010.後部座席にて
「桜、綺麗でしたね」
花見の帰り道、タクシーの中で僕はそう言った。隣に座る貴音さんは小さく返事をしたようだったが、よく聞こえなかった。僕も一人ごとのつもりで言ったので、あまり気にはならなかった。
喧騒からの逃避行は橙色の街灯に彩られ、方向指示器の音が探針音となって、絹のような暗闇をかき分ける。僕らの距離は近いようで遠い。居心地の悪さはない。これが貴音さんとの自然な距離なのだ。
成り行きとはいえ親友の年上の彼女と相乗りになるのは、少し不思議な気分だった。それは、まるでお姫様を守る騎士のよう。そこまで考えて、僕は愉快な気持ちになる。僕が騎士だとしたら、親友の家来ということになる。そんな面白い話があるものか。
連休の前夜ということもあって、道はいつもより混雑している。音楽は流れていない。さすがに沈黙が苦痛になってきた。
「こうして二人きりになると、何だか緊張しますね」
「そうですね。私、いつもあの人と一緒だから、こういうことは珍しいかもしれませんね」
「あいつも自分で貴女を送ってあげればいいのに。そういうところ、不器用なんですよ」
貴音さんは返事をしなかった。まずいことを言ったかと思ったが、しばらくして彼女は口を開いた。
「そういうところ……、そういうところをこそ、私は好きになったのかもしれません」
車が停まる。信号待ち。合図の青を浴びて、車は発進する。
「あいつは少し不幸な奴で――僕が勝手にそう思ってるんですが――、他人からの愛を知らないんです」
「愛を知らない?」
「自分の気持ちだけが先走って、いつも女性とは長続きしないらしくて。自分から告白したことはあっても、告白されたことはないって言ってましたね」
「私のときはお互いに告白しませんでしたよ。そうですか、こういうことって珍しいんですね、あの人にとっては」
「ええ。だから、とても喜んでましたよ」
窓外の風景が変化してきた。街並も通行人も、どこか寂しくなってくる。
「私も同じなんだと思います。誰かに認めてもらいたくて、必死にもがいてきたような、そんな気がします」
「でも……、でも、貴音さんはとても素敵ですよ」
僕はちらりと顔を見た。暗闇の中から橙色に浮かび上がってくる横顔。形の良い瞳は伏せられていて、長い睫毛が印象的。鼻筋の形は良く、唇の大きさは控えめ。小さな頭を少し長めの首が支えている。酩酊は冷めて、今では特別に美しいとまでは思わなかったが、貴音さんは間違いなく美人の部類に入る。
「ありがとう」
貴音さんは目を伏せたままでそう言った。美人であることが無条件に幸福をもたらすわけではないらしい。
「あの人とは、初めからこうなる予感がしていたんです。ほら、たまに言うでしょう、運命の人と出会ったときには身体に稲妻が走ったようになるって」
「ええ」
「私、そんな経験をしたんです。あとから聞いてみれば、彼もそうだったって」
嘘だ。
僕は直感的にそう思った。あの男はそんなロマンチストではないはずだから。
「あの人は結婚しよう結婚しようって、何度も言ってくれるんです。でも、今は結婚のことなんて考えられなくて」
「どうしてですか」
「将来が見えないと言えばいいんでしょうか……、きっと上手くいく、そんな自信が持てないんです」
「それはあいつとだからですか、それとも」
「分かりません。結婚ということ自体、今まで考えたこともなかったから。彼はきっと運命の人だからって思えば思うほど、不安になるんです」
僕には貴音さんの言うことが分からないでもなかった。相手が大事であれば大事であるほど、その人生に深く関係していくことが果たして良い結果を生むのか、自分では相手を幸せにできないのではないか、そういう不安を抱えてしまうものだ。
でも同時に、貴音さんほどの人がそういう不安を抱えることに驚きもした。僕はきっと、この人に恋をしている。
「本当に私でいいんでしょうか。私のような女で」
「もちろん貴女のような人なら、誰だって嬉しいはずです」
「もしも、もしも……、貴方が彼の立場でもそうと言えますか?」
その瞬間、僕は何と答えれば良いのか分からずに絶句した。そこで無理矢理にでも言葉を詰まらせなければ、全ての思いが噴出してしまいそうだった。
「ええ、僕だとしても嬉しいですよ」
「……そうですか」
どこか熱が冷めていくような、そんな気配がした。一瞬の沈黙が貴音さんを誤解させてしまったようだった。僕はそのことがたまらなく苦痛に思えて、つい取り乱してしまった。
「違うんです、そうじゃないんです。僕は、僕は……」
「えっ?」
「貴女のことが――」
不意に救急車のサイレンが聞こえてきた。車が路肩に避けると、そのすぐ横を救急車が通り過ぎて行った。
何かがその瞬間に失われ、そしてその瞬間のために全ては今まで通りの形を保った。僕はその言葉を呑み込んで、貴音さんに微笑んだ。
「きっとあいつなら、幸せにしてくれますよ。そして貴女なら、あいつを幸せにすることができる」
「ええ、そうですね」
貴音さんが笑顔を浮かべて頷いた。これでいい、これでいいんだ。僕はそう自分に言い聞かせた。
それから五分ほどしたところで貴音さんは下車し、僕を乗せたタクシーは再び発車した。運転手が気を利かせてラジオのスイッチを入れた。ちょうどテイク・ファイブのドラムソロが流れてきた。
その演奏を聴きながら僕の心に広がったのは、恐ろしい想念だった。僕はあの男を奈落の底に突き落とすために、彼の親友をやっているのではないか、と。
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