005.春はサイドカーに乗って
それはちょうど三月の暴動が起こった頃のことだ。街も人も空も、全てが倦怠感のようなものを抱えていた。それを打破しようとして暴動が起こったのだと男は感じていた。別にそのときの政権や政策に不満があったわけではないし、大多数の人は日々の生活に困っていなかった。全ては順調に、そう順調にいっていた。人と人との関係がそうであるように、何がきっかけになって暴動が始まったのかは誰も覚えていない。誰もが暴動を一時的なものだと考えていた。
そんなある日、男は知り合いの踊り子のところを訪ねた。何十年も前にあるロックスターが下宿していたという家だ。今では誰もその名を覚えていない。ふと、今回の暴動のきっかけと同じだな、と男は思った。この街の住人はとても忘れっぽいのだ。男は裏口から入って二階の踊り子の部屋の扉を叩いた。男はその家の主人と懇意になっていたので、その振る舞いを咎める者はなかった。部屋の中からはか細い声が返ってきた。部屋の外で待っていてくれ、というようなことを言っているように聞こえたので、男は素直に従った。家の中にいては落ち着かないので裏口の外で待った。十分もしないうちに身なりを整えた踊り子が出てきた。
「ごめんなさい、ちょうど着替えていたの」
「そうか。今日はどう、時間の方は?」
「稽古はお休みだからたっぷりあるわ。少し歩きましょうか」
そう言って踊り子は男に先立って歩き始めた。
この踊り子は踊りの才能を認められて国外への留学が決まっていた。私、本場に留学できるのよ。彼女は男にそう言ったけれども、男はその本場というのがどこを指すのか知らなかった。踊りにはまるで興味を持たない男だったが、彼女の踊りとなれば別の話だった。例によって、彼女との出会いはよく覚えていない。だが、彼女の踊りに魅せられたことは覚えている。男はごく僅かな身銭――彼女のパトロンが出資する額の十分の一にも満たない――を切って、彼女を応援した。この男のように金銭なり物資なりで彼女を支援する男は多かったが、彼女は不思議にこの男と日常を共にすることを好んだ。それはきっと、この男が彼女との肉体関係を望んでいない、いや、そう言えば嘘になるだろうが、ともかく身の程知らずな振る舞いをしないことが、彼女の気に入っていたのだろう。
二人は近くの遊歩道を歩いた。雑誌で見かけるスターと知り合いになったと踊り子が言えば、脚色しすぎて矛盾だらけの失敗談を男が語った。二人はよく語り合い、よく笑い合った。いつもの日常だった。
遊歩道の終わりのところでシュプレヒコールとぶつかった。二人はその先のカフェに行きたかったけれど、仕方なしに遊歩道を引き返すことにした。どこか上手くいかない、そんな日だった。
「こんな陽気の良い日に出かけるのは久しぶりだわ」
「今度、兄のバイクを借りてどこかへ出かけよう。君をサイドカーに乗せてあげる」
「嬉しいわ。ええ、嬉しいわ、とっても」
「きっと一緒に来てくれるかい?」
会話が途切れた。微妙な間が生まれた。男はいつか踊り子を自分のものにしたいと考えていたし、踊り子は踊り子で何かを考えていた。
本当のことを言えば、男は踊り子が留学することをあまり喜んでいなかった。それが踊り子のためになるのだから反対はしなかったし、そうしたところで意味がないのも分かっていた。ただ一緒の時間を過ごしたかっただけなのだ。男はまだ若かったのだ。
「これは貴方だけに話すことだから、よく聞いて。留学するのは取り止めになったの」
「えっ。どうして?」
男は嬉しさのあまり声が上ずるのを抑えて、ようやくそう尋ねた。踊り子は俯いたまま、苦しげに息を吐き出すようにしてこう言った。
「子供ができたの」
誰の、とは訊かなかった。それは間違いなく、パトロンとの子だろうから。
「遠い国で一緒に暮らすの。遠い遠い、貴方の知らないずっと遠くの国で」
「……そう」
動悸がする。目眩がする。吐き気もするようだった。
男はバラバラになってしまいそうな自分をなんとか繋ぎとめて、人生で最良の笑顔を浮かべた。
「それは良かったじゃないか」
「ええ。だから貴方にお願いしたいの、子供のために貴方の名前を一文字もらいたいの」
「そんなことをして彼に怒られないのかい」
「彼は貴方のことなんて知らないわ。だから気付くはずがない。ねえ、いいでしょう?」
「……ごめん」
そう、とだけ踊り子は言った。寂しそうな表情を浮かべていた。
男は激昂しそうになるのをようやく抑えて、立ち止まった。まだ遊歩道の中程だった。
「用事を思い出したから帰るよ」
「ええ、さようなら」
「さようなら」
男は再び遊歩道の先まで足を運んだ。デモ行進は途切れることなく続いていた。男はその中に混じって、ありったけの力を込めてシュプレヒコールを叫んだ。
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