040.断章:丸と十字

 その頃の私は近所の小川で時を過ごすのを好んでいた。水の流れる音もその澄み渡った色も好きであったが、最も私の好んだのはその不変なる有り様であった。水は高きところから低きところへと流れていくものだが、その移ろうように見えるのはまやかしで、この刹那に水の一滴が占めていた空間は次の刹那にはまた別の一滴が、つまりは同質の物質が占めているのだ。私は書生然とした生活を送っていたものだが、学問というものはろくにしていなかったから、そうした想念が正しいことであるかどうかという疑念はあった。しかし、心のどこかに疑念があるのを瞥見しながらも確信を抱いてもいた。その名も知れぬ小川を通して、私はこの世界が首尾一貫した何かによって動いていることを悟ったように感じていた。

 ちゃぽん、と子供の拳くらいの石が投げ込まれた。俺が思わず声を上げたのは懐中に収めていた手紙が濡れたことを恐れたのではなく、俺の世界が脅かされたと感じたためであった。斜め後ろを振り向けば、同じ先生のところで厄介になっているゆう子が舌を出していた。その舌の赤々とした様に俺は言い知れぬ怒りを覚えた。

「何をしやがる」

「またこんなところでぼうっとしているから、あたしが頭を冷やさせてあげたの。早く戻らないと、日が落ちるわよ」

 ゆう子はそれだけ言うと背の高い草の向こうへと駆け去ってしまった。人気のないところを選んでいたつもりではあったが、ゆう子は俺の拠り所としている隠れ家を知っていたのだ。油断のできない奴、と思いながらも俺は太陽を見上げた。まだ半分を過ぎて間もない頃だった。ゆう子はたまに訳の分からぬことを言う。それは俺をからかっているのか、それとも頭がこんがらがっているのか、よく分からないところがあった。というのは、ゆう子の働きぶりというのは同じ屋敷の中で働いていれば自然と耳に入ってくるものだが、人によって評価がまるで違う。男の間では総じて人気があるようだが、女たちの間ではあまり好まれていないらしい。まあ、自分には関係のないことだと、俺はそう思った。

 俺は仰向けになって太陽を見上げながら、ある女性のことを思い浮かべていた。澪というのがその人の名である。ご主人の娘だった。

 一口に言うなら、俺とは違う種類の気高さを持っている。階級だとか人種だとか、そうした言葉では括ることのできない、何か異様な雰囲気の人なのだ。一度だけその姿を真正面から見たことがあるが、俺は一目でこの人が欲しいと思った。自分が顔立ちだけで人を欲することのできる人間だとは思わなかったが、しかしそうした跳躍を俺はしたのだ。その顔立ちが今も目に焼き付いて、こうして太陽を見つめていると白光する世界の中にあの人が世界のあちらこちらに等しく存在していると感じた。そうして目を閉じると、自分がその世界の中に同化していくように感じられて、陶酔の中で、俺はあの太陽を掴んだのだった。




 結局、お屋敷に帰り着いたのはそれから数時間後のことだった。俺は託された手紙を兄貴分の久彦という人に手渡したが、すぐにゲンコツがとんできた。いつもなら叱責で済むようなところがそうなったのは、きっとゆう子が告げ口をしたからなのだろうと思われた。俺の道草は常習的になっていたから、今更になってそれを正そうとするはずはないと俺は思ったのだ。

「次からは器用にやります」

「バカ野郎ッ」

 ここで二発目のゲンコツを喰らったのは、道草という行為自体を責められているのに、それが露見するか否かという次元で考えた俺の失敗だった。少なくともそれを口にしたのはまずかった。後から振り返ればこれも矯正を目的としていたのだろうし、そこに愛情を見ることもできるのだが、殴られたときには当然そんなことを感じる余裕もなく、俺は睨みそうになるのを何とか上目遣いまでで抑え、兄貴の前から引き下がった。

 よく掃き清められた廊下を歩いていくと、途中でゆう子と出くわした。ゆう子は数人の女たちの最後尾にいた。女たちは俺を見てくすくすと笑いながら通り過ぎたが、ゆう子だけは俺の裾を引っ張って耳元でこうささやいた。

「後で裏へいらっしゃい」

 俺は開き直って畳の上に身を投げだして、天井を見つめながら自分の境遇を思い返した。貧農の次男として生まれ、いざこざを起こして郷土を追われ、結果的に東京まで上ってきたわけだが、こうして畳の上に身を投げて思案に耽る余裕を持てるということは、それはそれで幸福なことだと思われた。俺を疎んでいた相手とはいえ、兄や弟は何をしているだろうかと気にならないわけではなく、また生まれ育った土地への愛着も未だにあったから、思い出したときには北の方角を向いて頭を垂れることもあった。大陸のことわざを思い出しそうになってその言葉が出てこなかったのだが、人生は何があるのか分からないものだ。

 大陸といえば、あちらでは数年前に起こった戦闘が未だ続いている。その収拾がつくどころか衝突の規模はどんどん大きくなっているという。俺も何度か先生の書斎に足を踏み入れることを許されたことがあって、東亜の詳細な地図をまじまじと眺めたことがある。そうしてみると我が国に比べて大陸というのは一回りどころか何倍もの広大さがあって、その国を相手に戦っているのだからなかなか無茶なことだと思った。しかし、我が国の文明は日に日に進化を続けているのだから、その国運の隆盛なるを以てすれば敵を膺懲、つまり懲らしめることができるのだと先生は言っていた。俺はその言葉を頭から信じたわけではないが、かといってそれを否定するだけの頭があるわけでもなく、宙ぶらりんの感覚で日々を送っている。

 そうした空白状態は日増しに強まり、敗戦の瞬間まで長く続くこととなった。




 屋敷の裏には小さな空間があって、そこは本当に何もない空間だった。背の高い外壁と小さな蔵との間に囲まれたその長方形の空間にはよく人が集っていた。俺のように人目を避けて時間を潰したり、表では言いにくいことをここで伝えたりするのを見かけたことがある。小さな丸太椅子が二つ、どこからか運ばれて設置されている。誰もが知っていながら表向きには口に出さない、まるで透明な空間だった。ゆう子が俺を呼び出したのも、その空間だった。

 畳の上で少し寝息を立ててしまっていたから、ゆう子は待ちくたびれたようにして丸太椅子に座っていた。その後姿を見たとき、女と二人きりでこの狭い空間にいることの妙な感覚を急に実感させられた。その感覚が、ゆう子が振り向いて俺を見たときには霧散してしまったから、俺はその感覚の深いところを理解することはできなかった。

「遅かったわね」

「悪かったな」

「そういう意味じゃないの。早く治療してあげないと後がひどいわ」

 一度はゆう子の手を払い除けたが、結局は大人しく従うことになった。額の怪我だから自分ではよく分からなかったが、女たちがくすくすと笑えるくらいには軽く、また一目で分かる程度には青いあざができていたのだろう。俺はしばらく目を閉じていたが、ゆう子の手首の匂いがそっと漂ってきた。それは何かの香などではなく、ゆう子自身の体臭なのだろうけれども、何か甘酸っぱいものを感じた。

「お前は誰に対してもそうなのか」

「何が?」

「快活なように見せかけて、男を誘うのか」

「ひどい言い方ね。あたしを商売女と勘違いしているのかしら。商売女だったらこんな怪我、放っておくに違いないわ」

「じゃあ、何故」

 俺はゆっくりと目を開いて尋ねた。ゆう子の視線と一瞬触れ合ったが、すぐに離れた。

「もうこれでおしまい。さあ、やるべきことをやってきなさいな。……意地悪なあなたは澪様にでも笑われてくればいいんだわ」

「……澪様が帰ってきているのか」

「そう、あなたの大好きな澪様」

 俺は思わず内面を表情に出してしまったが、ゆう子の顔には意外にも嘲りの色はなかった。

「誰だって澪様を好いているものね。みんな、あの人のとりこ」

「みんなって、たとえば誰のことだ」

「誰って、あなたの兄貴分の久彦さん、あの人もそうでしょうね。それから先生。まあ、先生の場合は好きの意味がちょっと違いますけどね」

 ゆう子は少しだけ口を噤むと、それから勢いよく立ち上がった。

「無駄な時間を過ごしたわ。ほら、あなたもさっさと行きなさい」

 俺たちは何かしらの気持ちを引きずって、周囲も確かめずに表の方へ出ていった。するとそこには案の定というべきか、澪様の姿があった。

「お前たち、何をしていた」

 澪様の隣には兄貴が立っていた。澪様に見られたのよりも兄貴に見られたのを恐れたのは、先程のゲンコツがあったせいなのだろう。

「いや、何も」

「何もないということはないだろう。ゆう子、勝男と何をしていた」

「治療をして差し上げていたんです。ほら、強かに殴られていましたから」

 ゆう子は自分が覆ったはずの傷痕をぺろりとめくると、その痛々しい青あざを澪様に晒してしまった。

 澪様は驚き、どうしたのですかと声を上げた。ゆう子はにやにやと笑い、俺と兄貴分は立場を失って動揺した。

「その、正直に言うと、兄貴に殴られたんです」

「いや、これには事情があって。折檻するためにやったのが、少しやり過ぎました……」

 最後の方は聞き取れないくらいになっていくのが面白く、俺は早くも立ち直って笑いをこらえるまでになっていた。

 澪様は行き過ぎた折檻を叱り、また俺に向かって折檻されるようなことをせぬようにと仰った。俺たちは静かに頭を下げた。

 母屋の方へ戻った俺たちは、二人して笑い合った。兄貴分として幅を利かせる久彦のあの大人しい様を見て、俺は何か今までにない心境に至っていた。

 そしてそれ以上に、俺は初めて倒錯的な気分を味わっていた。恥を忍んで傷痕を見せたときの、あの陶酔。俺が今までに抱いていた幻の陶酔とは違って、本物の陶酔はひどく腹の下をくすぐるようなものがあった。それもまた、何か新しい境地へと至る道を拓いたように俺には思えたのだった。

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