焚書局 2
■
人を殺した夜は、決まってあの夢を見る。
僕は暗い部屋にうずくまっている。色はなく、ただ暗い。抱えた脚のすぐ前には、一冊の本が置かれている。皮で装丁されたとても古い本にも見えるし、あるいは安物の文庫かもしれなかった。
その本は、僕に開かれるのを待っている。
「読まないのか」と、父さんの声が聴こえた。何かの物語を読んで、そのまま帰って来なかった父。
「読んだら、父さんと一緒になっちゃうからね」と僕は答える。「死ぬのは嫌なんだよ」
父さんは、自分をよく見てみろ、と呆れたように笑う。すると僕の体は文字になっていて、僕は甲高い悲鳴をあげる。
「大丈夫だ」と彼は微笑して──どこにいるのかさっぱりわからないが、微笑んでいることはわかる、これは夢だから──「みんなここにいる」
その言葉に僕は安心して、文字製の両目から涙を流す。涙が文字になってこぼれていく。50年前からこっち、物語に殺された人たち。物語に冒されていたから、僕が殺した人たち。みんな文字になって、物語の一部として残っている。そして僕も、同じ運命をたどるのだ。
その本は、僕に開かれるのを待っている。
僕は表紙を開く。その中には、僕が殺したあの青年もいて、安らかな微笑みを口元に浮かべている。
その本の表紙には、誰にも見えない字で、〈終末のレポート〉と書かれている。
■
泣いていることに気づいて、目が覚めた。
ぼろぼろ溢れる涙を袖で拭いながら、真弓はベッドから起き上がって、床に降りる。涙に悲しみは含まれていない。ただ、情けなかった。
冷蔵庫を覗くと、ちょうどミネラルウォーターが残っていたから、飲むことにした。こぽこぽ、と水音。グラスに流れ込む透明な水を見ていたら、ほんの少し、心が落ち着いた。
「また、あの夢だ」
ベッドに座って、天井を見つめて、ぼんやりと時を過ごす。心の中に、言葉は何ひとつ浮かんでこない。けれど、一度に飲み干すとまた涙が出てくる気がして、真弓は少しずつグラスに口を付けた。
昨日の夜、真弓は人を殺した。
それが仕事だったし、この社会にとっては必要なことだった。殺人は悪いことだとか、そういう話がしたいのではない。ただ、何かが漠然と恐ろしい。罰せられるのではないか、いつか自分も殺されるのではないか──そんな風に。
だから実行部隊は、
平板化技術は、感情の起伏を抑えてくれる。平板化している間は、殺傷行為に対する抵抗や、物語への恐怖を消し去ることができる。モチベーション維持のため、
化学物質を用いる平板化技術とは逆に、映像と音楽と言葉で暗示を掛け、人間の認知機能を恣意的に誘導する認知誘導という技術がある。まるでシャーマンの呪術だが、どちらかといえば重要なのはこっちだ。知覚したものが意識に昇らないよう調整できるし(探し物が目の前にあるのに見つからない時のことを思い出してくれればいい)、現実感を失わせる効果もある。殺人の記憶も、悪い夢、といった程度に考えて日常に戻れるという寸法だ。そして真弓は、その重要な方が効かない体質だった。
真弓の同僚たちは、最新の発掘技術で冷徹な心を手に入れる。難しいことではない。なにしろ
真弓は、物語を知っている。
この社会では、それは何よりも重い罪だ。真弓はそれを隠している。世界を終わらせかけた炎の種火を、心の裡に隠し持っている。
だから真弓には効かないのだ。
「あーあ、寂し……う、頭痛い……」
認知誘導があまり有効でない以上、真弓の心には別の障壁が必要だ。そのために真弓は、多量の
いまいち気分がよくならないので、ベッドの脇の棚から適当に薬瓶を取る。手のひらに数錠出してみると、目の覚めるような青色だった。成分はもう覚えていない。飲むと気分が改善する、くらいの認識でしかない。実際にその通りだから、真弓にとってはあまり問題ではなかった。
「いただきまーす……ん、さすがに
気分が乗らないと、独り言が多くなるのも困りものだった。絶対に明かしてはならない秘密を抱えているというのに、真弓の口には戸が立てられた試しがない。たとえ物語のことを明かさなくとも、諺や故事成語……そういったいかがわしい言葉を引用していると知れただけで、あっという間に反社会主義者の烙印を押されかねない。そうなれば、間違いなく足がつくだろう。大学で口を滑らせた時には、誰にも通じなかったのが幸いだった。
色々と考えていると、早くも気分が上向いているのに気づいた。脳は本当に化学物質で駆動しているんだな、と実感する。真弓はストレスが溶けていくような感覚に酔い痴れる。古くに言われていたような、物質世界から独立した神秘の器官は、人体のどこにも存在しなかった。
この時代においても、脳は代えの利かない無二の器官とされている。戦前の人工知能研究の果てにも〈電脳〉技術は生まれなかったし、意識をネットワーク上にアップロードすることも夢の果て。今でもせいぜい脳の一部を人工神経と置換するくらいの技術しかなく、物語に汚染された脳など完全にお手上げだ。
たとえば僕とか、と真弓は自嘲した。真弓の脳は、決して治せない病に侵されている。少なくとも、この社会における価値の上では。平気なのに、と真弓は思うが、今は平気でも、いつかは発狂するのかもしれない。真弓が殺した彼らのように。
彼ら。そう、彼は結局、何を言っていたのだろう。狂人の
……気分もよくなってきたことだし、少々調べ物をしてみてもいいかもしれない。
真弓は
「ユグドラシル、物語による精神汚染に
ターミナルに話しかけると、デフォルメされた少女のアバターが空中投射されて浮かび上がる。どこか得意げな表情で説明を始める彼女は愛らしいが、その正体は集積回路でできた科学の申し子だ。
《物語の作用については、どの国家でもほとんどの研究が凍結されています。理由は危険であるから》
「そんな無茶苦茶な」
出鼻を思い切り挫かれて、真弓は内心顔を顰めた。
人類の物語アレルギーは深刻だ。〈終末のレポート〉が蔓延したその日、人類は泥沼の戦争に突入した。結果として地球人口をおよそ十分の一にまで減少させた〈レポート〉は、文字で綴られた物語だったと言われている。逆に言えばテキストであったこと以外は完全に謎に包まれているわけで、人類がすべての物語を滅ぼそうと決めたのも無理からぬ話ではある。
数十年前までこの国でもごく普通に流通していた娯楽は、今やどんな兵器や薬物よりも厳重に扱われる病原体だ。物語はテキストや音声など、あらゆる媒体から人間の精神に侵入し、それを狂わせ、感染した人間自身の手によって複製されようとする。そう言われている。
そんな有害なコンテンツを根絶するために、世界中で様々な組織がつくられた。ここ日本においては、警察の下部組織として「焚書局」が設置されている。焚書局が持つ権限は次第に大きくなり、ほんの数年で独立した組織と言ってよいほどの規模に成長した。真弓はそこに所属していて、時折昨日のようなことをする。うんざりするような仕事を。
さっそく諦めかけた真弓に、しかしユグドラシルが親切にも提示したデータがあった。
《情報の確度は不明ですが、大規模な物語汚染の記録ならば一件だけアーカイブされているようです。ご覧になりますか?》
大規模な物語汚染。聞いたことがない。
もちろん、と真弓が頷くと、簡素なアイコンが表示された。ドラッグして保存し、ファイルを開く。
日時は西暦二千八十二年。戦争が終わった後の、ちょうど混迷期の只中だった。
□
最初に、記憶の喪失が見られる。次いで彼我の境界が曖昧になり、重度の混乱を来す。幻覚を見るようになるとコミュニケーションが困難となり、回復の見込みはない。
2082年1月24日、路上で16歳の少女が保護された。彼女は酷く混乱しており、自分の名前さえ口にすることが出来なかったという。医療機関に搬送された彼女は、記憶喪失と幻聴を訴えた。精密検査が行われたが、脳に異常はなし。
2082年2月17日。件の少女と同様の症状を呈する市民は30人余にも上った(添付資料1)。どの人物にも脳の異常は認められず、医師の処方も効果を成していない。重度の者には幻視の症状もみられる。
2082年7月24日。経過報告。同様の症状で収容される市民は100人を越えた(添付資料2)。現在のところ回復者はなく、原因も不明。捜査を継続する。
2082年9月20日。前任の■■■は記憶喪失及び極度の幻聴により捜査を退いた。以後は私、■■■■が本件の捜査を引き継ぐ。■■■は手帳にメモを残していた(添付資料3)。結論。本件は物語汚染である。
──第二東京機能都市における広域指定事件11番についての経過報告
□
……真弓は目眩を覚えた。記憶の喪失と、重度の混乱。これだ。
つまり彼は、狂気に呑まれる寸前だったということか。それとも単に彼が特別で、物語に耐性を持っていたのか。
いずれにせよ、これには重要な情報が抜けている。この症状を引き起こす物語。十年以上の時を経て再来したそれこそが、焚書局が探し求めている物語に他ならなかった。
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