焚書局 6


「……ふう」

 真弓は大きく伸びをした。背骨がぽきぽきと音を鳴らす。

 廊下から差し込む西陽が、部屋中をオレンジ色に染めている。この光を防ぐためだろうか、書棚には遮光カーテンが取り付けられていた。

 床に積もった紙の山を見遣って、真弓は嘆息した。裁断カッティングスキャナで読み込んだあとの本の残骸だ。別に本が惜しいわけではない。物理書籍としての体裁は永久に失われたが、内容は表紙を含め完全に保存されている。

 ただ、この紙の山が、書庫全体からするとごく一部に過ぎないという目の背けようのない事実だけが、真弓の心を打ちのめしているのだ。もう二時間も前から、擬感情エミュフィールが退屈だの、飽きただのと騒ぎ立てていた。

 だが、まだやれるはずだ。擬感情はあくまでも、存在しない感情の模倣に過ぎない。感情を封じ込めた真弓たちが、正常な判断を下すための参考でしかないのだ。どこにも存在していない感情に気を遣って、気分転換をする必要はない。

(平板化さまさまだ)

 真弓はあまり根気強い方ではない。むしろ、かなり飽きっぽい方であると言えた。普段の精神状態で作業に当たっていたら、三時間としないうちに音を上げていただろう。そんな真弓の精神を強固に保持するのが、平板化技術の力だ。どう考えても仕事に向かない性格の真弓も、一応は真面目に職務を遂行できる。

 ちなみに、資料室というだけあって、物語フィクションの類は見当たらなかった。残念だ。

 腰から付属義肢アペンデージを展開し、滑車付きの書棚を移動させる。潤滑油が揮発し錆び付いた滑車の軋む音に、擬感情が不快を表明した。

(ちょっとうるさいな)

 うるさいというのは、滑車のことではない。

 認知誘導がうまく機能していないせいだろうか。自分の内なる声、存在しない声を無視できない。擬感情が苦痛だった。

 そういうわけで、なんだか頭がくらくらして、作業がおぼつかなくなってきた。

 言い訳のしようもなく、休憩が必要だ。真弓は廊下に歩み出ると、もう一度伸びをした。

「どうしたんです? 不調ですか?」

 振り返ると、一緒に作業をしていた梧桐が、不思議そうに見ていた。

「うん、ちょっとね。梧桐は大丈夫?」

「ええ、まだいけますよ。腰は疲れてきましたけど」

「ああ、ここの書棚は重いよね……」

 焚書官の神経直結付属義肢アペンデージは、腰椎の埋め込みインプラントソケットと直結することもあって、筋電位を読み取る皮膚装着型の付属義肢と異なり装着箇所の融通が利かない。独立して、しかも器用に動かせることは大きなメリットだが、今は腰にかかる大きな負担がそれを帳消しにしていた。

 つまり腰が痛い。

 真面目な話だ。

「君も休憩したほうがいいよ。そのための擬感情なんだから」

 感情を封印したら、人間は合理的な行動ができる。なんとなくそう思いがちだが、実際のところそうではない。不合理極まりない行動を、何の疑問も持たずこなすようになる。それだけだ。人間の脳は、もともと合理的にはつくられていないのだ。

「そうですけど、これじゃあ夜になっても終わりませんよ。まだ二部屋目なのに」

 だが、梧桐の懸念はもっともだ。今夜中には四階A棟での発掘作業を終える予定だったというのに、まだ二部屋目に取り掛かったばかり。これではいつになれば終わるのか見当もつかない。この研究施設は二十四階建てで、しかもA棟からE棟まであるのだ。前回の探索斑が四階までしか発掘を終えていないと聞いて、真弓は内心首を傾げたものだが、いまや完全に得心していた。四階はむしろ上出来だ。

「まさか、こんなにぎっしり詰まってるなんてね……」

 真弓たちの常識からすると、これは考えられないことだった。まず第一に、研究にこれだけのスペースが使われているということが想像の埒外だった。現代において、科学技術の研究とは、そのほとんどがユグドラシルによる計算を意味するからだ。そして……

「これだけの書物が、ですね。図書館ってのも、こんな感じだったんですかね」

 これほど膨大な量の書物を見るのは、真弓にとっては初めてだった。梧桐もそうだろう。

「さあ……書物の所蔵が目的だったそうだから、もっとたくさん置いてたんじゃないかな」

「百年も経ってない昔ですよね。まるで別世界みたいだ」

 長丁場になると判断したのか、梧桐も部屋から出てきた。出入り口の横には、『4F第七資料室』と書かれている。……少なくとも、あと五つは似たような部屋があるらしい。

「別世界だよ。昔の世界には当たり前にあったものが、この世界にはない」

「物語ですか」

「……うん」

「何なんでしょうね、物語って」

「まあ、情報……だよね。真実じゃない……つまり、虚構の」

「嘘なら俺だってつきますよ、たまに。でも、単なる嘘は物語とは違う」

 真弓は表情を引き締めた。梧桐はときどき、いやに鋭いことを言う。

「精神を汚染する模倣子ミーム。人間を操る文脈……力ある言葉」

「マインド・ウイルス」

「かもしれないね」

「世界大戦を引き起こすミームって、いったいどんなものなんです。平和だった世界をあっという間に地獄に変える。それじゃまるで洗脳だ」

 〈レポート〉はテキストだったと言われている。音楽でも映像でもなく。単なる文字の組み合わせが、そんな力を持つことがありうるのか。

「〈レポート〉は、本当にテキストだったのかな」

「わかりませんよ、もう。知ってる奴はみんな死んだんですから」

 〈レポート〉自体は、おそらくオールド・ネットに残っているのだろうが、それを探す手段も、安全に読む手段もないのだ。

 ふと、冗談のような思いつきが浮かんで、真弓はその通りに口を動かした。

「〈レポート〉がAAアスキーアートだったとしても、僕は驚かないなあ」

「なんです、それ」

「知らない? えっと、テキストアートっていう……」

 梧桐にどう説明するべきか考えていると、窓の外で何かが動いた。

 突然、西の空に赤い光が──夕焼けよりもなお赤く──瞬いた。

「通信弾だ」と梧桐が呟く。緊急の場合以外には使われない、打ち上げ式の短距離通信中継機だ。

 咄嗟に情報総合端末ターミナルを取り出し、スリープを解除する。

「通信圏外……」

 だから通信弾を打ち上げたのか。あまり性能はよくないが、音声だけなら地形を越えて伝えられる。だが、なぜ長距離通信が使えない?

「おかしいですね。一時間前には、電波は届いてましたよ」

 不吉な予感を覚えるのとほぼ同時に、強力で不躾なノイズの嵐がインカムに叩きつけられ、別の班とチャンネルが繋がった。

「いっ……」

 続けて、鼓膜が破れるかと思うほどの破裂音が連続して響いた。すぐに補正ソフトウェアが音量を調節したが、甲高い音が既に耳の奥に張り付いて離れない。

 何が起こっているんだ。真弓は雑音に耐えながら耳を澄ました。

《誰か聞いてるか──聞こえてるか?》

 ノイズの向こう側から声が聞こえた時、真弓は腹の底がきゅっと締め付けられるのを感じた。雑音混じりで聞き取りにくいが、それは確かに舵上の声だった。その切羽詰まった声が、不吉な予感を増幅し、分裂させて、真弓の心の中を埋め尽くしていく。

《聞こえているなら応答してくれ! 撃たれてる!》

 思わず梧桐と顔を見合わせる。

 撃たれていると言ったのか?

 つまりこの破裂音は、銃声なのか。そういえば、ライフルを撃つ時もこんな音がしていた。だが、今回の仕事は発掘のはずだ。戦うとしても、せいぜい熊がいいところだろう。そのはずだった。

《このままじゃ……くそ、班長!》

 ノイズ混じりの声が、急速に遠ざかっていく。受信レベルが下がっている。

 空に視線を戻すと、赤い光が予想より早く高度を下げていた。落下傘がうまく開かなかったのだ。

 真弓は慌ててインカムのダイヤルを回し、双方向通信に切り替える。

 増殖した擬感情が、心の隔壁を突き破って溢れていた。正常な判断ができているか自信がない。

「舵上? 誰に撃たれてる?」

《真弓か!? 助かった……! 通信弾は見えたか? 俺たちは〈虫〉の西側──ビル群の中にいる。それ以上はこっちにも……地図が読み込めなくてな》

「わかってる。見えてるよ。敵は……敵は誰なんだ」

 火器を所持しているとなると、普段相手にしているような物語保持者ホルダーではない。真弓は敵の姿を想像しようとしたが、その輪郭はあまりにも不明瞭で、恐怖を煽るだけだった。

《それが、敵は……んの……》

 ノイズが支配的になり、声が聞き取れない。

《敵は……》

 通信弾の光がビルの間に消え、同時に舵上の声も途切れた。

 もうインカムはノイズを吐き出すばかりで、どれだけ耳を澄ましても、誰かの声が聴こえることはなかった。

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終末のレポート 鉈音 @QB_natane

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