028.サイレントーキー

 不思議な映画を見ている。モノクロームの映像の中で人々が動き回り、何かを語り合っている。階段を上ったり、ドアをノックしたり、言葉を話したりしているが、その音や声はスピーカーからは流れてこない。そう、サイレント映画だ。

 私はこの映画が大好きで、どうして好きなのかというと、少し恥ずかしいのだが大学時代に付き合っていた女の子と一緒に見たことがきっかけなのだ。ベッドに横たわってお互いの肉体の温もりを感じながら、ふと電源を入れたテレビに映し出されたのがこの映画だった。最初、私はテレビが壊れてしまっているのではないかと思ったが、モノクロームの映像と時々入る注釈のおかげで、それがサイレント映画であることがすぐに分かった。私たちが見始めたのはもう三分の一が終わってしまったところからだったが、不思議と惹きつけられるものがあった。いつの間にか手を握り合っていて、それを意識したときに初めて愛情というものを知った。そして、優しく静かなキス。あの子は今、何をしているのだろうか……。

 回想が過ぎた。私はこの映画を見ると、いつも途中で白昼夢の世界に入ってしまう。だから本当に好きな人からは怒られてしまうかもしれない。でも、私にとってはそれだからこそ、この映画が大好きなのでもあった。

 ちらりと時計を見上げたとき、階段を上る音がした。もちろん、テレビのスピーカーから流れてくるものではない。私がくるりとドアの方を振り向くと、そのドアがノックされたので返事をした。


「やあ、久しぶりじゃないか」


 私の顔を見て満面の笑みを浮かべたのは、久しぶりに会う叔父さんだった。実家にはいつも叔母さんと一緒に来るはずだから、叔母さんは一階で母と喋っているのだろう。


「元気にしてたか?」


 叔父さんはその笑顔を絶やさずに私の隣に座ったが、私の方はあまり喜べるような心境ではなかった。それでも笑顔を見せることにした。


「まあ、それなりに」

「へえ、それくらいで充分だよ。過ぎたるは猶及ばざるが如し、そう言うだろう?」


 いつもの叔父さんの調子だったので、私の笑顔も少しずつ真実味を帯びてきた。


「叔父さんこそ、元気にしてる?」

「ふん、あいつが喜ぶくらいには出かけたりしてるよ。あまり一緒にいると疲れるんだそうだが、正に過ぎたるは何とやら、だな」


 あいつ、というのは叔母さんのことだった。


「ほう、懐かしいものを見てるな。好きなのか」


 叔父さんはテレビを指差してそう言った。


「うん。叔父さんの世代の映画だったかな」

「馬鹿を言え、俺はそんな歳じゃないさ。しかし、お前のお父さんもこの映画が好きだったな」

「えっ?」


 それは初耳だった。そもそも、この作品に限らず映画の話を家族としたことはなかった。私がこの映画を知ったのが大学時代で、それから就職して、結局は故郷に戻ってきたのだが、その挫折の色の強さのおかげで私はつい自堕落な生活を送っている。実家に戻ってきてからは家族ともあまり会話をしなかった。私が叔父さんとの再会を素直に喜べなかったのも、その気まずさのせいだった。


「お前が小さい時はよく一緒に映画を見ていたそうだ。きっとこれも一緒に見たはずだ」

「知らなかった」

「ふん、都会の立派な大学を出て立派な企業に就職しても、それでもまだ知らないこと、分からないことはたくさんあるものさ。だから、くよくよするなよ」


 叔父さんはそう言って私の顔を叩くと、部屋を出て行った。


「何をしに来たんだろう」


 その答えは、私にも分かっていた。






 夜になって父が勤め先から帰ってきた。私は料理の手伝いをするでもなく、階下から呼ばれるまで部屋を出なかった。私が実家に戻ってきてから少しの間は、家族とは別々に食事をとっていた。それが皆で食卓を囲むことになったのは、母から食事くらいは一緒にして欲しいと頼まれたからなのだが、どうもその後ろには父の意向があるらしかった。母を介して私に何かを伝える、それが父のいつものやり方だった。

 どうして自分の口で言わないのだろう? そんな疑問は当然のようにあったが、その答えは自分で考えているだけでは決して分かるものではないし、そうしたやり方に特別反感を抱いていたわけではないから、結局はそのままできてしまった。

 この日も私は父の意向のままに家族三人で食卓についた。いただきますの合唱の後はしばらく沈黙が支配する。やがて母がよもやまの話を始め、それに応じる形で父も話す。昔は私もその輪の中に入っていけたのだが、今はほとんど相槌を打つくらいでしかない。いくつかの話題の後に、母は叔父さん夫婦が訪ねてきたことを話し始めた。


「どうして急に来たんだろうね」

「それはもちろん……ねえ?」


 父も分かっていながら、あえてそれを口にしようとはしなかった。母の視線を受けて私は頷くことしかできなかった。そうして、ふとあの映画のことを思い出した。父もあの映画が好きだったと叔父さんが言っていた。しかし、私の好奇心はすぐに鎮火した。自分から話題を切り出すのに、不思議なくらい勇気が要ったのだ。私は食事を終えると自分の食器を片付け、いつものように自室へ戻ろうとした。

 そこへ父が、


「後で私の部屋に来なさい」


 と言った。私も、はい、とだけ言って二階に上がった。






 ドアをノックすると、少ししてから返事が聞こえた。私が父の部屋に入るのは久しぶりのことだったので、深呼吸をしてから中に入った。

 父はちょうど机の上にディスクを並べているところだった。そのタイトルを見ると、雑多な種類の洋画で、そのどれもが父の好きなものらしかった。その中に、私の好きなあのサイレント映画のディスクもあった。


「どうだ、たまには一緒に映画でも見ないか」


 父はそう言った。私はあの映画のディスクを取ると、これで良ければ、と言った。父はその選択に少し驚いた様子だったが。立ち上がって一緒に居間へ向かった。映画の本編が再生されるまでの間、制作会社や配給会社のロゴなどが表示されていくとき、私は今までにないふわふわとした気分になった。それは純粋に好きな映画が始まることの喜びであり、複雑な回路を通っていくとするなら、父とその体験を共有できることの喜びでもあった。


「昔のお前はこの映画を見ているとすぐに眠ってしまってね。お前の頭を膝に乗せてこの映画を見るのが好きだったな」


 父はそんなことを言った。サイレント映画なので途中で喋られても文句はない。私は父の語る言葉に耳を傾けることにした。

 端的に言えば、父は夢を語った。夢という名の私との思い出と、これからの思い出とを。私もそれに触発されて色々なことを語った。でも、大学時代のあの女の子とのささやかな思い出だけは秘密にしておいた。

 映画が終盤に差し掛かると、この映画最大の見所がやってきた。主人公が女性への愛を語る場面だ。当然、音声は聞こえないから、いかにして観客を惹きつけるかが問題なのだが、主人公を演じる俳優は身振り手振りでその愛の大きさを、深さを、尊さを語る。それは男女間の愛を語っているのだが、音声がないだけに普遍的な愛を語っているようにも感じられる。私はこの場面がとても好きだった。


「Liebe!」


 私の心の中に響く言葉があった。それは、間違いなく愛を意味していた。

 私は、ここに生まれてきたことが本当に尊いことだと、そして生まれてきて良かったと、心の底からそう思えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る