043.待ち受ける群衆
堤の上をしばらく歩いていた。どこか低いところから響いている音が耳の辺りで囁いている。低くか細い音はいつからか意識の上に登場してきたけれども、いつからか意識の外に退場してしまった。そうして無意識に近いところで歩いていくうち、またしてもどこかの機会に低くか細い音が意識の上に現れるのだった。
野分を先触れするかのような、荒っぽく、それでいて小役人のような心細さの風が唸っている。空を見上げれば筆を走らせる前の紙のような色の雲が、やはり荒っぽい風に蹴散らされていく。彼方を見れば、夕立つのも遠くはないなと、今更のように実感した。それが、久しぶりに腕に抱いた実感だった。雨が降ればその実感も強まるだろうか、いや、それはない。朝に夕星の夢を見るのも稀ではなく、そのことは不思議と周囲にも知られていた。そんな私が雨に打たれたとしても、何を感じることがあるだろう。実感を実感として体験することの難しさ、その真髄は他人には分からないだろうが、それは本人であるはずの私にも分からないのだった。それでもあえて一言で表すならば、その一言をあえて忌避はしないが、病の一言で済まされる。例え話であるから気楽に聞き流せるのだが、病にかかった人間は食が衰え、病はいよいよ強まり、そのために食はさらに衰える。そうした流れが、実感の問題にも同じく存在する。実感のないことは現実を遠ざけ、実感はいよいよ衰え、そのために現実はさらに遠ざかる。どこまでも続いていく連鎖が、そこにはあるのだ。
私はそれを断ち切れぬと思った。断ち切ろうという強い意欲さえない。何故なら、そこに実感はないから。だから私を救えるものは私自身ではなくて、私以外の誰かだと思った。
世人は別の現実を生きているらしい。より正しく言えば、現実の別の層を。私は言葉というものを理解しているつもりだが、その理解が間違っていなければ、言葉には表れている部分と表れていない部分がある。特に皮肉がそうだ。表れていない部分にこそ、その真髄はある。それと同じことで、現実には表と裏があるらしいのだと、私は言いたいのだ。
ああ、言葉を重ねていけばいくだけ、現実はさらに流れていく。掴んだと思った瞬間には別の現実が生まれている。掴んだものが死に絶えているのを見るたびに、私は意欲を失っていくのだ。
話を元に戻せば、私は私自身を救うことができないだろう。誰かに掬い上げられるのを待つうちに、現実という名の川は流れ、私は押し流されていく。そうして行き着くところは海だろうか、それとも埋め立てられた上辺だけの都だろうか。どちらであっても、もう良いのかもしれない。そうして私は私を突き放しておきながら、戯画化された私を生きるつもりでいるのだ。もう言葉を云々する必要もない、このまま現実の水面に顔を浸してみようかとすら思えた。
――空白の後、現実はそこで待っていた。未だ夜は訪れていない。どこまでも続く堤は、どこまでも続く人の道の言い換えだろうか。そう思うと、未だ時間はあるのだと思った。けれども私のために用意されている時間はどこにもない、どこにもないのだ。
私は堤の上を再び歩き始めた。生きているのだという実感もないまま、再び低くか細い音が耳の辺りを挑発し始めた。雑草を踏みしめるのと風の唸るのとが交わる中で、私はその低くか細い音が自分を呼ぶ声なのだということにようやく気付いた。そして、その声を発しているのは遠くにいる自分自身なのだった。
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