041.流星
それは中学生の頃だったかと思う。幼さを振り払って、それでいて賢さを持ち合わせてはいなかったから、ちょうど中学二年生のときだっただろう。その日は食材の買い出しに付き合わされて家族の運転する車に乗っていた。カーラジオから流れてくる古い歌謡曲を口ずさむ父親を瞥見して、私は窓の外を見やった。軽蔑するように視線を外しておきながら、その感情をバックミラー越しに見られていなかったかと不安に思った。私は念のためにバックミラーをちらりと見ると、おそらくは偶然なのだろうが父と目が合った。その一瞬の無表情を勝手に解釈して、私はぐったりとした気分で目を瞑った。
暗い家庭だった。友人たちは中学生ともなると家族と買い物へ出かけるようなことはなかったから、私は幼いとか家族と仲が良いと揶揄されることがあった。前者は正しい。しかし、後者に関しては全くの事実誤認だった。父は典型的な内弁慶で世間体は良く、親戚や近所の人からは好かれていた。それが家の中では気に食わないことがあると殴る。さすがに妹を殴ることはなかったが、母や私はよく殴られていた。その暴力にも変遷があって、幼い頃は母に暴力がいったが、やがて母がくたびれてくる。そうすると中学生の私に――この頃が一番酷かった――暴力がきた。ところが私が長じてくると反抗されるのを恐れたのか、再び母が酷い仕打ちを受けていた。その一方で母は――いや、この先はやめておこう。高校生の頃になった私が暴力を受ける母を助けなかった事実を提出しておけば、きっと察してくれることだろう。
ともあれ、先にも言ったように中学生の頃は未だ弱い存在だった。買い物へ出かける先は遠くはない。ただ、その日は祝日だったりしたのだろうか、何らかの都合で道がひどく混み合っていた。父は普段好んで使う狭い抜け道をあえて避け、大通りに出た。ところがこちらでも渋滞に陥ってしまい、父は次第にいらいらとし始めてきた。私は窓を開けて新鮮な空気を吸おうとしたが、寒いだろうが馬鹿野郎ッ、と怒鳴られてすぐに窓を閉めた。母はちらりとこちらを恨めしそうに見てきた。
のろのろと進む車の中で、私は何事もできずにただ座っていた。その頃はこうした隙間の時間を潰す遊びがなかったのだ。遊び相手となり得るのは活字くらいのものだっただろう。ただ、私には本を読む習慣がなかったし。そもそも三半規管の弱い私が車の中で本を読むことはできなかった。車はあまり動かないから景色も代わり映えがしないし、見慣れた風景を見ても心の躍ることはない。何もかもが停滞していた。
ふと、後ろの方から何か異様な音が聞こえてきた。窓を閉めているので分からないが、たくさんのクラクションと大きなエンジン音。父もそれに気付いて、自分の前言を忘れてしまったかのように窓を開けた。瞬間、真っ赤な流星が横切っていった。通り過ぎていって初めて分かったその正体は、外国製のスポーツカーだった。
「おい、反対車線を走っていったぞ」
と父が呟いたので私はそのことに初めて気付いた。元より父は品行方正な人間ではないから、そのことを咎めたわけではない。父はただ唖然としていたのだ。私はそれを見て、何だか叫びたいような思いに駆られた。なんだ、この男はこんなことで言葉を失うような人間なのか。そのことを私は全世界に向けて叫んでやりたくなったのだ。
……帰り道、警察や救急の車両がスポーツカーの走り去っていった方へ向かっていくのを見た。何か尋常ならざる気持ちに襲われた私は、再び渋滞し始めた反対車線の車の列をただ眺めていた。行くときとは対照的に良くなった車の流れは、とても皮肉な色合いを持っていた。
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