045.祝祭

 花火大会があると聞くと、その男の子は、お祭りがあるんだねと喜色を浮かべた。母親はじんわりと湿った風を仰ぎながら、そうじゃないのよ、とだけ告げた。その一言が遠い彼方にいる彼に響くのはずっと先のことだろうが、いや、もしかするとこの時空の中にその言葉は溶けていくかもしれないが、母親はその言葉に何かを託した。

 電球のぶら下がったのが天の川のようになった道を下ると、二人は川にぶつかった。そこで小舟に乗る。舟を操る男の逞しい腕と、そのしなやかな仕事ぶりに彼女は視線を送る。男の子は母親に守られながら耳を寝かせて、見えもしない川面を叩きながら走る舟底を見た気になった。母親は木材の軋む音に目を閉じる。やがて開けたところへ出た。そこには何艘もの先客がいて、程なくして上がるはずの花火を待ち受けている。他にも親子でやって来た客がいた。そちらの舟では常になく大人たちの方がこらえきれないといった様子で、子供たちは己の領分で楽しみを見つけている。流れのないところへ来たので、舟を操る男も座り込んで、こちらは落ち着いた様子の母親に他愛のない話を向ける。母親は子供の頭を撫でながら、何かの拍子に転落してしまわないようにと視線はそちらへ向けている。男は母親の素性を知らない。母親も子供と二人だけで花火を見物に来た経緯を語ろうとしない。

 呼び水のような小さな花火が、ぽんと鳴った。花火大会の始まりだ。例えば花を模した形の、本物の花弁よりも鮮やかな花火などが、次々と打ち上げられていく。子供は光と音とがずれてやって来る仕組みが分からず、それでいてそのずれを楽しんでいる、見つめている。その横で、視線はようやく交錯する。ぽんぽん、と鳴る花火に三人は釘付けにされたようになって、微動する舟の動きを制止すべき男の手は、形が良いとは言い難いながらも白光する手に絡まっている。手と手が山脈を形作ったかと思った次の瞬間には、もう花火は終わっていた。終わった後になって、彼らはようやく花火が打ち上がったのだということを知った。

 花火が終わったことを悟った子供は、母親の手を握りながら眠りの世界に入っていった。小舟は独り、流れを受けながら動揺している。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る