044.Cupid

 一流の歌手を目指すその少女は、自身の初舞台がホテルのラウンジショウに決まったと知ると、その便箋を古びた赤い化粧箱に収めて母の眠る墓を参ることにした。それは久しぶりの帰郷であり、嬉しい報せを胸に抱いてのことだったから、少女は喜び勇んで汽車に飛び乗った。しかし、その興奮は次第に冷めていく運命にあった。

 車窓は都会の風景から田舎の風景へと移り変わっていく。それは少女が都会に出てきたときとは反対方向の旅だったので、何だかひどくつまらない気分にさせられた。あの頃とは違って都会が必ずしも良い場所とは言えない、そのことは分かっている。けれどそれ以上に、田舎の風景は単調でつまらないものだった。そうした経緯から、少女が駅に降り立ったときに感じ取った空気は、現実を必ずしも捉えてはいない。風のない秋晴れの清々しさはここでしか味わえないものであるし、何よりも都会に特有の喧騒というものはここには存在しない。けれど、その静けき清浄さを楽しむには、少女は未だ幼かった。少女は車を呼ぶと、すぐさま墓地に向かうように告げたのだった。

 今度の車窓もまた代わり映えのしない風景が続いていく。ただし今度はその過ぎ去る速さが違ったので、少女の胸には様々なことが去来した。少女は母の手一つで育てられた。父親がどんな人物なのかは知らないし、母に訊いてはいけないような直覚があったので、少女は意識的にその疑問を封じてきた。育つ過程でも色々なことがあったけれど、母は最後まで母としての人格を守った。少女にとっては有り難く、母にとっては辛いことであったかもしれない。今となってはそれが分かる。田舎にはそんな母のような人が多いような気もする。偏屈なところがあるけれど、芯の通った、まっすぐな人。そんな人はまず都会では見受けられないし、いたとしても人の波に飲まれていて分からない。都会の人はさっぱりしていて、取っ掛かりがないような感触もある。今までに都会で遭った手厳しい仕打ちを考えるうちに、少女は故郷の良さというものについて思い至りつつある。

 そんなあれこれを考えているうちに、車は墓地に到着した。

 母の墓前に立った少女は、あの赤い化粧箱から一片の羽と手紙を取り出した。右手に持った純白の羽を胸に当て、便箋の内容を朗読し始めた。朗読というのには似つかわしくない、飾り気のない乾いた文章であったけれども、ただその表現のあり方においては、天使の囁くような美しい旋律が見受けられた。あなたは天性の声を持っている、少女は母によくそう言い聞かせられていた。少女はそれで自信を持ち、ここまで努力を重ねてきたのだ。母の存在なくして今の少女はあり得ない。そのことは、少女自身が一番よく分かっていた。

 ところで少女が手にしている純白の羽は、赤い化粧箱とともに母から託されたものだった。母はそれを天使の羽と呼んでいた。どこからやって来たものか分からないその羽を、母は大切にしていたのだ。旧き日の栄光の象徴ともいえるその羽を、少女もまた大切に扱っている。しかし、信心とでも言うべきものは全くない。この世に天使がいるのなら、どうして母と子に別離をもたらしたのか、せめて今日この日まで猶予を与えてくれても良かったのではないか、そんな文句をつけたくもなる。それでも少女は母の見識の無さを責めはしない。今度の機会はきっと目には見えない天使が叶えてくれたのだ、少女はそう思って心を奮い立たせるばかりであった。


 初舞台当日、少女は同封されていた地図を頼りに街路を辿り、行き着いた先がひどく見すぼらしく小ぢんまりとしたホテルであることを知ると、目眩がするような思いがした。華々しいキャリアを始めるにしてはあまりにも不似合いな外観の見すぼらしさは、しかしすぐに緊張の緩和にも繋がった。あまりにも高級なホテルであったとすれば、それはそれで緊張が高まる結果になっていたことだろう。それに、少女の失望はすぐに場違いのものであることが分かった。いざホテルの中に足を踏み入れてみると、よく磨き込まれたガラス戸が出迎えてくれたし、フロント係の老人に事情を告げると親切にもラウンジに案内してくれたのだ。少女は己の直感を恥じた。ラウンジはたしかに想像していたよりも小さな空間であったが、少女の歌い方にはぴったりな広さであるように思え、些細なことではあるけれども内装は意外にしっかりとした高級品のように見えて好感が持てた。

 続けて案内されて向かった楽屋では、既にバックバンドが待機していた。体格の良い黒人のドラマーが率いるバンドは、小柄な少女が背負うには立派過ぎるかもしれない。そんな懸念を持ちつつ、少女は挨拶を交わした。ギタリストとベーシストの白人二人は握手を交わしてくれたが、リーダーは手を小さく挙げるだけですぐさま瞑想に入った。

「彼も緊張しているんだ。それに、握手は終わってからでも遅くはない」

 ベーシストの青年はそう言った。そうか、彼らも夢を見る人々なのだ。少女は今更ながらに自分の肩にかかった重圧を知った。二人の白人は少女のためにコーヒーを用意してくれたり、何気ない会話で緊張を解そうとしてくれた。開演のちょうど二時間前になったとき、それまで目を瞑っていたリーダーがゆっくりと目を見開き、太く落ち着いた声でこう言った。

「リハーサルの時間だ」

 ラウンジに戻ると、まずバックバンドが音合わせを始めた。楽器のチューニングが終わると、次は演奏者の調子を確かめる。二人のメンバーはまずまずといった表情をしてみせた。続けて、少女の番。リズムに合わせて音程を確かめると、リーダーは納得のいかない表情をしてみせた。

「よし、分かった。まず姿勢が悪いな、もっと背筋をピンと伸ばして。視線ももっと上向きに。そう、そうだ。口をもっと大きく開けると良くなるぞ」

 少女は自分の声質には自信はあったが、技術的な面では発展途上と言う他ない。リーダーの指示に合わせてようやく喉が温まってきたのを感じた。

 そうして準備を整えると、いよいよ演奏を始める段になった。歌うのはスタンダードナンバーを数曲。少女もよく知る曲が多く、また知らない曲の歌詞はしっかりと頭に叩き込んである。リーダーの合図に合わせて、少女は練習してきた曲を歌い始めた。


 リハーサルを終え、開演までいよいよ三十分前というところまで来たとき、少女はどのような心境にあったか。不思議と、緊張はしていない。それよりも今日の夜は何を食べようかと考える余裕すらあった。バックバンドとの息が合っているとは必ずしも言えないし、少女自身のコンディションも良くはない。だから、少女自身もどうしてこんなに落ち着いていられるのかがよく分からずにいた。きっと緊張の極点を越えてしまったから、却って感覚が伴っていないのだろう。

 そろそろ準備を始めるというとき、不意にバンドリーダーが話しかけてきた。

「いいか、成功を求めると失敗する。今日は成功しようとは思わずに、楽しむことだけを考えるんだ」

 少女は意味を必ずしも理解しなかったけれど、リーダーが励ましてくれようとしているのだというそのことに胸が熱くなるような気がした。

「おいおい、演奏が終わるまでは泣くんじゃないぞ。楽しむ、楽しむ。それだけだ」

「はい」

 少女はようやく涙を飲み込んで返事ができた。いよいよ、出番がくる。


 二時間前までは静寂に包まれていたラウンジは、いつの間にやら人の気配でいっぱいになっていた。カクテルを片手に談笑する男女、四人で向かい合って何かひそひそ話をしている男性たち、ショウが始まるのを待ちわびている何人か。時間になり、まず三人のバンドメンバーが舞台に上がった。手短で簡単な音合わせ、それからリーダーからの挨拶。笑いを誘う軽妙な語りに場が温まる。そして舞台衣装の赤いドレスを身に着けた少女が登場すると、不思議な静けさがやって来た。少女はその静けさの意味を計りかねた。観客が興味を失っているのか、それとも固唾を呑んで見守っているのか。そうこうしていると、リーダーが合図を始めた。

 短い前奏の後にすぐ歌いださなければならなかったところを、一瞬の戸惑いのために逃した。マイクスタンドを持つ手が震え、無情にも演奏は流れていく。が、バンドは一度足踏みをして少女の発声を待った。そして、まるで川面に足を浸けるときのような慎重さで、少女は歌い始めた。最初から少しキーが外れている。それでも懸命に、そして冷静に声を整えていく。姿勢を正し、視線を上向きに。その助言はとても役立った。水平方向を見ていると観客の様子が必要以上に注視してしまうところが、天井の方を見ているだけで気にならなくなった。あのシャンデリアのように綺羅びやかに歌いたいとまでは思わなかったが、少し余裕はできた。

 一曲目を歌い終えると、少女は額に浮かぶ汗を拭う間もなく、次の演奏が始まった。本来なら一呼吸置くはずのところだったので、少女は疑念を抱きながら、それでも無事に歌い終えた。

 二曲目が終わる頃にはリーダーが性急に演奏を始めた理由が分かってきた。たしかにラウンジは人で溢れている。しかし、観客は、観客と呼び得る人々はほんの一握りに過ぎなかったのだ。相変わらずカクテルを片手に談笑している男女がいたし、大声で何事かを話し合っている男性たちがいた。ステージに近いところの人々からは疎らな拍手が聞こえてくる。

 そもそも、彼らはお金を払ってショウを見に来たわけではないのだ。偶然にもこの場に居合わせただけの宿泊客に過ぎない。多少なりとも興味のある人々からの拍手も、そう熱心なものではない。少女は目の前が真っ暗になるような思いがした。実際に舞台の上でふらついてしまったかもしれない。そこへリーダーが声をかけてきた。

「いいぞ、俺たちの天使様。お前はよくやっている。いいか、キューピッドはどうして矢を放つか知っているか」

 少女は首を振って答えることしかできない。リーダーは、にやりと笑って言葉を継いだ。

「心臓を射抜くために矢を放つんだ。この場でそれができるのは俺たちじゃない、お前だけだ。終わったら素敵なご馳走をしてやる、今はそのまま歌うだけでいい」

 少女は軽く頷いた。一度伏せられた瞳が再び前を向いたとき、そこには何やら今までにない気配が宿っていた。

 比較的軽快なそれまでの曲と違って、三曲目はゆったりとしたラブソングだった。だから、今まで以上に少女の資質が試される。少女もそのことが分かっていたから、できるだけ力むのをやめて、それでいて全力をここに傾けようと考えた。今度も短い前奏の後にすぐ歌い出す。今度は上手く捉えることができた。出だしの音程も悪くない。同じ歌詞の繰り返しなので、単調にならないように最初はあっさりと、徐々に感情を込めていく。曲が二番の終わりを迎えると、少女はややリズムに先走るようにして歌い始めた。ベーシストが怪訝な表情をする。それまでリズムは安定していたはずだ。しかし、リーダーは少女が意図してそうしたのだということに気付いた。ベーシストもすぐに理解した。あえて先走るようにして歌うことで、歌い手の感情を表現したのだ。最後の間奏で少女はバックバンドに振り向いて笑った。後はもう、このまま歌いきるだけだ。最後はしっとりと、やや余韻を残して歌を終えた。待っていたのは、それまでで一番大きな拍手だった。……


 その夜の演奏は成功とは言い難いものだった。音程は外れぎみだったし、バックバンドとの演奏も噛み合っていたとは言い難い。客の反応もそれほど良くはなかった。しかし、最初から上手くいくなんてことはあり得ない。少女には、そのことが過不足なく分かっていた。それで夕食のピザを囲んでいるとき、リーダーに向かってこんな冗談を言うことができたのだ。

「エンジェルとキューピッドは違うものなんです、ご存知でしたか?」

 リーダーは笑ってこう言った。

「すまない、知らなかった。……だけど、そんな冗談めいたことを言えるんだから、心臓は強いみたいだな」

 そう言うと、リーダーは初めて手を差し伸べた。少女がその手を握ったとき、二人のバンドメンバーが大きな拍手を持って新たな仲間を迎え入れた。

 少女は自分の新しい居場所を見つけられたような気がした。彼らとは血縁関係ではないのだから、いずれは別れてしまう運命にある。それでも、今この瞬間だけでも満たされていればそれで充分だと、少女は思ったのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る