031.ゴーストライター
ターンテーブル上のレコードに針を落とす。微かな違和感はあったものの、始まり方の静かな曲だったから特に気にならなかった。できたての食事を前にして匂いを吸い込むかのような仕草でゆっくりと目を閉じる。すぐに豊饒な音楽が流れてくるはずだった。
しかし、音楽は認識を追いかけてはこなかった。
「どうした、故障かな」
男は言った。没入しようとしていた世界がそこに現れないのを知ると、いかにも大儀そうな様子で目を開いた。そこに現れたのは、彼女のはにかんだ表情だった。
「ごめんなさい、意地悪をしたの」
彼女はレコードプレーヤーの端子を示して、スピーカーに接続されていなかったことを彼に教えた。
怒りや苛立ち、あるいは驚きがそこに伴うべき感情だったかもしれない。ただ、この二人の場合はそうではなかった。彼女は彼に、新しいヒントを示したのだった。
「今、こうやって回転しているレコードはたしかに再生されている、ただスピーカーに繋がれていないだけで。音は出ていないけれど、再生はされているの。じゃあ、音楽は流れているのかということになるけれど、どう思う?」
「……それは難問だな。しかし音のない音楽というのはあり得ない――いや、俺は知識としてジョン・ケージを知っている、必ずしも音楽が流れていないとはいえないのか……?」
「面白いでしょ。ねえ、そのアイディアで何かを書いてみて」
彼は一介の小説家だった。この時代のこの世界において小説家というものがどれだけの価値があり、また肩書というものが意味を持つかということは別として。
そして彼女は、彼にとっての助言者のようなものだった。少なくとも、建前の上では。
彼の内面は穏やかではない。実感としては、彼は彼女のゴーストライターなのだった。
「よし、書こう」
そういう引け目がありながらも書くことを承知したのは、彼がある約束をしているからだった。
「次の文学賞に選ばれたなら、そのときは、きっと」
それが彼女の提示した約束だった。
その間も彼女は男たちの間をひらひらと彷徨っていたのだが、彼はきっと最後に流れ着くべき場所が自分の胸の中であると信じ切っていた。
いよいよ文学賞の発表が迫ると、彼女は不意に彼の前から姿を消した。彼のあまりにも儚い自信は、その空白の時間に比例していよいよ散っていくようだった。
書店で文学賞の発表がなされる文芸誌を購入し、息を切らしながら家に持ち帰るまでのその時間が、何かしらの絶頂のようなものだった。そこには期待も不安も喜びも悲しみも全てがあり、そしてその次の瞬間にはそのどれが塵芥となるかは分からなかった。
帰宅し、まずはテーブルの上に文芸誌を置く。開くのが恐ろしい。意味もなく身を清めようかと服も脱がずに浴室に入ろうとすると、既に誰かの使った気配があった。怪しみながらも寝室に入ると、そこには柔らかな肩を露出してベッドに入った彼女の姿があった。
「おめでとう」
夜はアキレスの如く朝に向けて走り出していたけれども、その先を行く亀の姿はまだ捉えきれていなかった。……
『他人を介して知恵を得ることのもどかしさを、彼は感じていた。だから彼女と一つになれたとき、遂にゴーストライターとしての負い目から逃れ得たと、そう感じた。しかしそのもどかしさこそがコミュニケーションなのだ。そのもどかしさから逃れ、遂に真の意味で二人が一つになったならば、二人はその能力を全く失ってしまうだろう。それは、ある意味では幸福なことであるかもしれない。産み出すことの痛み、そして産み落とされたことの悲しみ、それらが彼方に去ったならば、きっと世界に新たな時代が訪れる。いずれにしても今は考えるのをやめよう。春はまだ、来たばかりなのだから!』
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