050.黄色風船さようなら

 形だけは家族で食卓を囲んでいるものの、特に会話もなく、当初は掟破りとされていたテレビもいつからか沈黙を嫌って点けられている。何事においても拙速を尊ぶ父親は曲がりなりにも主食は食べ終えながらも、大皿に盛られたサラダには一切手を付けず、さっさと自室へ引き上げていった。と同時に姉がニュースからバラエティ番組へとチャンネルを変え、椅子の上で姿勢を崩して見入っている。

「静、きちんと座って食べなさい。大学生になってもそんなふうだと、外で恥をかくわよ」

「別にいいの。それにもういらない」

あきらはちゃんとしてるわよ」

 姉の静は弟の暁を睨み、品行方正なその姿に嫌味を言う。

「ちゃんとしてて偉いのね」

 暁にしてみれば引き合いに出されるのは居心地が悪い。静だけでなく母にも面白くないものを感じながらも、それを口に出せない暁の性格なのだった。

「ねえ、ご飯が残ってるじゃない。もう少し食べないとだめよ」

「ダイエット中なのは知ってるでしょ?」

「食べられるときに食べておかないともったいないでしょう。ほら、サラダくらいなら大丈夫でしょう」

 母がサラダへと伸ばす手は少しばかり痩せ細っている。それがまた静には面白くなく、思った通りのことを口にした。

「お母さんはいいよ、私とは体質が違うんだから。ダイエットなんかしたことないでしょ」

「その必要がないもの」

「ほら、だから好き勝手に言えるの。私の悩みなんて分からないのよ。しかもこのサラダ、なんだかいまいち美味しくない」

 雲行きが怪しくなってきた。暁は二人の出方を窺いながらも、隙あらば逃げ出す算段をしている。

「それはそうよ。他人の悩みなんか、結局は理解することなんてできないんだから」

「呆れた。仮にも母親なんだから、もう少し娘に寄り添ってくれてもいいんじゃないの」

「きちんと心を開いてくれないと親子であっても分からないものよ。ねえ、どうしてそんなに痩せたいの」

 母と娘の会話は暴発を免れたように思われた。長年一緒に生活しているとその辺りの機微が暁にも分かる。だから小さくごちそうさまでしたと言うと、暁は父と同じように自分の部屋へと引き上げていった。父と同じように。そのことが何故かしら口の中に苦いものをもたらす。姉と母とは衝突しながらも会話があるから良いものの、暁と父との間に交わされる言葉はほとんどない。そのことを寂しいと思うような年頃ではない。むしろ口を利きたくないという思いさえ微かにある。しかしそうした反発心がどこに根ざしているのかは、暁自身には計り知れないのだった。

 自室の照明の加減を明るすぎない程度に調節して、ベッドの上に座り込む。そのまま横たわってしまえば楽だが、ふと本棚の方に意識が向いたので、テーブルの横の小さな本棚の中から一冊の文庫本を取り出した。その小説の作者は、他ならぬ暁の父であった。もちろん筆名を用いているから、父の名がそのまま記されているわけではない。父の作品の主なものには触れてきたが、ある作品については読むことを避けてきたのだった。それは、作品集に収められている「黄色風船さようなら」と題された作品だった。ある種、私小説的作品であり、なんとそこには暁や静といった名前が登場する。登場人物としての彼らは、現実の暁や静とは似ても似つかない存在である。――というのは実際に読んだ母の言葉なのだが、そこに二人の子供の名を登場させることの意味を、暁は理解しかねていた。

 手に取ったものは、ちょうどその作品集だった。暁は読むことを避けてきたその作品を読むべきかどうか迷った。ベッドに横たわり、壁に背を向けて目次を開き、目的の頁へと至った。深呼吸をし、何もない天井を眺めやる。やがて覚悟が決まると、暁はその作品の世界に飛び込んでいった。


「空には雲一つなく、ともすると空虚に感じてしまいそうな空間の中に太陽がきらりと輝いている。絶えず変動しいつ分裂してもおかしくはない世界の秩序の上に、まるで重石のように存在しているあの太陽を、我々はどのように認識しているだろうか。つまり、どのような色でということだが、この国の多くの人々はおそらく赤いものとして認識しているに違いない。しかし不思議なことに、私は幼い頃からあれを黄色いものとして認識してきたのだ。誰かにそう教えられたというのではなく、まさに自分自身の認識としてである。長ずるにつれて私は内外の色々な物事を知っていった。その中で、海外では少なからず太陽が黄色いものとして認識されていることを知った。そのとき、私は多数派の一員であることを認識したのであるが、それは同時にこの国では少数派であることをも意味していた。私はそのことを足がかりにして、自分自身のアイデンティティを確立していったのである。

 井の中の蛙大海を知らずと言う。成人する頃には私の牙はすっかり抜け落ちてしまうものだが、実は幼い頃は随分と乱暴な子供だった。内面の統一を達成したなら外に打って出るのは自然な成り行きである。基本的には知識で以て、気に入らないときには実力を行使して、私はいわゆるお山の大将の座に収まったのだった。だが、そのやり方が通用したのもせいぜい中学の頃までで、それ以降はまさに転落の人生を歩んでいく。自分の知覚していた世界というものがいかに狭く、また単純なものであったかということは、先に述べたように成人する頃までにはようやく理解することができた。しかし、時すでに遅しというところまできてしまっていたのである。私は辛うじて入り込めた大学をあっさりと中退してしまい、つまらないプライドのおかげで親族の経営する会社から逃げ出し、青年期の貴重な時間を実家に籠城することで浪費してしまったのであった。

 さて、そのような私が今こうして文章を物するまでにはまだまだ紆余曲折せねばならないのだが、端的に言うならば、そこには一人の女性との出会いがあった。彼女こそ、後に妻となる人物である。」


 ぱたん、と本を閉じる。何か不可思議な浮遊感を覚えて、思わずそうせずにはいられなかったのだ。今この瞬間と同じように、作品に没入していたときもまた世界は静寂に包まれていたのだろうか? 読みながら色々なことを想起し、連想し、思い出した。映像として浮かび上がってくるものはもちろんのこと、音声として蘇るものもあった。そして何より、傍で父親自身が朗読してくれているような、妙な温かさがあった。

 先にも言ったようにこれは私小説的作品である。私小説的と言ってもその全てが本当ではないし、その反対に全てが虚構というわけでもない。事実と作り話をどのような分量で配合したのかについては、筆を執った作家自身にしか分からない。だが、後に暁の母親となる女性と出会う直前の部分にきたところでもう読むことができなくなってしまった。気恥ずかしさ、と言えばある種微笑ましくもなるし悪いことではない。けれど、暁が心の奥底で最も気にかけることは、自分自身がこの作品の中でどのように描かれているかということであった。父は僕のことを、どう思っているのだろうか、と。

 暁は大皿に盛られたサラダのことを思い返した。食卓の中心に置かれてあんなに目立っていたのに、父はそれには目もくれずに食事を終えてしまった。元からそういう傾向がある人だということは分かっていた。というのは、リビングにあるテレビを購入するときにはその仕様にこだわっていたのに、そこに日々溜まっていく埃のことにはまるで関心がないようだし、何かに集中し始めると喉の乾きやトイレの近いことも忘れてしまうことはよくある。視野が狭いとか、熱中しやすいのだという言葉で簡単に片付けられないのは、父の作品を読んでみれば分かることだ。そこに登場する人物は様々で、父が決して狭い世界を生きてきたわけではないことが理解できる。彼らは色々な性格や役割を帯びて現れるが、みな一貫して冷静な眼差しを湛えている。では暁の父は、実際にはどのような人物なのだろうか?

「……話してみるしか、ないのか」

 暁は重い腰を上げた。自室のある二階から下りると、ちょうど静とすれ違った。

「なんだ、暁だったの」

「えっ?」

「……何だか、お父さんの歩き方に似てきたのね」

 静はそれだけ言うと、そのまま二階へ上がっていった。


 部屋の扉をノックをすると、色の曖昧な声が聞こえてきた。暁は意を決して、少し照明の暗い父親の部屋へと入った。

 入り口から向かって右側に背の高い本棚があり、そこには一応綺麗に蔵書が並んでいる。しかし別の物置のようになっている部屋には、ダンボール箱の中にまだたくさんの蔵書が詰め込まれている。その本棚に背を向ける形で作業机が置かれていて、父は今もそこで執筆作業をしているようだった。

「どうした」

 父はモニターから目を離さずにそう言った。しかし先ほどと同じように、少なくとも作業を邪魔された怒りのようなものを感じない声だったので、暁は本棚を見ても良いかと訊ねた。

「構わんが、急にどうした」

「えっ、そんなに急かな」

「珍しいよ、お前がこの部屋に入ってくるなんて」

「いつ仕事してるか分からないから」

 父は少し間を作った。気まずい沈黙が続くのではないかと恐れたが、しかしそれは暁の杞憂であった。父はキーボードのエンターキーを押すと、次第に怒るような形になっていた肩の力を抜き、次に長く息を吐いた。食事を終えて暁が入ってくるまでにどのくらいの時間が流れたかは分からないが、その間中、集中して作業をしていたのだろう。

「少し座るか? 椅子を出してやろう」

 そう言うと収納スペースから折りたたみ式の椅子を出すと、部屋の真ん中あたりに置いてくれた。暁はそこに座りながら、自分の興味が本棚にはないことが見抜かれているなと悟った。

「で、何か話でもあるのか?」

「あの、父さんは僕のことをどう思ってるの」

 嘘が見抜かれていたとはいえ、その攻め方はあまりにも拙速だといえた。

 その拙速さは、父の好むところであった。

「立派に育ってくれて、俺は嬉しいよ。俺が暁と同じ高校生だった頃はずっと不真面目で、勉強もできなかったし、自分の考えなんてものは持ってなかったな」

「じゃあ、どうして今の父さんみたいになれたの」

「母さんのおかげだな。あの人と出会わなかったらどうなっていたか。それに、そうならなかったら静とも暁とも出会えていないからな」

 暁は中途で読むのをやめたあの作品のことを思い返していた。そして同時に、あの大皿のサラダのことが思い起こされた。

「ところでどうしていつもサラダを食べないの?」

「うん? それがこの話と関係があるのか?」

「だって、せっかく母さんが用意してくれてるのに、手もつけないなんて」

 そこまで言うと父は急に笑い声を発した。暁が狐につままれたような表情をしたのを見て、父の感情は増幅していく。

「す、すまん……。あのな、あの皿に盛ったサラダだけは父さんの担当なんだ」

「えっ?」

「野菜をカットして、その野菜に合うようなドレッシングを使って、というふうに研究はしているつもりなんだが、どうにも上手くいかなくてな。カットの仕方とか野菜とドレッシングの相性とか、一口にサラダと言っても難しいんだな」

「じゃあ、いつもサラダを食べないのは――」

「自分のことながら美味いとは思えないし、いつも試食をしすぎるんだ。それでいて上達もしない。向いてないんだな、きっと」

 暁は急に肩の荷が下りたような気分になった。少しベッドに横たわろう、妙に疲れた気がする。

 そうして立ち去ろうとする暁の背に、父が問いを投げかけた。

「なあ、あのサラダは美味いと思うか?」

「それは父さんの性格と同じで、僕にはまだ分からない。僕の中で判断を下すには早すぎるんだ」

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Music of Technicolor 雨宮吾子 @Ako-Amamiya

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