049.黒猫奇譚

 よく見知った川沿いの道を歩きながら、私はある想念をもてあそび、また取り憑かれてもいた。曖昧模糊とした気分でその道を進むことになったのは、ある一本の電話がきっかけとなっていた。

「もしもし、――さんのお電話でお間違いないですね?」

 相手の男性が口にしたのは、私の名前に違いなかった。不審に思いながらも間違いではなかったので、曖昧な返事をした。

「あなたの落とし物を拾ったという方がいましてね」

 私に違いないという確信を得て明らかに喜色を含んだ声を発した相手については、おそらくは警察官だろうと思いながらも、勝手に思い込んではいけないという警戒心が働いた。そもそも落とし物をしたという記憶すらないのだ。

「黒猫のキーホルダーが付いた鍵なんですが」

 あっ、と声が出そうになるのを慌てて抑える。たしかにそれは身に覚えのある落とし物ではあったが、しかし実はわざと投げ捨てたものだった。

「覚えがあるようですね。……では、お待ちしておりますので」

 どこで、誰が、と聞き返すよりも早く電話は切れてしまった。受話器を置いて再び訪れた静寂の中で、私の思考だけが喧しく働いていた。おそらくはいたずら電話だろうと結論付けようとすると、ではどうして私の電話番号を知っているのだろうかという疑念が現れ、また何故投げ捨てた鍵のことを知っているのだろうかという疑問も生じた。

 私は居ても立っても居られなくなって、靴箱から取り出した靴を履いて、近所にある交番に向かうことにした。近所と言ってもこの町に一つだけ存在する交番までは多少の時間を要する。靴底をすり減らす覚悟で交番へ向かって歩いていくうちに、その覚悟の源となる強力な疑念がいつしか薄れてしまい、その優柔不断さが足取りに反映してしまったのか、いつの間にか川沿いの道を歩いているのだった。

 よく見知ったその道は、自転車や縄跳びで遊ぶ幼い子供たちの遊び場となっており、そうかと思えば向こうからはマラソン大会に向けて練習に熱を上げる高校生の集団が走ってくる。休日の昼間のそうした光景は先週も同じように見られたものだろうし、先月、去年と、当たり前のように何度も繰り返されてきたものだろう。しかし今の私にはそうした秩序が何か嘘のように思われて、川の上流に向かって、決意を新たにしながら歩んでいくのだった。

 電話の相手が口にした鍵というのは、たしかに私の持ち物だったものだ。ある破局を迎えて川に投げ捨てたはずのものでもある。二十代の前半、つまり十年近く前に投げ捨てたものがどうして今になって、というのが最大の疑問だった。ただそれ以上に不思議なことは、私を待ち受けている者はこの道の先にいるという確信を抱いていることだった。それは人が一生のうち、何度か体験する動物的な勘の働きによるものであり、見えない何かが今の私を突き動かしているのだ。このとき、私は人の自由意志というものの頼りなさを初めて知覚したのかもしれなかった。

 その日は秋の中頃のどんよりとした曇り空で、時刻が三時を回る頃になると夕立が来そうな空模様になってきた。傘を持たない私は忙しく足を前へ前へと運んでいく。人の気配はまるでなくなっていた。いよいよ近づいてきているのだということが分かった。その次の瞬間、土手を上ってくる影が見えた。一匹の猫がその毛の黒さによって、認識されることを拒みながら、私の前に現れた。何だろうと訝しむよりも早く、猫は駆け出していた。学生時代までに卒業したはずの全力疾走を、私は再びしなければならないようだった。黒猫は上流へ向けて臆することなく駆け抜けていく。しかしその疾走も長くは保たず、ある地点に来ると息を切らしながら立ち止まった。やや遅れてやって来た私は、足元にすり寄ってくる黒猫を抱きかかえる。黒猫ばかりではなく自分自身の喘ぐのも感じながら、実は私を待ち受けていたのはこの黒猫なのだということを直感した。

 あの日、私は黒猫を川に投げ捨てた。

 あの日、私は黒猫のキーホルダーの付いた鍵を川に投げ捨てた。

 果たしてどちらが私が本当に行ったことだったのか、今となってはもう思い出せなかった。やがて胸の中から黒猫が飛び出していったとき、私は許されることはないのだろうなと、まるで他人事のように理解した。そして、私は私の罪を認めない代わりに、肉体の中に永遠に取り残されることを余儀なくされたのだった。

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