023.神々の戯れ
どこからか迷い込んだ大きな庭の果て、私は開け放たれた窓の傍に辿り着いた。中に人の気配があった。私はそこへ出口を問いかけてみようかとも思ったが、私有地に入り込んでしまっている以上、見つかっては厄介なことになるのが明白だった。照りつける日光のうるさいある夏の日のことだった。私はふと、シチリアのレモンを思い出した。何のことはない、無意味な連想だ。
風に揺れるカーテンか、それとも人の歩く衣擦れか、聞こえるか聞こえないかの小さな音がした。私はそっと家の中を覗き込んだ。そして、私は釘付けにされた。
窓は開け放たれている。風のささやきに揺れる白いカーテンが、茶色の小壜を撫でている。私はまたしても連想した、今度はカルモチンを。その小壜の向こう側ではあることが行われていた。
口づけだ。美しき人々の、美しき口づけ。それは少年と少女だった。見た目こそ幼いが、仕立ての良い洋服がそう思わせるのか、それとも落ち着いた仕草のためか、彼らはずっと大人びているように思われた。ただ、二つの肉体の結節点、唇と唇が震えていた。がちがちという白い歯のぶつかる音が聞こえてくるようだった。あるいはそれが、初めての口づけであったのかもしれない。
唇を離し、見つめ合う二人の瞳。どこかとろんとしていて、焦点が合っていないようにも見えるが、それは生来のものであるのかもしれない。食を求め、また職を求めて歩き回る人々の視線の鋭さは、この二人にはなかった。それからどうするのだろう、私は卑しい者に成り下がるのを承知でその行方を見守った。私の頭の中で思い描かれるのは、照れ笑いをごまかす二人、あるいはそっと身体を離して俯く二人。しかし、実際には二人は二度目の口づけを始めた。無限の時間をそうして過ごしてきたかのように、今度は手慣れた様子で唇で触れ合った。目を閉じて、手と手を繋いで、離して、肩までそっと持ち上げて、そして背中を抱きしめる。一連の鮮やかな動作に私は息を呑んだ。その美しさに、私という存在の汚さが浄化されていくように感じられたのだ。
不意に少女の目が開かれて、こちらを射抜いた。釘付けにされている私は動けるはずもなく、その視線の清らかさに身が震えた。少女は私に構わず再び目を閉じ、果てしのない口づけを堪能しているようだった。そこに私という存在に見つめられていることの快楽があったかどうか、それは終ぞ分からなかった。気付いたときには、二人は身体を離していた。少年が跪いて少女の手の甲に口づけをし、その部屋を後にした。少女と私だけが、その場にいた。
少女はそっと窓際まで近付いてくると、床の高さのせいもあって私を見下ろす形になった。黄色い歯をむき出しにして笑顔を取り繕う私は、さぞ醜かったことだろう。罵倒でも何でも甘んじて受け入れるつもりでいた。できることならそうして欲しかった。少女はしばらく私を見下ろした後、ゆっくりと窓を閉めた。残された私は、静かに涙を流した。涙は、シチリアのレモンよりずっと酸っぱい味がした。
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