034.神秘
作家の神津が山中から救助されたのは夏の終わりのことだった。数日の間はマスコミが枝葉末節にとらわれた報道をしていたが、世間の関心もすぐに芸能人のスキャンダルや政界の動きへと移っていった。
神津には個人的に親しくしている青年がいた。彼はふとしたきっかけで神津と親しくなり、年に何度か神津の自宅に招かれることがあった。彼はしばらく姿を現さなかったが、秋の終わり頃になってひょっこりと顔を見せた。
「風向きが変わりましたね」
応接間に通された彼は、まずそう言った。お茶を運んできた神津の妻は何のことだろうかと不思議そうな顔をしていたが、当の神津はさもありなんという表情をしてみせた。
少しばかり懇談すると、神津は立ち上がって書斎から書類を持ってきた。青年に示されたのは、神津の新作だった。
「拝見します」
しばらくの間、静寂の間を神津は泳いだ。
青年は画家を志している大学生で、近しいものを志向しているとはいえ、文章と絵画とでは表現する言語が違う。だからこそ、神津は未だ世に出していない作品を見せてきたりしたのだが、今回は珍しいことに青年がどんな反応をみせるだろうかと神津の方は心にさざなみを立たせている。一方の青年もこれまでにはない何かを感じ取っているらしかった。先程の発言が示しているのは、そういうことだった。
掌編と言うべき短さの作品を読み終えた青年は、視線を下げたままでふうと息を吐いた。しばらくして青年が口を開いたとき、ちょうど日射しの加減が変わって、この季節にしては珍しく旺盛な光が入り込んできた。
「先生、山奥で何を見たんですか」
「そう、それを訊いて欲しかったんだよ」
神津は思わずそう答えた。マスコミに囲まれていたときには、誰一人としてそんなことを訊きはしなかった。どうして山に入ったのか、どうやって救助が来るのを待っていたのか、謂わば即物的ともいえるような質問だけが繰り返されてきた。しかし、山奥で何を体験したのかということを訊いてきたのは、この青年が初めてだった。
「しかし、それは言えないな」
「全てはここに書いている、ということですね?」
「その通りだ」
当意即妙に答える青年に何かを言ったところで、それは真実から遠ざかるだけだと神津には思われた。
そこで神津は、こんなことを青年に質問してみた。
「君は、この作品の核の部分を描くなら、どのように描くかね」
「残念ながら画材を持って来ていないので即答はできませんが……、でもそうだな、このようなことを言えば先生は怒るでしょうか?」
「言ってご覧なさい」
「もしも既存の芸術作品で連想するものがあるとするなら、それは『記憶の固執』でしょうか」
神津は思わず膝を叩いてにこりと笑った。神津がそんな表情を見せるのは、非常に珍しいことだった。
その夜、寝室のツインベッドに横たわる神津は、あの山奥で過ごした時間を思い出していた。時間はぐにゃりと曲がっている。そのことを知った今だからこそ書き得るものがあると、神津は自信を漲らせていた。
果てしない時間の果てにある自分自身の背中を神津は見た。どことなく小さく曲がった背中は、真理を探求し続ける者の背中だった。きっとそこに辿り着けるだろうと、神津は確信を深めながら眠りに就いた。
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