《ファー》を狩る者ではない人間に出会えた。それが嬉しくて視界がぼやけた。
それから少年と少女は合う回数を重ねた。他の人間や《ファー》に見られることがないように常に周囲に気を配りながらであったが、二人はそれで満足であった。種族の壁があれど友情には何の支障はく、互いにかけがえのない存在となっていった。
*
少年は過去の少女から、今格子の向こうで嗚咽を漏らす少女に意識を向ける。檻の隙間から出した爪で自分と比べて小さい少女の涙をぬぐった。少女は指を掴み、頬を摺り寄せる。
「俺は君に感謝しているんだ。俺と友達になってくれた君に。返しきれないほどの感謝を。もう何度も言ったことだけどね」
「わかってるけど……。そうだ、今からでも真実を話して」
「だから。君がいくら主張したって犯人は全員俺が殺したんだし、信じてくれないって。それに……どんな事情があれど俺のしたことは罪なんだ。たくさんの人間を殺したんだ。俺が《ファー》だからとか、もう関係ないよ。きっと人間でも処刑されるさ。それは処刑人の家系の君ならよくわかってるだろう?」
少女は頷く。そのたびに涙がこぼれて冷たい石造りの床に染みを作る。彼女の眼はうかがえないが、きっと自分の想いを受けっとってくれた――そう信じたかった。
「わかった、わかったよ」
「ありがとう、幸せになって」
それが俺のやり方だ。少年は常日頃から考えていた。少女をあの階級、あの仕事から救うにはどうすればいいのだろう。他の人間からは敵として扱われる自分はどうすれば彼女を一人の人間として扱われる人生を歩ませることができるのだろう。今回の事件は偶然にも状況が整っていた。人間を殺した《ファー》を殺せば英雄となれる。ずっと昔にそうやって上流階級に上り詰めた処刑人もいたらしい。ずいぶん昔に少女に聞いた。彼女を守るには自分を捨ててでも、人間の法律を利用するしかなかった。
指から少女の手が離れる。懐中時計を開いて息をのむ。
「もう朝が近いの」
「そっか。じゃあもう戻らないとね。こんなとこにいるのが見つかったら――」
「わかってる。わかってるよ」
何度もわかってる、という少女を見て顔がほころぶ。“わかってる”というのは彼女の口癖のようなものだった。泣くときは何を言ってもわかってる、と強がるのだ。そんなところも愛おしい。
少女は涙を拭って笑顔を作った。
「いままでありがとう。でも、二人で幸せになりたかった」
その笑顔はどう見ても作られたもので、壊れそうだった。
「俺の方こそありがとう。きっとつらいこともある。でも。君なら一人でも必ず幸せになれるから」
目頭が熱くなる。少女は走り去った。自分一人しかいない牢獄にドアの閉まる音が響く。
冷たい壁に体を預ける。毛皮でおおわれているとはいえ、体の芯から冷えていく感じがする。ずっと二人で生きてきた。その相手と会えるのは自分が殺されるときのみ。また過去に意識を飛ばす。とても幸せだった。よく二人で森で遊んだ。倒木に座って彼女の買ってきた人間の食べ物を食べた。そして、よく二人で階級も種族も差別されない場所を探して死ぬまで一緒に暮らしたいと話していた。その笑顔を守りたいと思った。ずっと、ずっと――
そして、気づいた。少女の幸せは自分なしでは満たされないことに。
そうだ。彼女もずっと言っていたじゃないか。二人でいることが幸せだと。何度も何度も何度も何度も言っていたじゃないか。少年と会うたびに、口にしていた。人によっては彼女の言葉が嘘くさく聞こえるほどに、人によっては聞き飽きてしまうほどに。
「俺は、君の幸せを奪ってしまったのか」
誰もいない、冷たい地下牢に少年の咆哮が響く。初めての号泣、慟哭であった。人を殺したときも、警団に捕縛され、死刑を宣告された時も、一度たりとも泣かなかった異形の少年は、初めて涙を流し、吠えた。
確かに少女は守られた。生命の危機を脱し、少年を処刑した後、《ファー》を殺した英雄として、普通以上の階級で生活していくことになるだろう。石を投げられることもなく、罵声を浴びせられることもなく。一定の、いや、かなり地位の高い仕事について生きて行ける。処刑人の仕事からも解放され、警備のしっかりとした地区に住めるだろう。反政府団体に襲われるということもないはずだ。
確かに命や生活を守ることはできた。だが、幸せを守ることはできなかった。彼女の幸せは少年と共にあり、その少年を処刑するという責務を負わせてしまった。少女が自分を忘れない限り、幸せにはなれない。彼女にはきっと少年を忘れることはできない。俺が彼女の幸せを奪い、これからを壊してしまった。
少年の号哭は冷たい壁に反響し、ついには松明の光に吸い込まれて消えた。
*
空は晴れていた。雪は溶けだし、緑色の草が顔を出していた。広場の処刑場には多くの人が詰めかけていた。人間を何人も食い殺し、処刑人の男性に重傷を負わせ、その娘を食い殺そうとした《ファー》の少年が処刑される。人々の胸中は様々であったが、どれも少年の死を楽しみにしていることは確かだった。
沸きあがる歓声や怒号に囲まれて少女と少年は佇んでいた。罪人の首を切り落とす斧の点検を行う処刑人の少女。ぼんやりと少女を見つめる、堅牢な枷と首を固定する器具に繋がれた獣の少年。両人とも目が腫れていた。
友人の幸せを願い、それを壊してしまった者。その者を手にかける処刑人。二人の思いは誰にも知られることはない。
執行時間を告げる鐘が鳴る。いっそう高まる群衆の声。少女は少年に歩み寄る。少年は自嘲するように口元を緩め、目を閉じた。少女は少年を見張る警団の団員と目配せした後、きっ、と口を結び、華奢な身体に不釣り合いな斧を握る両腕に力を込めた。
飛び散った血で溶けた雪の下ではフキノトウが顔を出していた。
エンゼルランプとフキノトウ 南雲 楼 @nagumo_low
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