終末のレポート

鉈音

序文


 幼い頃の記憶は、ほとんどない。だが強烈な印象とともに脳裏に焼き付いているのは、一冊の小説だ。そう、小説。英語でnovel. わかるだろうか。虚構を書き記した、いわゆる有害指定テキストの一種だ。

 その小説は、紙の本だった。当時でも、印刷媒体プリントメディアは珍しいものだったろうと思う。父の書斎にそれはあり、赤い背表紙には簡素な明朝体で片仮名のタイトルが刻まれていた。外国の本だろうか、そう思って手に取ったその本は、を帯びていた。

 1ページ目を開いた瞬間、何やら奇妙な文字列が目に飛び込んできた。混乱と困惑……それはそうだろう。今でこそ詩や歌の類であるとわかるが、当時の私に理解できる文では到底なかった。紙面には知らない漢字が数多く散りばめられており、何よりそれは、社会に存在してはいけない類いの文だったのだから。

 会社勤めの父は遅くまで帰らない。邪魔が入ることはなかった。だから幼い私は、初めて見る文章を貪るように読んだ──そして、あまつさえ読み終えてしまったのだ。

 陽が暮れる頃、帰宅した父は、私がその本を棚へ戻す瞬間を目撃した。彼の顔がさっと青ざめた意味を解するほど、当時の私は聡くはなかった。父はその夜食卓に現れず、翌日私は、自室で首を括っている屍骸を目にすることになる。

 当時の鈍感な私と言えど、あの日読んだ本が原因であることは、すぐにわかった。しかし件の本が有害指定テキストと呼ばれるものであることを知るには、高等教育を待つ必要があった。

 私はあの本のことを誰にも伝えず、ただ口を噤み続けた。ある日唐突に焚書局の刑事がやってきて、あの本を押収していった。




「錦木……錦木。……真弓。眠いのか?」

 誰かの声が耳元に聴こえて、閉じていた瞼を開く。錦木真弓。錦木というのは、僕の名前だ。眠っていたつもりはなかったのだが、何か夢を見ていた気がする。

 首を振りつつ、周囲を見渡す。揺れている。ここは鋼鉄製の虫の腹の中で、それはあながち冗談というわけでもない。戦後、日本には悪路が増えた。整備されなくなったからだ。車輪駆動だけでは、そういった道で満足な速度を出すことは難しい。小さく開いた窓を覗いてみれば、滑らかに駆動する、列車状の車体から突き出た何本もの脚が見えるだろう。

「作戦は?」

「五分後だ」

 隣で答えたのは同僚の舵上で、つまりさっきの声もこいつなんだろう。真弓は懐の情報総合端末ターミナルと腰の焼却剣鉈ナイフを確認する。ぴっちりと体に張り付くスーツの感触には、いつまでたっても慣れることがない。

「お前は怖く……いや、緊張してないのか?」と言う舵上の声は、少し震えていた。顔を見やると、薄暗くてよくわからないが、どうやら青ざめているようだった。

認知誘導カウンセリングは受けただろ」と真弓は言い、「心配ないさ」

 しかし無理もない。今から向かうのは、都市部から離れた廃棄区画──人間が足を踏み入れていい場所ではないのだ。舵上は明らかに、側の人間だった。

「〈物語〉を目にしても、僕らの脳はそれを認識しない。知覚はしても、それが意識に上ることはないし、記憶に残ることもない」

「だが──」

 珍しく不安そうな舵上に呆れていると、座席に伝わる振動が突然止まった。

「作戦開始だ」

 名前も聞かされていない上官の一声で、真弓たちは侵攻を開始した。




 真弓が小学生になる頃、戦争が終わった。半世紀以上に渡り、世界から破壊と殺戮の炎を絶やすことのなかった争い。人類が戦っていたのは、物語と呼ばれるだった。

 だが、世界から物語が根絶されたわけではない。それらを絶滅させるのが真弓たちの仕事だ。

 物語はある日、突然人類に叛逆した。人の手によって綴られたはずのお伽噺が、世界中で人々のこころを狂わせた。あるいは、唐突かつ同時多発的に、人類は物語への耐性を失った。

 真実が何であるにせよ、多くの人々が発狂した。どうやら物語はその日から、人類を滅ぼすと決めたようだった。

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