021.木星詣で
幼い時分のことである。ある朝、ふと目覚めると、枕元に母親が座っているのに気付いた。いつもなら寝坊しがちな私を、汗の染み込んだ布団から引き剥がすようにして叩き起こす母が、その日に限って私の顔をじっと見つめて起きるのを待っていたのだ。私は何かいけないことをしてしまったのかと思った。私がいたずらなどをしたとき、母はいつも真剣な面持ちをして叱ったものだから、自然とそういうふうに思ったのだ。これまた自然に居住まいを正した私の神妙な表情を見るなり、母はぷっと吹き出して静かに笑った。母はできるだけ声を出さずに笑う人だった。
「今日は早く帰って来るんだよ」
気が済むまで笑い続けた母が、笑顔を浮かべたままでそう言った。私には何のことだかよく分からなかった。
朝の食卓もまたいつもとは雰囲気が違っていた。普段なら私が学校へ出かけるまでずっと新聞を眺めている父親の姿がなかった。父は職人だった。だから母と二人きり、お互いに向い合って朝食をとった。その頃はまだ当たり前のように家庭にテレビのあるような時代ではなく、ましてや私が生まれたのは山陰の田舎だったから、家の中は静かなものだった。ずっと昔に玉音放送を流したラジオは壊れていた。私は漬物のしゃりしゃりとした音を噛み締めながら脳みそを駆動させていくのだった。
食事を終えるとすぐに小学校へ向かう。表玄関の引き戸を閉めて、今日は早めに出発するのでゆっくりと歩くことにした。畦道を通って電線を遡って行けば役場の方へ通じている。いつも役場の前で親友と待ち合わせて、一緒に学校へ向かう。ゆっくりと歩いて来たにも関わらず、待ち合わせ場所に親友の姿はなかった。五分待ち、十分待ったところで時報が鳴った。仕方なく一人で学校へ走る。親友は風邪を引いて休んでいた。
学校が引けると私は早足で帰路に就いた。いつもなら親友とあっちへ行ったりこっちへ行ったり、寄り道をしながら帰るので遅くなるのだが、今日は一人だから寄り道をするわけではない。だからいつも通りの調子で帰れば良かったのだが、今朝の母の一言がまだ耳の奥に木霊していて、まだこの頃は素直だった私は急いで帰宅したのだ。表玄関の引き戸を開けると父が靴を磨いていた。普段は着るものにさえ気を払わない父が靴を磨いているので、私は思わず足を踏み入れるのをためらった。すると父がこれまた締まりのない表情をして、
「おかえり」
と言った。職人気質の父がこんな顔をするのかと、驚いた記憶がある。けれどもその顔はすぐさま下を向いて靴磨きに戻ったので、それがどんな顔だったのかは具体的に覚えていない。
家に上がると母が麦茶を出してくれた。母もまた、箪笥の奥に隠すようにして仕舞っておいた華やかな着物を、畳の上に広げていた。そうして私の薄汚れたランニングシャツを脱がせ、新品のポロシャツを用意してくれた。
「何があるの」
私の質問はおそらく聞こえていたのだろうが、母は聞こえないふりをして台所の方へ行ってしまった。その日の夕食はいつにもまして品数が多く、また時間が早かった。父と母は気が焦るような様子で、疑問を抱えたままのろのろとご飯を口に運ぶ私を急かした。そして、食事の後片付けを終えると、薄っすらとした夜空の下、家の裏手の山の方へ向かったのである。
私の心には不安が兆した。あの粗末な平屋に帰りたくなった。両親は私の感情の動きに気付きながら、それをなだめることはせずに二人して手を握ってきた。手を握られたことへの安堵よりも早く、逃げ出せなくなってしまったことへの不安が湧き出してきた。私は半ば混乱した頭でこの先に何が待っているのか考えた。行く手にはどんよりとした暗闇が広がるばかりで、父の持つ懐中電灯が頼りなげに闇を取り払っていた。季節や場所を考えればホタルを見に行くのではあり得ない。では、何をしに行くのだろう?
ふと、母が口酸っぱく言っていた言葉を思い出した。夜になってから山に入ってはいけない、と。その教えを自ら破ろうとしている母は、最早母としての資格はなく、私が彼らに従う必要はないように思われた。しかし、既に奥深くまで入り込んで来てしまっている現状では、一人で後戻りすることは無理だと思われた。理性でそう考える以前に、闇夜を一人で駆け抜ける恐怖がそこにあった。
どれくらい考えこんでいたのだろう、気付いたときには私たちはある開けた場所にたどり着いていた。その開けた土地の中で、ふらふらと光の球が動いていた。光の球はいくつか、と言うよりも何十個もそこに浮かんでいた。
「ねえ、あれは何?」
やはりホタルだったのだろうか。私は安心して脱力しかけた。しかし、両親が短く、
「違う」
とだけ言ったので、再び恐怖が回ってきた。ホタルでないとすれば、ひょっとすると、人魂?
ちょうどそのとき、私のことを呼ぶ声がした。人魂の一つがこちらに近づいて来るのが分かった。恐怖する私は両親の後ろに隠れようとしたけれども、両親は私の背中を軽く押し出した。断崖から突き落とされたような不快な浮遊感がやって来て、そのまま地面に倒れこんだ。立ち上がろうとする私の手を何かが掴んだ。それは小さな、どこかで見覚えのある手だった。
「遅かったな」
風邪で学校を休んでいたはずの親友だった。片方の手には頼りない光を放つカンテラが認められた。
「どうして、ここに?」
「だって、あれを見に来たんだろう?」
彼もまた、それが何なのかはっきりと口にはしなかった。けれども、既に恐怖は去っていた。その辺に浮かんでいた人魂の一つ一つが、どこかからやって来た沢山の人々の持つ照明器具だった。
助け起こされた私は親友と光の群れに近づいて行った。後ろから付いて来た両親は見知った顔を見つけて世間話を始めた。
これは何の集まりなのだろう、そう思った矢先に歓声が上がった。闇の中の視線が一斉に天を見上げるのが分かった。私はその集団の中に埋もれることを覚悟して、そっと空を見上げた。
最初はあまりに大きすぎて何がそこにあるのか分からなかったが、少しずつ理解が追いついていった。どこからどこまでがそれなのか、宇宙の深淵との境い目を無くした天体がそこに浮かんでいた。浮かんでいるというよりも今にも大地に衝突してきそうな、そう感じさせるほど大きく圧迫感のある天体だった。大きな瞳のような斑があって、そのためか何かしらの意志が存在しているようにも思われた。不思議と恐怖は生まれず、有り難いものをこの目で見ているのだという感覚があった。私は、私たちは、いつまでも飽きることなく夜空の天体を見上げていた。
それは、木星詣での夜は、まるで夢のようにして過ぎ去った。後になって両親や親友にそのことを尋ねても、皆が皆、そんな記憶はないしそんなことがあるはずはないと言った。たとえそれが本当に夢であったとしても、思えばあれが、私の人生における絶頂の瞬間だったのだと思う。
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