004.ピストル・バレエ

 今朝は起きたときから妙な気分だった。向かいの家の主人が熱心に車の手入れをしていたし、中国だかベトナムだかのように自転車で車道を占拠する集団も見かけなかった。何のことはない、今日は祝日だったのだ。

 俺がそれに気付いたのは、地下鉄で二駅分移動してからだ。今日は何月何日だったかなと新聞の日付を確認して、初めて気が付いた。そして自分の失敗に慌てることなく、気分を変えて行けるところまで行ってみようと思った。降りた駅で超過分の運賃を払い、改札を出て右手の階段を昇る。出勤中のサラリーマンとすれ違い、一日を自由に使える贅沢を噛みしめる。

 出口は運動公園の目の前だった。俺はコーヒーが飲みたくなって、公園の中を彷徨う。池の畔に薄汚れた売店を見つけ、運賃の分だけ軽くなった財布を取り出す。コーヒーを注文しようとして、メニュー表に黒ビールの文字を見つけ、迷わずそれを頼んだ。休みなのだから朝から飲んだところで誰にも叱られないだろう。俺くらいの年齢になれば、怒ってくれるような人もいない。……随分と遠くまで来たものだ。

 売店のオヤジが俺に黒い物を差し出した。コーヒーでも黒ビールでもない、回転式のピストルだった。俺は何故だか分からないが、まだきっと頭が覚めていなかったのだろう、そのピストルを受け取り、黒ビールの料金を支払った。初めて手にするピストルは、意外にも紙のような軽さだった。釣り銭と一緒に電話番号の記されたメモ用紙が返ってきた。俺はその番号に電話をかける。


「欲しいものは何かね?」


 電話の相手は売店のオヤジと似たような声をしていた。きっと、双子なのかもしれない。

 ところで、俺には何も欲しいものがなかった。強いて言えば黒ビールか。ふと思いついてピストルの弾倉を覗くと、やはり弾丸が入っていない。


「弾丸が欲しいんだが」

「弾丸ね、弾丸、と。あー、ちょっと今の状況をどう説明していいのか分からないんだが」

「何だ?」

「私は今とある倉庫の中にいるんだが、どこに何があるのか分からんのだ。というのはね、物自体は綺麗に分類されているんだが、どこに何が入っているかが全て英語で表記されているんだな。それで、私は英語が読めん」

「綴りを言えばいいんだな? えーと、ちょっと待てよ。弾丸の綴りは……Ballet、Balletだ」

「ああ、分かった。すぐにそちらに送り届けるよ」


 これで材料は揃った。しかし、ピストルと弾丸を手に入れたところで何をすればいいのだろう? そこから先は誰も教えてくれない。

 俺は煙草が苦手なので、その代わりにミントのガムを噛みながら弾丸が届くのを待った。しばらくして、池の向こう側から手こぎボートで倉庫のオヤジと思われる男が現れた。倉庫のオヤジはこちら側の岸にボートを寄せると、封筒を差し出してきた。俺が中身を確かめようとすると、オヤジはそれを押しとどめた。


「弾丸なんて物騒なもの、何に使うんだい」

「それを考えていたところさ。使い道ならいくらでもあるだろう」

「ふん、単語を間違えてタンゴなんて踊らないようにな」

「何だい、それは。面白くもない冗談だが」

「今日は祝日、女でも誘って出かけるといい。アンタにもそれくらいの相手はいるんだろう?」


 俺はオヤジの冗談を躱して地下鉄の昇降口に舞い戻った。少しばかり足早になる自分を抑えきれなかった。殺す相手が見つかったのだ。






「今日は早いのね。私にも一人っきりの時間が欲しいわ」


 顔を合わせて早々に嫌味を利く女を情婦にしてしまったことを俺は後悔した。俺が買い与えた部屋で俺が買い与えた下着を着て、旨くもない煙草を吸う女。その煙草もやはり、俺が買い与えたものだ。だが、この関係もきっと今日で終わる。俺は乱暴に女の下着を脱がすと、シャワールームに押し込んだ。スーツの内ポケットから取り出したのは、あのピストルだった。


「何の冗談?」

「これが冗談に見えるか」

「絵に描いたような優男に絵に描いたようなリボルバー、そして絵に描いたようなこの状況。何もかもが嘘くさいわ」


 そう言うと女はピストルを口に咥えた。すかさず撃ち抜こうとしたが、弾を入れるのを忘れていた。冷静になれ、冷静になれ。そう呟きながら封筒を取り出し、その中身を床にばら撒いた。


「何だ?」

「あら、気が利くのね。ちょうど見に行こうと思っていたの、この公演」

「俺は弾丸を……」

「間違えたのね、BulletとBalletを。よくある話だわ」


 何という話だ。口にする言葉が浮かんでこなかった。

 封筒の中身は、今夜開演するバレエのチケットだった。それも二枚。


「私たちを結ぶ糸は血の色に染まっているみたいね、すごく真っ赤だわ」

「……」


 さて、どうしたものか。

 さっきまでの出来事をなかったことにできるはずもなく、俺は今朝目覚めたときからの失敗を思い返して、思わず天を仰いだ。シャワールームに女の下品な笑い声が反響した。


「許してあげるわ、貴方のこと。もう絶対に離さないわ」

「どうして、許してくれるんだ……」

「だってこんなに愚かな人、他に見当たらないでしょう? きっと人生退屈しないわ。さて、着替えましょうか」

「どこへ行くんだ?」

「決まってるじゃない。ピストル・バレエを見に行くのよ」

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