011.トルコはアジアに入りますか
彼女が密会の場に選んだのは、とある個展会場だった。私も彼女も絵画に興味のあるような性格ではなかったから、私は少しばかり意外に思ったが、却って密会の場所としては相応しい気がした。
その個展はトルコをよく旅した画家の開いたもので、『トルコはアジアに入りますか』という題が付けられていた。もちろん元々は小アジアのことを指していたのだから、トルコがアジアに入らないわけはない。アジアというと、とかく東アジアのことばかり考えがちな我々の蒙を啓くという目的があったらしい。私はそこに彼女がこの場所を選んだ意図を感じ取ったような気がした。
彼女とは高校時代以来の仲で、その頃はごく当たり前の友人として接していたのだが、社会人となってから数年後にばったりと再会し、いつの間にか情念を交わし合う関係になってしまった。おおっぴらに彼女と会うことができないのは、言うまでもなく私に妻がいたからである。しかし、彼女は昔から私に好意を持っていたことをしきりに強調し、まるで私のことを自分の所有物であるかのように考えているのだ。私は一夜の過ちと共に快楽を得たが、同時に厄介な荷物を背負うことにもなってしまった。
会場で最も大きなサイズの絵画の前に立っていた私の隣に誰かが立つ気配がした。彼女だった。彼女は自然な仕草で私の手を握ると、そのまま会場の外に連れ出した。私としてはようやく絵画の面白みが分かり始めていたような気がしていたので、少し残念な思いがした。
「どこかで食事をしようか」
私は半ば抗議のつもりでそう言った。
「食事ならホテルでできるわ。何か買って行きましょうよ」
だが、彼女の意見の方が理に適っていたので、私としてはそれに従うしかなかった。
コンビニに入ってサンドイッチを手に取り、冷ケースからビールを取り出そうとした。その手を彼女が抑えた。
「これから何をするか分かってるでしょう?」
たしかにこれから事を始めるにあたって、アルコールの力に頼る必要はなかったし、却ってその妨げになることは間違いなかった。ただどうしても酒を飲みたい気分だったのだ。そこで私は小さめの缶ビールを一本だけ取り、彼女をなんとか説得した。
コンビニを出てすぐにタクシーを拾うことにした。今度はようやく私たちの意見が合致した。しかし、週末ということもあってなかなか空車がなかった。仕方なしに私たちはホテルまで歩くことにした。
通り雨に濡れた舗道を行く私たちは、さながら無垢な恋人たちだった。妻を持つ者にしてみれば、高校時代の友人とこうしてホテルまでの道のりを歩くのは、ある意味でロマンティックであるとも言えた。時々、台風のように私の心は酷く乱され、彼女とこのままどこかへ逃げてしまおうか、などと考えることがあった。私と妻との関係は決して悪くはなかったが、どうやっても子供を授からなかった。その一方でこの女とは、一度だけそういうことがあった。私も彼女も気を遣っていたのだが、何かの拍子にそうなってしまったらしい。あの頃は私も彼女も今より若かったから、躊躇なく堕胎を選んだ。だが、既に三十代に足を踏み入れてしまった今、もし同じようなことが起これば、彼女はどのような反応を示すだろうか?
私は戦慄した。私の心を占めるのは、彼女のことばかりだった。私はとっくに彼女の虜になってしまっていることに戦慄したのだ。いつまでこんな生活を続けなければならないのだろう。そう考えたとき、私が捨てようとしているのはどちらの生活か、分からなくなってしまった。私に身体を預ける彼女の甘い香りが、その混乱をさらに激しくさせた。
私は今、どこへ向かっているのだろう?
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