035.徒花
後輩が牛丼を買いに行っている間、ふとカーラジオのチューニングを弄ってみると、若い頃によく聴いていたバンドの新曲がちょうど流れてきた。あの頃とは随分変わってしまったなと思った。バンド名が読み上げられてから、そういえば俺は曲を聞いただけで誰なのか分かったのだということに気が付いた。変わらないものもあるんだなと、何だか妙に老け込んだ気分になって、人間なんて十年やそこらで変わるもんじゃないのかもしれないなと考えたりした。
俺も若い頃には多少希望を抱いていたが、やはりというか、自分の想像していたような生活を送る大人になってしまった。孤立した生活、その一言さえあれば底が知れてしまうような生活だ。昔から人に馴染まず、そして馴染めなかった。結婚だってそうだ。結婚せず、そして結婚できなかった。人付き合いも結婚もその意志さえあれば何とかなったというわけではないだろうというのが、俺の見立てだった。そうした見立てをする時点でどうにもならないと誰かに言われてしまいそうだが、そもそも幼少期の屈折した生活のせいで子供の頃から自分の幸せというものを信じられなかったから、そうした見立ては今の俺が計算ずくで造り上げたものではない。最初から、この世界には光が差していなかったのだ。
どれくらいそんなことを考えていたのか、まあ牛丼を二つ買ってくる間だから大した時間ではないだろうが、後輩が店から出てくるのを見てラジオのチューニングを戻した。不思議なことにその手が何故だか震えているのが分かった。
そうした、時間の流れから解放された一種の空白の中にいたせいもあって、妙に頭がすっきりしていた。車を走らせて次の現場に向かう途中、いつもなら聞き流す後輩の何気ない一言に反応を示してしまったのは、そうした意識の流れがあったからなのかもしれない。
「やっぱり夜勤はきついですね。転職しようと思ったこととか、ありません?」
一週間前に新しい相棒となった一回り以上歳の離れた後輩は、何でもないような調子でそんなことを訊いてきた。皆、最初は似たようなことを言う。夜の仕事に慣れる者もいれば慣れない者もいる。慣れない者はすぐに消えていくだけのことで、とはいっても首をすげ替えられるのではなく、自分から消えていくことがほとんどだ。かく言う俺も他人の事情に深入りはしないから、相棒が変わってから初めて前任者が消えたことを知る。その「交換」の間に起こるいわゆる不義理など、知ったことではない。とにかく相棒が変わることは珍しくはない。そういう仕事環境が俺の孤立性を深めていることは否定のできないことではあるが、俺にもなけなしのプライドはあるし、簡単に「交換」の効くような年齢でもないことは分かっている。
それにしても、転職という言葉を易々と投げかけてくるような奴は久しぶりだ。骨があるというわけではなく、世間知らずなのだろう。俺は押し黙ることにした。人の「交換」が容易く行われる環境で他人に馴染むことの無意味さを感じ続けているうちに、俺はいつしか無口になっていた。俺がまだこの仕事を始めたばかりのとき、先輩たちは一様に無駄口を叩かなかったのだが、それが不気味に思えてこの後輩のようにくだらないことを訊いてみたりしたこともあった。しかし、今では彼らの気持ちもよく分かるようになっていた。
「若い頃しかできないじゃないですか、こういう仕事って」
しばらくして、後輩は言葉を継いだ。俺は相変わらず口を開かない。
「その、何だろう、続けられる秘訣みたいなのってあるんですか……?」
俺の沈黙に耐えられなくなって、最後は阿るようにして尋ねてきたのを面白がる俺がいた。それでも表情には出さずに、
「考えないことだ」
とだけ答えた。どんな文脈だったのかは忘れたが、昔の映画で聞いたような言葉ではあった。しかし、世代の違う後輩にそれが分かるはずもなかった。
「ほら、友達とか彼女とか、一緒に遊びに行けないでしょう。金は貯まるかもしれないけど。そういうのって、どうしてました?」
少し、苛立ちが募り始めた。後輩の想像力の無さへの苛立ちは、そのまま若い世代への苛立ちに転嫁しかけていた。それを寸前のところで抑えることができたのは、俺がまだ若いままでいる証拠なのかもしれない。若いままでいるのか、それとも若いままのつもりでいるのか、それは分からなかった。しかし、いくら年齢を重ねても人と付き合うことのしない人間は、どこまでいっても子供なのではないか……? そんな、熱帯夜の悪い夢のような考えが頭の中に広がっていった。
煙草に火を付けて、頭の中を煙で満たしてみると、悪い考えはその紫煙の中に消えていった。一呼吸置いて考えてみると、この仕事にすっかり馴染んでしまっている自分の姿を見つけることができた。まるで若い頃からずっとこの仕事を続けているのだと後輩に勘違いさせてしまうくらいに。
「慣れてきたら、余裕も出てくるのかなって思ってるんですけどね」
「仕事っていうのは、そういうもんだ」
「ですかね。俺も真面目にやってれば、こんな――っと、何でもないです」
最後まで言わなくとも、後輩がその先に見ていたものは分かった。それは一面の真理ではあるかもしれない。
だが、深夜の陽の当たらない仕事だからといって無条件に唾棄すべきものでもない。清濁いずれにしてもそんな仕事を求めている社会に自分自身も生きている以上は。そう思うと同時に、一人の人間に対して社会全体の大きな責任を背負わせることの無理も分かったから、俺は名もなき闇の中に視線を転じたのだった。
次の現場に到着したのは、予定よりも十五分ばかり早かった。食事の時間を考えれば、三十分の余裕がある。俺は生来の気質をかなぐり捨てて、会話を拒むようにもそもそと食事を進めることにした。後輩も失言しかけた気まずさを引きずっているのか、それとも昔の俺がそうだったように無口な先輩に嫌気が差してきたのか、黙って牛丼を食っていた。
沈黙をかき消すようにスマートフォンの着信音が鳴ったのは、ちょうど後輩が食事を終えたときだった。俺がラジオのボリュームを落とすと、若い女の興奮したような声が聞こえてきた。女。俺には縁のない概念だなと自嘲しながら、最後の一口を食べ終えた。
「えっ、えっ?」
不意に後輩が驚いた声を上げたが、その声の調子だと悪い報せではないようだったから、俺は弁当の空を片付けて目を瞑った。少し、疲れているようだった。
「あの、先輩、ちょっと聞いてくれませんか」
電話を切った後輩がその勢いのままに、助手席との間に張っておいた拒絶のヴェールを引き裂いて、俺を見つめていた。
「ん、どうした」
「あの、俺、父親になるみたいです」
流石に面食らった表情をしていただろうが、俺は湧き上がってくる感情を抑えるために再び目を瞑って、
「……これからは真面目に生きないとな」
とだけ言っておいた。
その湧き上がってくる感情というのは、後輩に対する恐怖だった。
上昇する気分と下降する気分とが混じり合って、俺は自分に向かってお前は孤独な人間だ、孤独な人間だととにかく言い続けたのだが、ふと俺のように孤独な人間も昔この世界のどこかにいたのだろうかと思った。その気分を今ここにいる他人に向けられないことが、本当の孤独なのかもしれないと考えたりしながら。
そしてまた、ある考えが浮かんできた。俺のように孤独な人間は、孤独なままで歴史の闇の中に消えてしまったのだ、ある見方をすれば淘汰されてしまったのだと。神がうたた寝をしているような暗闇の中で、俺は自分自身もいずれは淘汰されてしまうのだということに気付いた。
老いた自分が引き裂かれる姿をしながら、ある過ちがあることに気が付いた。俺は神の見えないところで引き裂かれるのではない、まさに神こそが俺を引き裂くのだと、ようやく悟った。
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