006.タチアナ

 スポーツクラブ内のレストランである女性を見かけたことがある。タチアナという女性だ。彼女は女優として名を馳せ、海外のどこそこの映画賞を受賞したりだとか、とにかく様々な賞を総なめにしていたのだ。それでもその道の性というべきか、人気がいつまでも続くはずはなく、今では第一線を退いている。別にスキャンダルを起こしたわけではないし、美貌に翳りが出始めたわけではないし、演技が衰えたわけでもない。世間に飽きられてしまった、としか言いようがないのだ。

 レストランが併設されているようなスポーツクラブだから、それなりの財や地位を築いた人々が利用していて、タチアナが姿を見せてもあからさまに騒がれるというようなことはなかった。ただ、場の雰囲気は明らかに変わった。私もタチアナがその場に姿を現したことに驚いた。彼女の一挙手一投足をつぶさに観察した。彼女の尋常ではないところは、おそらく場の雰囲気が変わったことに気付いていながら、また私がじっと挙動を見つめていることを知りながら、まるでそれに関心を払わなかったことで、むしろ私と目が合うとウィンクを返したりしてきた。

 さて、彼女が一人でレストランに入ってきたかといえば、そうではない。白いポロシャツを着た中年の男性に連れられていた。ラフな服装の利用客は他にもいたけれど、彼は特別に軽装だった。それでも身体つきががっしりとしていて、振る舞いが上品なのだろう、どこか気品を感じさせた。彼はイタリアンサラダとコーヒーを頼んだ。食事をするためというよりは、少し休憩をするために入ってきたというように見えた。タチアナは食事をとらなかった。彼もまた胆力のある人で、タチアナのせいで人々が動揺しているのをどこか楽しんでいるようだった。

 この二人は今や間違いなくスポットライトを浴びていた。おそらくは資産家の男性と半ば引退した女優。私は彼らのことをずっと眺めていた。幸せな、暖かい気分だった。幸福な時間というものはあっさりと過ぎ去ってしまうもので、彼らはすぐにレストランを後にした。彼らの席から出口に向かうとき、ちょうど私の席の横を通る形になる。タチアナは去り際に私のテーブルに何かを置いて行った。それがあまりにも自然な仕草だったので、最初は何が起こったのか分からなかった。それは、口紅を押し付けた紙ナプキンだった。

 彼らはこれから運動を始めるところだろうか、それとももう帰るのだろうか? そんなことを考えながら、私は眼下のプールサイドを見下ろした。十分ほどして、私は食事を終えた。席を立とうとしたとき、不意に悲鳴が上がった。客の視線が一斉にプールサイドに向かった。ちょうどタチアナが、水の中に飛び込むところだった。




 一ヶ月後。騒動が収まった頃に、私は再びスポーツクラブのレストランにいた。あの紳士と同じようにイタリアンサラダとコーヒーを注文して、持参した週刊誌をめくった。例の騒動の記事が載っていた。




『女優タチアナの死。アンドロイドが死を選んだ理由とは』

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