029.コキュートスの恋人たちのための習作2

 彼女と知り合ったきっかけはよく覚えていない。人間関係は往々にしてそういうものだ。どこで出会い、どのように名を知り、どうして惹かれ合ったのか、そんな簡単なことすらも人間は忘れてしまう。それらを忘れてしまう者は未来を見ているようで見ていない。かといって過去を見ているわけでもなければ、現在を見ているわけでもない。人は、何かを見ているようで何も見ていないのだ。

 五十を超えたというのにいつになく妙なことを考えてしまうのは、隣に寝ている彼女のせいであるらしかった。陸奥は、彼女に惹かれながらも彼女を恐れている。何を恐れているのか、それもまた分かっているようで分かっていない。別居中であるとはいえ、妻のある身でいながら別の女と寝ている。その女は歳の離れた二十八歳。そして、彼女は娘と同じ名を持つ。それらのいずれかが陸奥を恐れさせているのだが、いずれにしても社会的道義を逸脱していることに変わりはない。だから不安の原因を探るよりも開き直る方がずっと単純で楽な選択だった。それができないのが、この陸奥という男だった。

 逡巡の後に彼は頭を振り、邪魔な思考を追い払った。目の前のテーブルには琥珀色のグラスがあり、何本かの煙草が転がっている。どちらに手を伸ばすか迷って、衝動に身を任せるようにして煙草を握りしめた。それが悪かったのか握り潰してしまい、すぐに二本目の煙草を、今度は慎重に手にした。人心地はついたが、吐き出す煙と一緒に邪魔な思考が出ていくわけではなかった。思考は行き止まりを前にしてうろうろとしている。半分ほど吸ったところで煙草の火を消し、ベッドの上の彼女に向き直った。

 こうして裸のままで眠っている彼女を見ると、その美しさに改めて気付かされた。若くしてとある会社の役員を務め、ある程度の収入がある彼であったから、彼女以上に美しい女性と知り合う機会はいくらでもあった。実際、関係を持った女性は少なくない。だが、まじまじと彼女の寝姿を見ると、そうした過去の女性と比べても充分に美しいことが分かる。彼は少しばかり贅沢になり過ぎていたのだ。それにしても、彼がそうやって観察したくなるような女性というのも珍しかった。それは彼女に才があるからというよりも、娘と同じ名前を持つことに起因しているのだが、そうやって原因を探すような段階はとっくに過ぎていて、彼は彼女を好んでいた。そうなってしまえば、原因などもう関係なかった。

 陸奥は、菜々子を好んでいる。

 愛していると言うのは、さすがにはばかられた。何故だろうかと自問したとき、やはりまた社会的道義という壁に突き当たった。彼はため息を吐くと彼女の身体に覆い被さって、そっと右手をその首筋に伸ばした。

 ありったけの力を右手に込める。瞑られていた彼女の瞳が俄かに開かれて、状況も分からぬままに彼の顔を射抜いた。その視線は一瞬の後に虚空へと注がれたが、同時に抵抗が始まった。彼の手を引き剥がそうとする両手の動きが荒々しい。が、それに比して両足の抵抗はささやかなものだった。彼はその理由をすぐさま理解した。股を大きく広げて両足で抵抗するには、恥じらいを捨てなければならない。彼女、菜々子は、この期に及んで恥じらいというものを意識していた。そのことに気付いたとき、自然と彼は脱力していた。

 ホテルのさして広くない一室に彼女の咳き込む声が響く。それが落ち着くまでの間に、彼は涼しい顔でグラスの酒をゆっくりと飲み干した。やがて開かれた彼女の口からは、怨嗟の声は漏れなかった。


「そういう趣味があったのかしら」


 彼女の顔を見据えたとき、彼はそこに自分と同じような涼しい表情を見た。


「ないさ、そんなもの」


 彼は吐き捨てるように言った。彼は彼女に抱いている感情と、彼女が自分自身に抱いている感情とが手に取るように分かった。

 それを愛情と言い切ってしまうには、彼はあまりにも歳を重ね過ぎていた。

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