039.フルーツパーラー
「おーい」
どこからか声が響く。辺りは暗闇で、周囲を見回しても誰が呼んでいるものか分からない。
「おーい」
ひどい反響のおかげでその声は野太くも甲高くも聞こえ、相手が男であるのか女であるのか、はたまた幼いものか老いたものかさえ分からない。
「おーい」
いつから呼びかけられているのかはっきりしないが、間延びしたように聞こえる声の主の熱心なことは、何度も何度も呼びかけてくることで伝わってきた。
「おーい」
相手は上の方から呼びかけてきているようだった。はるか彼方に浮かぶ月よりも小さな点が見える。焦点は合わないながらも、そこから相手が覗き込んでいるようだった。
「おーい」
それにしても、相手はいつになったら諦めるのだろう。私はため息を吐こうとして、それができないことに気付いた。私は水に浮かんでいる、あるいは沈んでいるのだった。
「おーい」
相手の声がよく聞き取れないのもそのせいであるらしかった。私はいつまでもそこに浸っていたかったが、相手は根気よく呼びかけてくる。
「おーい」
相手は一人なのだろうか。おそらく、そうなのだろう。だからいつまでもこんなことをやっているのだ。
「おーい」
返事をしようにもできない私は上の方へ泳いでいってみようと思ったが、何かに遮られて、というよりも何かに引っ張られて身動きが取れなかった。
「ーい」
不意に声が遠くなった。その声の聞こえてくることが当たり前になっていたから、私は却って不安を覚えながらもようやく眠りに浸れることを喜んだ。
しかし、それは全くの間違いであった。
「――!」
天から降り注ぐその歌声は、紛れもなく異教の神を称える讃歌であった。
私はすぐにその男を止めねばならなかった。何故かは分からない。とにかくここでそのような讃歌を歌わせてはならないのだ。
私の身を封じるものは、どのようなものであっても蹴散らしていかねば。私は激しく身を捩り、暴れ回った。けれども、その行動が全て裏目に出た。
視界がぼんやりとした何かの色に染まっていく。私はそれが血であると知った。私と過去を繋ぐ紐帯は、そのときに完全に断たれてしまった。
それを為した者はあの男であり、また私自身であった。しかし、その罪は私が一身に背負わねばならなかった。
そして私は、男として生まれた。
……騒乱の一切が終わった後、我々は人気のない夜道に放り出された。未だ暑気の払いきれぬ秋口のことであった。
私は足をもつれさせながら砂利道を歩いた。女が腕を組んで私を支えようとしているが、女もまた泥酔しているために却って難儀な道のりになってしまった。
「なあ、どこから来たんだっけなあ」
「あらぁ、知らないのぉ? 私も知らなぁい」
足取りと同じような軽薄さで喋る女に、私は何も感じていなかった。私は女を知らない。それは男色の気のあることを意味しないということを、前もって宣言しておかなければならない。以前に別の女とそうした機会がないでもなかったが、私の方から全てふいにしてきたのだった。
だからこのときも、そのつもりでいたのだ。
「ねぇ、どこへ行きましょうか」
「知らん。お前の家はどこだ、送ってやる」
「私のお家はぁ、あなたの腕の中よぉ」
女が色に溺れていることは早くから分かっていた。だが、このときになってそれを職業にしていることを直感した。そうした匂いをあまりにも直截に発散させているから、却って気が付かないものであった。あるいは、己の経験の不足に因るものであったかもしれないが。
こうした女と出会ったとき、世人はどのように振る舞うだろうか。手慣れた男であれば女を組み伏せるかもしれないし、潔癖かつ孤立した男であれば道端に捨て置くかもしれない。私はどちらかといえば後者であるのだが、しかし首をもたげる何かはあった。そして未だ若かりし私は、つい過ちを犯してしまったのだ。
不意に足が絡まった。転びこそしなかったが、長屋の外壁に女を押し付ける形になった。自然に軽い接吻を交わした。
「ふぅん」
感心とも軽蔑ともとれる女の吐息のその奥に、何かがまだ潜んでいるようだった。私は顎に手を添えて、再び深い吐息の中に落ちていった。
水蜜桃だ、この女は。
それが私の出した結論だった。よく熟れているが、次の瞬間には萎びてしまうような兆しが、喉の奥の苦味に表れている。つまり現在目の前にいる女が頂点なのだ。過去でも未来でもなく、今ここにいる女こそが。私はこのまま別れることが惜しかった。何としてもこの瞬間を手に収めたかった。
逡巡している私を前にして、女は不気味な笑顔を表情を浮かべた。
「女を知らないのね」
その声音には、酔いの欠片すらも見当たらない極めて冷酷な感情が潜んでいるようであった。
「悪いか」
「悪くはないわ。でも、惜しいわね……」
女はかすかに震える私の手を取ると、自分の胸元に押し当てた。挑発だろうかと思ったが、女の仕草は単に心臓の鼓動を感じさせるためのものだった。女の心臓もひどく脈打っていた。
「私、あなたと交わることはできない。今までだってそう、これからも……」
私にはその言葉の真意がよく掴めなかった。だが、食い下がらなければならないと思った。
「とにかく先を急ごう」
「目的地は?」
「フルーツパーラーだ」
自分で誘っておきながら、私はフルーツパーラーに赴くのは初めてのことだった。女は粛々と受付を済ませると、私の手を取って奥へ奥へと進んでいった。
各座敷の前には二組の靴が並んでいて、その襖の奥では思い思いの営みが行われているようだった。不思議なことに廊下を進む私の耳には嬌声の一つも聞こえてはこず、それは我々の到来に気を遣っているというわけではないようで、音の漏れを防ぐ何かしらの工夫が施されているようだった。なるほど、これは人が訪れるわけだ。
印象的なのは音ばかりではなくて、どこからか甘い匂いが流れてくるのだった。真っ赤な襖の奥からは林檎のような匂いが、また橙色の襖の奥からは蜜柑のような匂いが、それぞれ漏れ出してきているようだった。これは粋な計らいではあるが、帰り道に甘い匂いを背負って帰ることになると、通り過ぎる人々に己の欲望をさらけ出しているようでもあり、気恥ずかしい思いをするのではないかと心配になった。尤も、そうした不安を抱えるような人間はここには来ないのかもしれない。
我々の座敷は右側の一番奥にあり、襖の色は桃色であった。
「ここの上客かい?」
私の無粋な質問には答えず、女は予め用意されていたお茶を汲み、卓の反対側の私に差し出した。人肌に近い温かさの緑茶であった。
「それで、私とどうなりたいの?」
女の言葉は私の無粋な問いかけの復讐であるかのように思えた。しかし、それはたしかにはっきりとさせておかなければならないことであった。
「君の核心を知りたい」
「それは肉体の核心? それとも魂の?」
「君はたまに分からないことを言うな。君自身の核心さ」
「いいえ、これは大切なことよ」
女が言いたいのはきっとこういうことだ。自分でなければならない理由とは何であるか、と。
その意味は分かったつもりであったが、答えを持ち合わせてはいなかった。口ごもっていると、女はさらに言葉を続けた。
「私、本当は女じゃないの」
女は私の瞳を見上げながらそう言った。その意味が、まるでよく分からなかった。私が狼狽しながら問いかけたのも無理はなかった。
「男なのか?」
「魂はね。何かの間違いで、この身体に生まれてきてしまったのだけれど」
私は驚愕した。
何故なら、私もまた、男として生まれてきた女であったのだから。
「奇遇だな。僕も男として生まれはしたが、女としての魂を持っている」
「ふぅん」
女はまた微妙な色合いの表情を浮かべながらそう言った。少なくとも私の反応は間違いではないようだった。何にしても嘘を吐いたわけではないのだし。
「酔狂なだけかしら。それとも、本物?」
「酔狂ではないし、本物でもないな」
「どういう意味?」
「成りそこないさ、僕は。男としても女としても生きていけない、ただの贋物さ」
「私にとって好ましい意味で本物みたいね」
女は出会ってから初めてのうっすらとした笑みを浮かべた。自然と私も歯を見せそうになったが、どこか恐ろしさもあった。己の核心を語ることは初めてのことだったから。
ただ、我々は打ち解けた気分になった。畳の上に座っていることもその気分を助けた。
「ねぇ」
「何だ」
「実験をしてみる勇気はある?」
実験。ここで発せられたその言葉の意味はよく分かった。それでも曖昧な表情を示すのに留めたのには理由があった。まさにその勇気とやらがないためであった。
「どう、実験よ。分かるかしら」
そうやって私に分からせようとしているのは、彼女自身の勇気のなさを示してもいた。主導権を握ることへの恐怖があるのだ。
それが分かった途端、私は女のことを妙にいじらしく思えてきた。二十年以上も男の肉体として生きてきたことの効能が出てきたらしい。女を助けてやりたいと思った。
しかし、恐ろしさのあることは変わらない。二人が交わったとき、そこに何が待ち受けているものか。そして、もしもそこに何もなかったなら。
「やろう」
ああ、これが自己犠牲か、そんなことを考えながら私は着物を脱ぎ始めた。女の視線が私の腹のあたりに注がれているのが分かった。
「どうした」
「ああ、本当なのね。私も臍がないの」
「呪われているんだな」
それは半ば以上は私自身に向けて言った言葉だった。女がどう受け取ったものかはあえて探らないことにした。
何度かの接吻の後に女の着物を剥いでいった。女の言った通り、そこにあるべき臍はなかった。
終始、我々は肌と肌を密着させた。特に臍が穿たれているべき腹のあたりを擦り合わせた。その最中に女が徐々に萎びていくような思いがしたが、それは私の中の女が息吹を受けて芽生えていくのと呼応しているようだった。やがてどこかの瞬間で我々は峠の切り通しですれ違った。振り返る間もなく、我々は元来た道を下っていくような気分で、それぞれの家路に就いた。
若者たちの間でフルーツパーラーと呼ばれる魔窟が炎に包まれたのは秋口のことで、そこは入り組んだ路地の奥にあるために迅速な消火活動を阻んだ。寝煙草が原因であろうというのが消防の見解であったが、警察は念のために焼け跡の捜査を行った。十名以上が犠牲になった凄惨な焼け跡ではあるものの、焼け落ちる前の光景を見るのとどちらが警官たちにとって幸福であるかは意見が分かれた。不審な点は特にない。ただ、性別の分からない二人の遺体は最後まで身元が分からなかった。
結局、彼らは同じ墓地に埋葬されることになった。墓碑銘はない。名も知れぬ人々の死とは、そういうものであった。
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