013.世界の果て
世界の果てを見たという男がいる。その男は街外れの酒場にいて、いつも自分の体験したことを大声で喚き散らすのだ。大航海時代だとか飛行船だとか、ロマンに満ち溢れたモチーフが繰り返し登場するにも関わらず、その男は人々の歓心を買うことができなかった。男は言うのだ、
「これは俺が実際に体験した話で――」
数百年前の大航海時代に男が生きていたはずはなく、他にも整合性の合わない話を自慢気に繰り返すものだから、単なるホラ吹き男という烙印を押されてしまった。だが、男は至極真面目だった。
ある嵐の日、私はいつものように酒場に入ったが、客はその男一人だった。いつものように四人掛けの丸テーブルのところに座っている。混雑していても男は四人掛けの席を占拠してしまうので、余計に嫌われる原因になっていた。私は迷わずカウンター席に座り、とことん薄めたウィスキーを飲んだ。男はいつになく押し黙っているので、私はその存在を忘れていたのだが、時々思い出して男の方をちらりと見た。男は指を組んだまま俯いているか、天井を仰いで照明とにらめっこをしているか、そのどちらかだった。私と男との間を隔てる空間には誰もおらず、二人きりでいることがなんとなく落ち着かなかった。
私は男の素性を全く知らなかった。彼が狂人であることは間違いないだろうが、彼がどのようにして生計を立て、どのような家に暮らしているか、どうもはっきりしない。きっと誰も彼の本当の姿を知らないのだろう。本当の姿、というものがあればの話だが。
それにしてもひどい嵐だった。安普請の酒場はどこからかすきま風が入ってくるらしく、ごうごうという音が全ての雑音をなぎ倒す。こんな日に酒場に来るのは、馬鹿か変わり者かのどちらかだろう。私は前者で、男は後者だ。そして私たちに共通するものは、独り者だということ。いつも酒場に入り浸っているブルーカラーの男たちには家庭がある。どんな偏屈な男にも妻があり子がある。そのことが胸を強く締め付ける。
若い頃は孤独を厭わなかったし、むしろ進んで孤独を選んだ。しかし、今になってみれば、私は何という過ちを犯したのだろう。私は孤独を選んだ人間ではなく、孤独を選ばされた人間なのだ。私とて真っ当に生きてみたかった。金を稼ぎ、女を抱き、妻を迎えて子供を作る。それが私の思う真っ当な生き方だ。そうやって生きるにはもう遅すぎる。何もかも遅すぎるのだ。
そんなことを考えていると、私の隣に誰かが座る気配がした。ゆっくりとウィスキーを飲み、隣の人間に目をやる。四人掛けの丸テーブルに座っていた男が、私の顔を覗きこんでいた。
「なあ、俺の話を聞いてくれないか」
男はいつものように真面目な顔をしてそう言った。そこで初めて男の眼を見つめた。光沢のある青い瞳が私の顔を射抜いていた。だが、私はもう何もかもうんざりしていた。
「他へ行ってくれ」
「あんたしかいないんだよ。いいか、ちゃんと聞いてくれないと困るんだ」
私はグラスのウィスキーを飲み干してしまった。男に目配せをし、頷いたのでもう一杯ウィスキーを頼んだ。
「昔、世界を旅したことがある。いや、これは実際の話なんだが――」
「ああ、そうだろうな」
「あるとき、俺は南米に渡った。ベネズエラでは油田を見たし、ブラジルではコルコバードのキリスト像も見た。奥深い密林を歩いたし、険しい山岳地帯も乗り越えた。そうして辿り着いたのがアルゼンチンだ。知っているか、アルゼンチンという国は今でこそ後退してしまっているが、昔は本当に豊かな国だったんだ」
「それが世界の果てか?」
「まあ、そう慌てるな。最後に行き着いたのがパンパと呼ばれる大草原だ。見渡すかぎりの草原、どこまでも続く大草原。俺はひたすら歩き続けた」
男がごくりと息を呑んだ。ここからがこの話の肝なのだろう。
「それで?」
「予定では海に出るはずだった。でっかい海、大西洋だ。ところが、どんなに歩いても草原が広がるばかりで海が見えてこない。人も動物も何もいない草原の中で俺は一人、じりじりと太陽に照らされながら歩いた。そのとき気付いたのさ、この先には草原が広がるばかりで何もない、ここが世界の果てなんだと」
「それからお前はどうした」
「エデンなんてありはしないのさ、この世界には。空も海も草原も青いばかり、俺はその中にいるちっぽけな人間。ただ時間に追い回されて生命を剥ぎ取られていくだけの哀れな存在。それを悟ってから俺は真面目に生きるのをやめた。アンタは馬鹿だよ、こんな話を真面目に聞いてさ」
「しかし、それは本当の話なんだろう?」
男の青い瞳が曇った。私は何か、触れてはならないものに触れてしまったような気がした。
「俺は失敗をしたことがないんだ。何故だか分かるか? 俺は失敗というものを認めてこなかったからだ。何かが起これば他人に責任を押し付け、自分自身にも嘘を吐き続け、夢というものもなくただ快楽に耽るだけ。そして今も、冴えない男を相手にホラを吹く……、笑えない話だよな」
「じゃあ、世界の果てを見た話は嘘なのか? 南米を縦断した話も何もかもが」
「南米を縦断したのは嘘じゃない。アルゼンチンにだって行ったし、パンパを大西洋まで踏破しようとした。ただ……」
「ただ?」
「ある地点で挫折したとき、そこにバラを見た。真っ青な顔をした恐ろしく美しいバラを。俺はそれを見たのか、それとも本当はそんなものを見ていないのか、よく分からない。俺はそんな単純なことさえ分からずに、生きている。俺はもう、真面目に生きていくことはできないんだ……!」
真面目、か。私は声にならない声で呟いた。
男は元々、真面目な人間だったのだろう。実際にそうだったし、そうなろうと努めていた。どこかで何かが狂い始めて、自分自身に嘘を吐くようになった。そして、南半球のバラを見た。
雷鳴が轟き、男の痛切な咽び泣きをかき消した。自然は一人の男の煩悶など意に介さず運行を続ける。そのことが、私にはたまらなく悲しく思えた。
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