032.軽蔑のための習作
あれは幼い頃のことだが、家族に連れられて行った何処かの森で、俺は子供のカマキリを見かけたことがある。その辺の木々や生い茂る雑草とはまた違う、透徹した緑色の美しさに俺は惹かれたのだった。あの美しさは、森にしなだれかかる日向の、木々の間隙を縫うようにして生まれた輪っかの中に、俺と同じく小さな体を駆って歩き回る柔らかさ、言い換えれば無力さが生み出したものであっただろう。幼く無力であることに対して愛情を抱く俺の感受性は、そのときのことがきっかけに育まれていったのかもしれない。
幼く無力であるもの、それは俺にとっては子供の他には、女を連想させる。その反対に大人びたもの、あるいは力強いもの、そうしたところに男を連想するかといえば、それほど単純ではない。何故なら、俺は男の生理についてはほとんど関心を持っていないから。俺が愛情を抱く存在というのは女に限られる。俺にとっては言うまでもないそのことを、あえて述べなければならないのは、遠い昔に男色を尊ぶ価値観が一部に存在したためであり、この先の未来にそうしたものが復活することがあり得ぬわけではないと、悲観的な臆病者の俺はそう考えるためだ。女を拝し、男を排する、それが俺の中に存在する一つの原理であった。
また別の記憶が不意に思い出される。やはり幼いときに、これもまた家族と共にどこかの神社へ参ったことがある。その頃は俺自身が幼く無力であったから、年嵩の連中から離れて境内を探検した覚えがある。どこかの縁の下に入り込んで、その暗がりの中を這いずり回って、やがて白い長方形に辿り着いた。大人でも入れるような高さで、やむを得ぬ事情があってそこに隠しておいたのであろう、宛名のない手紙がそこにぽつんと置かれていたのだ。ちょうど縁の下から這い出たところで、姿を消した俺を血相を変えて探していた母親が見つけた。そして俺の手に握られた手紙を手に取ると、そこに書かれた何事かを読んだ。
「これを、読みましたか」
俺は首を横に振った。俺が漢字を満足に読めるはずもないと知りながら、そう訊かずにはいられなかった母親の、青ざめた顔がさっと赤くなっていくのを見て、俺は何事かを察した。もっと長じていればその奥にまで踏み込めたのだろうが、そうでなかったのは幸か不幸か、といったところだろう。少なくとも俺の心理を直接的に動かすことはなかった。俺の心に鮮明に残っているのは、そこから先のことだ。車輪に撥ね上げられたかのような俄か雨が俺たちを襲った。俺の手を取って軒下に逃げ込んだ母親のもう片方の手には、既に手紙は無かった。地面の上で雨に蹂躙されていくその手紙の黒々とした文字が溶けていくのを見て、何やら言い知れぬ切なさというものを俺は知ったのだった。
「そんなことを私に語って、何になるの」
身を起こした彼女はそう言った。
「どうにもならないさ。ただ、そうした無駄なことを語りたくなることもあるだろう」
いつになく饒舌な俺に対する冷ややかな彼女の態度はいつものことだった。恋というものを疾うに通過した彼女の感情は、そこから愛に至って、さらにその先へと進もうとしているようだった。俺はといえば、先にも言ったように臆病者だから先へ先へと進もうとはせずにいたから、まだ愛にすら行き着いていなかった。そのために却って感情が長続きしている面もあったが、彼女にしてみれば煮え切らない態度に見えたことだろう。それをどうこう言ったところでどうにもならない、それが男女の関係というものだから仕方ないじゃないか。俺はそう思っていた。
「なあ、子供のカマキリを見たことがあるか」
「何よ、そんなの見たことないわ」
「綺麗なんだよな。すーっと透き通っていて、まるで何かの鉱石みたいでさ。琥珀みたいな感じだったな」
「琥珀は緑色なんかじゃないでしょ」
「まあ、そうだけどな。琥珀といえば……、ウィスキーでも飲みたいな」
「勝手な人。好きにすれば良いわ」
そう言って裸体を横たえた彼女の背中は、少しばかり産毛が目立った。元来が毛深いところのある女で、思い返してみれば俺が初めて知った女というのも毛深かった。別に毛深い女を好んでいるわけではないのだが、こうして行き着いたのがそうした女であることは、何か因縁めいたものを感じさせた。俺が背中に指を這わせると気持ち良さなのか居心地の悪さなのか身体をよじらせる。俺のことを好いている女なのだ、嫌なはずはないだろうと思っていても、時には強い口調で拒絶される。今は俺の指の動きに耐えているだけだから、少なくとも拒絶するつもりはないのだろう。そうしていると次第に俺の気持ちも昂ぶってきて、背中の手を表に回す。やがて身体を向き合わせて、それから夢の谷間に落ちていく。いつものように流れていく時間を、俺はどこかで軽蔑していた。それでも抗いがたい欲望が、俺を突き動かす。その欲動の最中にあって、俺はふとこんなことを考えた。
俺たちがカマキリなら、俺はこの女に喰われてしまうのかもしれない。それでも構わないのか?
その答えが出るか出ないかというまさにその瞬間、彼女は甘い声を漏らしたのだった。
旭日。
俺はその日の昇る勢いというものに特段の関心はない。それでも社会全体が抱えている雰囲気、お仕着せの文化を享受しながら多くの問題を看過しつつ先へ先へと進んでいく、そうした雰囲気とは無関係ではあり得ない。常に新しい匂いを取り入れながら普請の進む街中を歩く気分というのはなかなかに軽快で、それが広くこの国に存在している気運なのだ。
世間は次第に複雑になっていく。桜の樹の一つでも見ればそれが自然な流れであることはすぐに分かる。太い幹を持ち、天に向けて枝葉を伸ばしているその樹は、しかし決して天に届くことはなく、必ず枝分かれした果てに成長を止める。今この場所が果たして幹のどの辺りにいるのかは誰にも分からないが、やがて価値観は枝分かれするだろう。もちろんそこに複雑な言説を伴いながら。
そうした世情を背景に暮らしている俺の想念もまた複雑化しようとしている。あの女は、少なくとも俺のことを愛している。
愛している!
照れを隠したいなどというわけではないが、それは何ということだろう。人が人を真の意味で裁けないのと同じように、人は人を愛せないのではないか? そうであるなら、人は人を愛すべきではないのではないか?
しかし、同時に俺の中にもそれを反駁する声がある。知識欲というものがある。人にはまだ見ぬものに対して恐れを抱きながらそれを探求し征服しようという欲望がある。それと同じように、人は人を愛せないと知りながらもその道を進まずにはいられないのではないだろうか?
いずれにしても、とてつもない信念がそこにあるのだろう。俺はそれに対して辟易せざるを得ない。どこかで冷めた心を覚えてから、俺の中で情熱が燃え上がることはほとんどない。まさにスプリンクラーのように、燃え上がろうとする炎をどこかで抑制する機能があるのだ。
そうして人を愛せないと知りながら、またあの女に情熱を燃やすことができないと知りながら、俺はそこから離れていこうとはしない。俺は、臆病者で利己的で、どうしようもない堕落者なのだ。俺のこの心はどこからきたのだろう。軽薄な世相を反映しているのか、それともどこにでも存在している凡庸な有り様なのだろうか。きっと、どちらでもあるのだろう。俺の堕落は極めて現代的でありながら、どの時代のどの場所にもあり得る青年の悩みなのだ。
自分がどこにもあり得る存在なのだと思えば、悠久の歴史と一体化した、正に生きた人間であるように思える。そのくだらなさを知りながら、俺は遺伝子の担い手として生きてもいる。
遺伝子の担い手といえば、あの女は俺と果たしてどうなるつもりなのだろう。俺と結婚でもして、子供を育てたいなどと考えているのだろうか。俺はといえば、そう、……俺に父親は務まらない。
「結婚?」
彼女は驚いたような顔をして俺を見た。実際に驚いているのだろうが、それはいつかその時がやってくると知っていた類の驚きのようだった。
「あなた、結婚なんて概念を知っていたの」
「ふざけてるわけじゃないんだぜ」
「ごめんなさい。……でも、私の答えはもう知っているでしょう?」
「分からないな」
「じゃあ、はっきりと言います。私、あなたとなら家庭を築きたいわ」
俺はベッドに座って、天を仰いだ。それからしばらくして、
「結婚、してみるか」
「お願いします」
と、事は簡単に進んでしまった。
それでも最後に一つだけ、確認をしておきたいことがあった。
「俺のことを憎んでいるか?」
「いいえ、愛しているわ。どうして?」
「いや、それなら良いんだ。良いんだ、……」
彼女はいつか俺を喰い殺すだろうか?
愛情が憎悪に反転する夢を、いつか淡い緑色の死骸となる夢を、俺は見ていたのかもしれない。
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