肌寒い夜は

泉宮糾一

第1話

 駅のコンコースにはまばらに人が歩いている。通勤時間帯を終えてしまえば、地方都市の人口密度などたかが知れてしまうものだ。

 出入り口付近の柱の下で、いつものようにマットを敷いた。長年愛用しているそれは合成繊維がごわついてしまっている。座り込めば、周りにあった砂埃が舞い上がって空気に紛れた。

 息を吸って、吐いて、前を向く。

 誰も俺を見ていない。

「好都合だよ」

 にやけながら呟いて、ケースからアコースティックギターを取り出した。学生の頃から愛用している年代物だ。弦は張り替えているものの、ボディの傷は隠しようもない。しかし捨てる気もやはりない。それは俺の相棒で、頭の髪もすっかり寂しくなってしまった今でも、俺の手に馴染んでくれていた。

 人間に大事に扱われた物には九十九神が宿るという。このギターもそういう化け物の類いかも知れない。

「それでは皆様、肌寒い夜にこの一曲」

 指で弾いて空気が揺れる。澄んだ音。自分で言うのもおかしな話だ。

 曲の冒頭が口から飛び出す。もう十年以上も前に作った一曲。

 遠くの彼女へ送った、肌寒い夜の曲だ。


 アコースティックギターを手に入れたのは高校二年の春だった。

 きっかけは父親だ。会社の宴会の懸賞で、たまたま楽器店の割引券をもらい、「せっかくだから」と俺を連れて楽器やへと足を運んでくれた。

 音楽への興味はほとんどなかった。楽器屋でも、ガラスケースに並んだ怪しい金属の管眺め、その値段に驚愕し、いくら割引とはいえ手が出せないだろうと勝手に嘆息したりもしていた。

「おい、これなんてどうだ」

 俺の気をよそに、父は棚の前ではしゃいでいた。近寄ってみれば、アコースティックギターが静かに並べられていた。

「いい思い出になるぞ。プロでもないのにギターが弾けるのなんて高校生くらいなんだから」

 父の理屈はよくわからなかった。でも悪い気はしなかった。あまり趣味が多い方では無かった俺の感想は、暇潰しに使えれば良いという、少々覚めたものだった。

 結局その日、ギターを買い、家に帰ってコードを覚えようとしたが、間に合わないので翌日、さらに翌々日へと回していった。覚えたばかりの指並びを抑えつけて、片手で流す。すると音が流れる。当たり前すぎるほど当たり前なことなのに、初めてっていうのは何でもかんでも輝かしく見せてくれていた。

 実際そうだ。俺は綺麗なところばかりしか見ていなかった。駅前に座り込んでギターを弾き鳴らし始めてからも、観客がほとんど足を止めてくれないというのに、毎日馬鹿みたいに弾き続けた。

 周りを見ている余裕も無かった。声を出すこと、音を出すことそのものが俺の目的だった。途中で駅員さんもやってきて事情を聞かれたが、理解のある人だったらしく、時間を制限されただけですんだ。ギターを持っていたせいかどうかまではよくわからない。


 ある日、俺は観客に気づいた。

 女の子だ。夜に私服だったから、一度家に帰ってから着たようだった。初めから学校に通っていなければ私服である可能性も高いが、後に知った彼女の性格はとても悪事を働きそうなものではなかった。

 ギターを弾くのに夢中になっていたら、前に二本の足が並んでいる事に気づいて驚いた。姿勢を正すと例の子がいた。ファーストコンタクトはどうでも良い場面だったはずなのに、なぜか今でも覚えている。

「いつも聞いてくれてありがとう」

 即席で思い浮かんだ謝辞を述べて、手を振った。それなのに女の子は帰らず、俺の側に歩み寄ってきた。

 何が起こるのだろうか。まず身構えして、それから微笑んで肩の力を抜いた。子どもなのだから優しくしなきゃ、と思い至った矢先、彼女が口を開いた。

「前から言いたかったんですけど、すごく下手ですね」

 唖然とする俺を尻目に彼女は駅から去ってしまった。

 俺の腹の中でいろんな感情が渦巻いていた。喜ばれているのに実は鬱陶しかがられていた悲嘆、人のことを平気で馬鹿にする彼女への怒り、そして人前で下手な歌をしてしまったことに対する恥ずかしさ。その日はマットを片付けてそそくさと家に帰り、以後一週間は自分の中で演奏を禁止していた。

 当時の俺は大学一年生。彼女は確か、高校に入学して間もない時期だった。


 地元の高校に吹奏楽の強豪校があった。動画サイトに上がっている演奏を聴いてみてもやはり上手く、その伝統は今でも続いている。もちろん俺がその高校に興味を抱いた時期も上手で、むしろ今よりも勢いがあるように思われた。

 そして彼女はそこの吹奏楽部員、だった。少なくとも最初の一週間だけは。それからすぐに部活を抜け出して、軽音楽部にも顔を出したがそりが合わず、結局街のギター教室に入り込んで指南を受けていた。

 どうして俺が彼女の身の上話に詳しいのかというと、全て彼女本人から聞いたからだ。彼女は俺のことを散々下手だと罵りながら、俺の歌を毎日聴きにくれていた。

「指の力をもっと抜いてくださいよ」

「やってるよ」

「どこかですか!」

 自信満々にギターを握りしめていた俺の手に彼女の小さな手が覆い被さった。気恥ずかしくて、顔を伏せたくなる。駅前の広場に逃げ場はない。

「今度は力が抜けすぎですよ」

 彼女の言葉は耳から抜けていった。遠巻きにいる観客が、俺をみて口元に手を当てて微笑んでいた。

 彼女が来てから観客が増えた。これは紛れもない事実だ。どいつもこいつも、しなびた男子大学生の歌よりも女子高生の叱咤激励を聞きたがっていた。

「ほら、形はこうですから、覚えてください」

 完成された指の形をしばらく見つめた。教科書通りの形に少しアレンジが加わっている。人差し指の位置だとか中指の角度とか。ためしにコードを惹いてみると、思った以上に綺麗な音がでた。

 何も心配することはない。そう伝えようとして彼女に微笑みかけた。今度は怪訝な顔をせず、ちゃんと俺を見てくれた。


 肌寒い夜に、というキャッチコピーを与えてくれたのも彼女だ。

 いつも夜に遅くに弾いているから、聞いている人も嬉しくなるようなことを言おう。そんな打算もあったにせよ、今となっては心から気に入っているといえる。

 彼女は大学に進学し、一年で止めて、音楽の大学へと進学した。学校は都会にしかなくて、やむなく彼女は俺の側から離れていった。

 肌寒い夜が戻ってきた。一人で演奏していたが、観客はどんどん減っていった。中には露骨に「あの子はいないのか」とか聞いてくる輩もいた。俺が「いねえよ」と答えると、がっかりした様子で帰っていった。こういうことをする輩が結構、いたのだ。

 時期も悪かった。駅員はどういうわけか周辺住民の動向にまで気を配るようになり、駅の場所の利用許可もなかなか下りなくなった。18時以降の演奏は禁止と言い渡され、とうとう肌寒い夜が来る頃にはもう演奏が出来なくなってしまった。俺は仕方なく家でギターを弾き続けた。

 やがて他の人と一緒に、就職活動を始めた。大学の授業なんてお構いなしに、次々と面接を受けて、落ちて、自棄になってギターを弾いた。こっそり駅の夜に弾いてもいた。期間が空いたせいか、本当に誰も聞いてくれなかった。駅員だけがすっ飛んで俺をつかまえにきて、俺はギターを背負って夜道を走り抜けた。追いかけてくる駅員の声は遠ざかっていった。視界は涙でにじんでいた。

 そうして、俺はギターを弾かなくなった。


 狭いアパートの一室に押し込められて何年になるだろう。五年、十年。あるいはそれ以上。仕事が忙しくて、大したものも持ち込めていない。実家に帰っても仕事の当てがないものだから、しかたなく都会のコンクリートに囲まれながら生きている。

 目が覚めて、スーツを着て、一旦会社に顔を出してから準備をして出張に出かけた。デスクワークが主だから、日光の下を歩くのも久しぶりな気がした。電車に揺られて小一時間。先方との話し合いに数時間。現地調査でさらに数時間。お昼を挟んで夕方になって、くたくたになって帰路についた。直帰の連絡はすでに会社にしてあった。

 ばかでかい駅のコンコースを、人混みにもまれながら歩いた。長年見てきた光景だが、未だに歩きにくい。目新しさがない分、人混みはただのストレスでしかない。

 くたくたに疲れていた。時刻は深夜に迫ろうとしている。出勤日は大抵この時間に帰宅する。同じような毎日を何度も何度も繰り返して、何かを考えてもいられない。

 ちょうど出口を出たときだ。

「聞いてください、肌寒い夜に」

 突然、耳に入った。遠い声だったが、声は確かに聞こえていた。

 息を呑んで振り返ったが、人の波が邪魔をしていた。手を突っ込んでかき分けて、それでもゆっくり進んでいった。

 だけど、何も見つからなかった。

 どこかの壁に寄りかかっていたり、柱に隠れていたりもしない。歌は、聞こえただろうか。雑踏の声で掻き消されてしまっていたか。

 記憶を便りに反芻する。聞き覚えのある語り口。あの声は、彼女だったか、どうか。わからない。眉根を絞って力を込めても、耳に血が上るばかりだ。

 肌寒い夜に。

 口ずさんで、鼻歌をした。昔自分で作った曲だ。小さな音だが、怪訝がる人もいた。そしてほとんどが完全に俺を無視していた。

 誰も俺を見ていない。何も生み出さない俺は、どこの誰でもない。

 そう思ったときから、頭の中で計画は浮かんでいた。


「肌寒い夜にこの一曲」

 寒い冬の夜も終わりかけている。

 それでもこのキャッチコピーは変えないでいた。彼女の名残というほどでもないが、忘れたくない言葉だからだ。

 指を動かし、音を鳴らす。アコースティックギターの弦が揺れる。

 この肌寒さを、きっと俺はずっと持ち合わせるのだろう。だから、変えない。変えなくていい。

 すっかり更けた夜の都会に、足を止める人影たちがまばらに見えていた。

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肌寒い夜は 泉宮糾一 @yunomiss

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