048.小春日和
「少し走らせて下さい」
タクシーに乗り込むなりそう発した女性に対して、運転手はバックミラー越しに一瞬怪訝な視線を送ったが、すぐに職業的な仮面を被って車を発進させた。後部座席のシートに身体を預け、機械的に流れるシートベルトの着用を促すアナウンスに気を留めることのない女性は、一体どこへ向かおうとしているのだろうか。トランクにスーツケースを積み込んで市街地にあるターミナル駅前から走り出したのだから、きっと自宅へでも帰るのだろう。難しい予測ではないが、しかし目的地を告げずに適当に車を走らせる理由は何だろうか。もちろん無目的に車を走らせることは運転手にとっては悪いことではないから、どの方角へ向かうことになっても構わないようにと市街地をぐるりと一周することにした。
季節は冬である。定年退職後にタクシードライバーの仕事を始めた老齢の身にしてみると、朝晩の寒さには耐え難いものがある。おまけに今日は雨が降っているので余計に身が縮こまりそうだが、こういう日は稼ぎ時でもある。時刻は午後二時。早めに昼食を済ませて、百貨店の方へ向かうかそれとも駅の方へ向かうかと考えていたが、直感的に駅の方へ向かうことにした。そして、この女性を乗せたのだった。運転手が見たところ、三十歳前後の女性はこの街に暮らしている。駅前のタクシー乗り場に歩いてきたときの雰囲気や、言葉の感じからそうしたことが推察される。どこかへ向かうというよりはどこかへ帰るといった感じがしたのは、心の動きが落ち着いて感じられたからだ。仕事にしろ観光にしろ、これからどこかへ向かうとなれば良きにつけ悪しきにつけ感情が動く。反対にどこかから帰ってくるときには、自分のふるさとを懐かしむ静かな感動や、落ち着いた感情になるものである。今、女性の心には大きな感情の変化は見られない。
半ば以上はそうした推測が正しいと感じながらも、運転手は拭いきれない違和感を覚えている。女性に大きな感情の変化はないように見えるが、しかしそれは無感情ということではない。どこか悲しげな表情を浮かべているのだ、静かで淡い、悲しげな表情を。その眼尻に幻のような涙を見たとき、運転手は自分でも思いがけない問いを発していた。
「何か悩み事でもあるんですか」
考えていたことが表情に出ていたのか、不意に運転手が話しかけてきた。
「はい?」
「いや、あんまり深刻そうな顔をしていたからね、つい」
彼女はその言葉にはっと目を見開いた。名状しがたい自身の感情が悲しみに類するものであったことに驚いたのだ。
「ああ……。あの、雨が降っているから」
「そうか、冬の雨は冷たくて嫌だね。でも大丈夫、ただの通り雨だから」
彼女は乗車してから初めて運転手へと意識を向けた。名前に漢数字の入った、元は会社で課長か何かをやっていたのが定年退職して家にいてもやることもないしとりあえずまた何か仕事をしようか、そうしたら収入もあることだし、といった感じでこの仕事を始めたような、人好きのするようなおじさん。きっと偏見を抱かずに人を観察することに長けているのだろうということが、バックミラー越しに見えた眼差しの柔らかさに感じられる。そうして見ることの代償として見られなければならない彼女は、三年前に買った愛用のコートを着ている。必要なものは実家に送ってしまっているのでスーツケース一つで足りたのだが、衣服を中心に処分したものも少なくはない。このコートも処分しようかどうかと迷ったのだが、色使いが派手すぎず体型に合っていて着心地が良いので、結局このまま着ていくことにした。
彼女はどこかからこの都会に帰ってきたのではなく、今から故郷へ帰ろうとしているのだ。都会へ出てきてから十年ほど経つが、少し前にあることがきっかけで一度帰郷することがあり、都会で暮らすことをやめようと決意したのだ。それはまさに決意という他に言い表すことのできないものである。仕事を辞め、当然生活も変わり、数少ない交友とも離れ離れになってしまう。それでも南国の田舎町へ帰ろうというのだ。
今の自分が少なからず悲しみを感じていたことは、否定のできない事実だろう。だからこそ彼女は、悲しみを振り切るようにしてこう言った。
「あの、空港の方へ、向かって下さい」
「空港?」
「ええ、今から発たないといけないんです」
運転手の方は少し意外そうな顔をしたが、何かを了察したのか、すぐに最短のルートを頭の中に思い描いたらしく、快活な返事をしてきた。
空港へ向けて走り始めた車の窓外に目をやれば、少し前から流れ込んできている黒雲が大地に雨をもたらしている。雨が濡らすのはガラス張りの高層ビルであり、歴史のある百貨店の外壁であり、あるいは人々の頭上に広げられた傘であり、またよく整備された舗道である。これが田舎町ともなれば川であったり森林であったり、そこへ向かう泥道であったりする。この都会に見られるような整備された自然ではなくて、むき出しの自然が、彼女を待っているのだ。そう思えば都会から田舎町へ帰ることも悪くはないのかもしれない。
空港へ向かうように告げたとき、実は彼女もまた、運転手とは別種の軽い驚きを覚えていた。一年前の自分なら帰郷することをまるで都落ちのように感じただろうが、それが今となっては自然なことのように感じられるのだ。その言葉の発し方にも認識の変化が表れているような気がした。つまり、都会風の要領を得た簡明な言葉であるというよりは、田舎風のゆったりとした冗長な言葉であったように思える。都会での十年間の暮らしが、それに倍する時間に培われた故郷での暮らしに回帰しつつある。それがまた、喜ばしいことのように思われた。
「これからどちらへ向かわれるんですか」
運転手の、やはり柔和な感じの物言いに対して、彼女は故郷を自慢するような言葉を披瀝しようとしていた。黒雲は急速に立ち去ろうとしている。たしかに運転手の言ったように通り雨であったらしい。
彼女が去ろうとしている都会は、一年の最も寒い時期を前にした欺瞞のような暖かさの、小春日和と呼ぶに相応しい天候へと回帰しつつあった。
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